自らで試したカルテを公開!美濃の隠れた名将・稲葉一鉄の医術心得

 歴史上、東西交通の要衝であり激戦地となってきた美濃の国(現在の岐阜県あたりに相当)は、過酷な戦乱の環境からか多くの智将・名将を輩出しました。織田信長の岳父にあたる「斎藤道三」、信長の天下覇業に立ちふさがった「明智光秀」などの武将が有名ですが、隠れた名将として「稲葉一鉄」の名を忘れるわけにはいきません。

 稲葉一鉄は美濃国安八郡の曾根城主であり、美濃本来の守護であった「土岐政頼・頼芸」の二代、そして土岐氏になり代わった「斎藤道三・義龍・龍興」の三代に仕え、斎藤氏の後には織田の有力武将として戦い、晩年は豊臣氏のもとで天寿を全うしました。

 めまぐるしくパワーバランスの変わる戦国の世において、自身の一族を存続させるためにはより強力な武将との関係性を考慮することは重要な戦術でした。数度にわたって主君を変えつつ、自家を守った一鉄のバランス感覚は特筆すべき点であり、それだけ優秀な武将であったことの証左でもあります。

 本記事ではそんな稲葉一鉄の医術心得にフォーカスしたいと思います!

自身の身体で試す、臨床医術

 一鉄は武勇だけではなく文化面にも優れた教養をもち、ある種学者肌な面をもった人物だったとも考えられます。その姿勢がもっとも如実に表れたのが、戦陣での医療に関する事柄です。

 戦国時代、軍事行動中の傷病には「陣僧」などとよばれた従軍僧侶が治療・救護にあたることがあり、特に時宗に関連する人材の活動が目立ちます。

 しかし、必ずしも専門の軍医を伴うことができたわけではなく、仲間同士や自分自身で傷や病気の処置をしなければならないこともしばしばでした。

 著名な『雑兵物語』にも仲間内で刺さった矢を抜く様子などが描かれていますが、一城の主である一鉄も自ら自身の治療を行ったことがわかっています。

 天正4年(1576)、織田方の将として天王寺表の合戦に従軍した一鉄は激戦によりマラリアのような熱病にかかり、その翌日には左足の親指に激痛を伴う腫物が生じました。自身で診察を行った一鉄はこれを「瘭疽(ひょうそ)」、つまり細菌感染による炎症の一種と判断。針で突いて内部の膿を出すことを試みます。

 しかし歴戦で硬質化した皮膚には針が通らず、酢を含む薬で患部を軟化させる方策をとりますが、それでも針は通りませんでした。そこで応急処置としてある漢方薬を内服したところ快癒し、同様の腫物に対する治療法としての有効性に確信をもったといいます。

 一鉄はこのように自身の身体を用いて症状の分析・処置を行い、その効果や方法を実証的に検討するということを実践していたのです。

治験記録を公開・共有

 一鉄が実施した上記の事柄は『稲葉文書』に記録されており、しかも複数種の症例とそれに対する内服薬の処方箋について実効のあったものをまとめています。

 一鉄が用いた内服薬は「味蒡」という漢方薬だったようですが、これをベースとしてそれぞれの症状ごとに効果を発揮した実例を列挙しています。

 特筆すべきは、味蒡が効かなかった特定症状も挙げ、そこに他の薬種を加えることで効果を発揮した、といった治験事例をも掲載している点です。おそらく効果に対しての確証を得られるまでにはいくつもの他の薬種や組み合わせを試行錯誤したはずであり、非常に実証的な研究成果を情報開示していることがわかります。

 また、それらの症例と処方箋には分量も明記されており、その時の状態で本復にいたった用量を正確にカウントしていたことになります。

 このように、確実な臨床例と地道なデータの蓄積を行い、医療知識を共有財産としたことは一鉄の大きな功績のひとつといえるでしょう。

 また痘瘡、つまり天然痘の治療にあたった実績もあり、駆瘀血・鎮痛・緩和・解熱・消化などの作用がある漢方の処方で本復させたことが記録されています。もちろん種痘法確立以前のことであり、天然痘そのものの完治を意味するものではありませんが、その症状への対症療法として的確な処方であったことが指摘されています。

公家社会とのつながりによる漢方知識

 これまでに見た通り、外科・漢方ともに深い見識を持っていた一鉄ですが、ことに「秘薬」と称された家伝薬の製剤にも通じていました。

 これは「坎方(かんほう)」「鶯方(おうほう)」と呼ばれたもので、公卿の「三条西公条」から伝授された秘方でした。公条はやがて正二位・右大臣にまで昇った当代随一の文人であり、多くの戦国武将とも親交がありました。坎方・鶯方ともに「沈香」や「丁子」など舶来の香木やスパイスを含む贅沢な薬種を用いるもので、実に公家らしい薬といえるかもしれません。

 一鉄は三条西家の娘を妻に迎えており、公条は一鉄にとって岳父にあたる人物でした。そのために公家秘伝の薬の調合を相伝されることになったといえるでしょう。

 文化面での教養の高さと、姻戚関係による有力公卿との独自パイプは、一鉄にとって医療の面でも大きな恩恵となったのでした。

おわりに

 策謀渦巻く戦国の世を見事に渡り切った稲葉一鉄は、その医術を通して冷静で実証的な視点をもった武将だったという印象を与えます。自ら試し、その成果を記録して広く共有する。そんな現実に即した姿勢こそが、彼を名将たらしめた「医術心得」だったのかもしれませんね。


【参考文献】
  • 『雑兵物語 2巻(写)』 江戸末期 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
  • 『戦国武将の健康法』 宮本義己 1982 新人物往来社
  • 建勲神社

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  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術についての考察記事を中心に執筆。 全国の史跡を訪ねることも多いため、歴史を題材にした旅行記事も書く。 「帯刀古禄」名義で歴史小説、「三條すずしろ」名義でWEB小説をそれぞれ執筆。 活動記録や記事を公開した「すずしろブログ」を ...

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