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幼くして医療を重視した剣豪将軍!足利義輝の診脈心得について

帯刀コロク
 2020/09/07

診脈する足利義輝イラスト

室町幕府の足利将軍といえば、草創期を除いてどちらかというと公家化していくような印象を受けないでしょうか。 武家の棟梁としての軍事行動というよりは、文化面での充実に貢献した将軍も多く、能楽や茶の湯等々、今日に伝わる偉大な芸術には室町時代に大成したものも少なくありません。

そんな足利将軍のうち、武人としての姿を鮮烈に印象付けたのが第13代「足利義輝」です。 幕府そのものの求心力が強固ではなく、台頭勢力からのプレッシャーに常時脅かされていた当時の将軍家において、悲劇的な最後ながらその矜持を見せつけた剣豪将軍として知られています。

そんな義輝ですが、武芸だけではなく医療にも深い見識をもっていたことはあまり知られていません。 義輝は幼くして医術と健康の重要性を理解していたと思われる痕跡があり、特に脈をはかる「診脈」の術を修めました。

今回は、そんな剣豪将軍・義輝が重視した診脈心得についてフォーカスしてみましょう。

診察の基本、診脈とは

当時の伝統的医療の診察術のひとつとして、「脈を診る」ことが大切なステップでした。 現代医学でも脈拍は血圧や呼吸、体温などと並ぶ「バイタルサイン」として、患者の生命活動の様子を知る上での重要な情報となっています。

時代劇などで侍医が「脈をとる」というシーンが描かれることがありますが、これは実際に医師が身体に触れてその状態を確認したり、顔色や声の様子、肌の状態等々を観察・触診したりする機会でもあったようです。

このように、可能な限りのバイタルサインを観察・分析するのが診察の第一歩であり基本であったといえるでしょう。

10歳にして将軍に!優秀な医師人材を発掘

義輝が征夷大将軍に就任したのは天文15(1546)年、わずか満10歳でのことでした。

父である12代将軍・足利義晴は病がちであり、周囲もそれを理解して後押ししたためか、幼少にしてすでに医療の重要性を認識していたと考えられています。

伝統ある医師の間にはヒエラルキーがありましたが、義輝はそれを撤廃。実力・成果主義で優秀な人材を家柄に関わらず登用していきます。

その白眉が、実証的な臨床医術の第一人者として知られる「曲直瀬道三(まなせどうさん)」でしょう。義輝が最初に道三を引見したのも満10歳の頃とされ、すでに道三の能力を周囲も高く評価してのことだったと考えられます。

曲直瀬道三の肖像画(杏雨書屋 蔵)
曲直瀬道三の肖像画(杏雨書屋 蔵)

道三はやがて有力大名ばかりか天皇の診察も行うようになり、使者として地方へと下向する機会も多かったため、各地にその優れた医術を伝えることにもなりました。

このように、義輝の医師人材登用政策は後の医学界を大きく発展させる要因になったといっても過言ではありません。

シンプルかつ実証的な診脈の術

義輝は道三に師事し、自ら医術を学んだことがわかっています。 特に脈拍によって体調や疾病の有無を判断する、「診脈」の術を日常的に実践していたと考えられています。

先述のように、脈をとる方法は古来の医学でも重視されており、そこには複雑な理論が付随していました。 陰陽五行思想に基づいた考え方がベースになっており、例えば男性の脈は普通左で、女性の場合は右でとるのがセオリーとなっています。

これは陰陽の思想に当てはめると男・左が「陽」、女・右が「陰」に相当することに由来しています。

道三流の診脈でも脈の種類ごとに「七表」「八裏」「九道」と複雑な分類があり、これらを識別して病状の判断を行いました。 しかし義輝はこれらをシンプルに捉え、病態やその有無を大局的に判断する方法を用いていたようです。

ごく大まかには、脈の速い・遅い、強い・弱い、多い・少ない、こういった情報をもとにしており、日々の積み重ねと観察で体調の変化を把握することができたと考えられます。

診脈は自分自身でも行うことができるため、義輝はこの術を自身の健康管理に大いに活用したのではなかったでしょうか。

まとめ

幼くして将軍となり、常に諸勢力とのパワーバランスに脅かされる環境で育った義輝は、何よりも自分自身が強くあらねばという気持ちが強かったのではないでしょうか。

剣術の修得はもちろんのこと、医療の充実や健康への配慮は、まずは身体堅固であることの重要性をよく理解していたことの証左に思えます。

悲劇を迎えることになる義輝の最期「永禄の変」ですが、これにはいくつかのエピソードがあります。

『日本外史』によれば、三好三人衆の攻撃で討手に包囲され、自ら古今の名刀を幾振りも畳に突き刺し、それらを次々と取り換えながら「鹿島の太刀」の奥義を尽くして奮戦した……、と伝わります。ただ、この伝承は江戸時代後期に書かれたものであり、史実そのものとは考えにくいようです。

しかし、信ぴょう性の高いルイス・フロイスの著書『日本史』には、義輝が薙刀で戦い、接近すると刀を抜いて戦った様子が記され、その技量のすさまじさを称えています。

この他、太田牛一の『信長公記』にも義輝が自ら白兵戦を行ったことが伝えられ、武人としての技量を後世に印象付けています。

こうした義輝の戦いぶりを支えたのは日々鍛え上げた強靭な心身があってこそのものだったのでしょう。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
  • 『戦国武将の健康法』 宮本義己 1982 新人物往来社
  • 「【総説】伝統医学の可能性―最も古いものに最も新しいものがある―」『日本補完代替医療学会誌 第1巻 第1号』 上馬場和夫 2004 日本補完代替医療学会

  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術に ...


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