【麒麟がくる】第24回「将軍の器」レビューと解説

今回は室町幕府13代将軍・足利義輝の死から描かれました。前回の掘り下げようから見るとたった数分であまりにあっけない最期でしたが、それが義輝の儚さを象徴しているようにも思えました。

死に際に誰も助けに来ない王

御所に三好の軍勢が迫る中、義輝が刀を抜きながらぶつぶつ唱えていたのは『詩経』の小旻(しょうびん)のうち、全六章の最後の部分です。

「敢へて暴虎せず、敢へて馮河せず。人は其の一を知るも、其の他を知ること莫し。戦戦兢兢、深き淵に臨むが如く、薄氷を履むが如し」

「暴虎馮河(ぼうこひょうが)」とは、無謀なことを意味する言葉です。素手で虎に挑み、大河を徒歩で渡るような、血気はやった向こう見ずな行為。

人は物事の一面を知っていても、他面を知らない。戦戦兢兢として、深淵に臨むように、薄氷を履むようにあらねばならない。

「戦戦兢兢」も「深淵に臨んで薄氷を履むが如し」も、今でも使われる表現です。恐怖におののき、危険な立場にあること。落ちないように深淵に臨み、破れそうな薄氷をそっと履んで歩くように、いつも危うさを意識しなければならない。

この小旻は、古代中国王朝の西周最後の王・幽王を諫めた詩です。
幽王は褒姒(ほうじ)を寵愛し、彼女の笑顔見たさに狼煙をあげては諸侯を集め、終いには正室の申后と太子を廃して褒姒を后に、その子を太子に据えましたが、廃された申后の父ら外戚の怒りを買ってしまい、反乱軍に殺されました。

幽王亡き後は廃太子された宜臼が王となり、新たな王朝・東周が始まります。幽王は寵妃の笑顔見たさに意味もなく狼煙をあげて諸侯を呼ぶということを何度も繰り返し、最後の最後、本当に王が危機に瀕しているという状況で助けを求めても、諸侯は誰も集まらなかった、オオカミ少年みたいな最期を迎えました。

義輝は最期になぜこの詩を唱えたのか。「暴虎馮河」、無謀なことをする三好に未来はないという意味だったのかもしれませんし、将軍が討たれようというのに誰も助けにやってこない自分自身の状況を幽王の最期になぞらえた自嘲の意味が込められていたのかもしれません。(実際は誰も助けに来なかったわけではなく、配下は全滅している)。

義輝が幽王のような愚行を繰り返したようには思えませんが、死に際の状況、死後王朝がかわる(義澄系から義稙系へ移る)ところは少し重なります。

義輝の最期

義輝に関しては、前回でほとんど語られ尽くした印象でした。だから最期の「永禄の変」はあっさり描かれたのかもしれません。

義輝は剣豪の塚原卜伝に師事した剣豪将軍として知られ、最期も薙刀や刀で数十人を斬った、という逸話があります。義輝は名刀コレクターでもあり、三日月宗近、鬼丸国綱、大包平、大典太光世、童子切安綱などの名刀を使って次々と敵を斬っていった、という話もあります。

名刀を手に、刃こぼれしては畳に突き刺して刀を替えて戦った。これを映像にすればそれはいい画になったでしょうが、採用されませんでした。実際、上記のような逸話はほとんど江戸時代の創作とされ、どの刀が使われたのかもはっきりしていません。

それに、ひとりで数十人を相手に複数の愛刀を持ち替えて戦い続けるというのは、「麒麟がくる」の義輝像には合わなかったのではないでしょうか。

義輝は前回のラストでもう腹をくくっていたので、今回の演出は儚さもあり、潔い最期だったように思えます。

松永久秀の立場

前回は義輝をどうするかは松永久秀の手にかかっている、久秀を説得しに行こうという展開でしたが、蓋を開けてみれば三好勢はもはや久秀ひとりで抑え込めなくなっていた、というオチ。
血気に逸って動こうとする義継、三好三人衆、久通らの手綱を握っているようでいて、若い世代のすることを把握しきれていなかったようです。

京から追い出すだけだったはずの義輝を三好の軍勢が討ってしまったことに、久秀も驚きを隠せません。細川藤孝と協力して幽閉された覚慶を大和から甲賀へ逃していることからも、久秀は義輝殺害に関与していない、または消極的であった、という近年の説が取り入れられているようです。

このあと、久秀と三好三人衆との対立が表面化していきますが、すでに三好勢が義輝殺害を企てていた段階で彼らは久秀と距離をとっていた、という、三好家中の関係図も見えてきます。

覚慶と義栄

今回にわかに登場した義栄(よしひで)。義輝亡き後、三好勢が次の将軍に推す人物で、義輝や覚慶のいとこにあたります。
父は足利義維(よしつな)で、義輝らの父・義晴の弟にあたり、過去に細川氏の内乱に絡んで義晴と対立し、堺公方と呼ばれた人物でもあります。

覚慶も義栄もたどれば同じ義澄の血筋なのになぜ対立関係に?と思うかもしれませんが、このあたりは細川政元が起こした「明応の政変」が原因で将軍家が二系統に分裂したことによります。

義栄の父・義維は、その父である義澄と対立関係にあった義稙の養子になっているので、「義澄系」か「義稙系」のどちらかといえば「義稙系」です。

三好勢は「いとこ」だから突然義栄を担ごうとしたのではなく、背景には将軍家、細川京兆家、三好氏の内乱の歴史があるのです。

将軍の器

今回のラストで、関白の近衛前久は天皇に対し、「義栄を推す」と言いました。実際は覚慶と義栄が抜きつ抜かれつ競い合うのですが、もう決まったようなものです。

前久と伊呂波太夫の会話は印象的でした。武士ではない者にとって、将軍なんてどっちだっていい。それに、覚慶を擁する三淵藤英や細川藤孝の会話。将軍を守る武士にとっても、将軍の中身はどうだっていいのです。

義栄側はまったく描かれませんが、あちらも同じでしょう。重要なのは自分達の思うように政ができるかどうか。将軍は神輿でしかないのです。

その考えは朝倉義景も同じでしょう。だから光秀が「あのお方はいかがかと存じます」などと言うので驚いた。ここは「あのお方は確かに将軍の器です」とでも言っておけばいいのに。

今回、唯一光秀だけが真っ正直に覚慶を「将軍の器」であるかどうかという目で見ていたのです。だから、「死ぬのが怖い」と言う覚慶を将軍の器にあらずと見たんですね。きっと光秀にとっては義栄も将軍の器ではないでしょう。

この後、義栄派、覚慶派それぞれにとっての神輿が将軍になるわけですが、今回おもしろいなあと思ったのは、神輿であるはずの覚慶が逃亡する際、担ぐ神輿ではなく神輿を担ぐひとりであったことです。

果たしてこののち将軍となった覚慶は藤孝らが思うような神輿でいてくれるのかどうか、怪しくなってきました。


【主な参考文献】
  • 『日本国語大辞典』(小学館)
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 日本史史料研究会監修・平野明夫偏『室町幕府将軍・管領列伝』(星海社、2018年)
  • 丸山裕之『図説 室町幕府』(戎光祥出版、2018年)
  • 福島克彦『戦争の日本史11 畿内・近国の戦国合戦』(吉川弘文館、2009年)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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