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【麒麟がくる】第29回「摂津晴門の計略」レビューと解説

東滋実
 2020/10/26

「麒麟がくる」第二十九回レビュー用

新章に入ってから摂津晴門が登場しましたが、「悪人っぽいけど実は……」という人物が多い中、これほど悪人らしく描かれる人物も珍しいのではないでしょうか。

政所頭人・晴門のもとで腐りきった幕府を刷新したい光秀ですが、そもそも晴門を起用したのは光秀が敬愛してやまなかった義輝さまなのですよ……。

古の悲田院・施薬院

二条城のために寺のものを奪われた僧正の訴えを聞いた後、わずらわしさを払うかのように駒と対面して夢を語る義昭。貧しい人や病人を救うための施設を作りたいのだと言います。

思い描くのは、「古の悲田院や施薬院」のような施設です。

悲田院・施薬院とは、奈良時代、聖武天皇の皇后・光明皇后が貧窮した人々を救うために設置した施設で、これらの施設は仏教の福田(ふくでん/田畑で作物を生み出すように、供養をすることで福徳を生み出す)思想に基づいてつくられたものです。

伝説によれば、さらにさかのぼって聖徳太子が四天王寺四院のひとつとして建てたとも言われます。平安時代には左京・右京に悲田院が置かれており、さらに時代が下って室町時代ごろにも左京の一所は残っていたようです。

哀れむべき貧窮者に施しを与えて福を生み出そうという仏教思想により、古の救護施設を自分の手でつくりたい、という願いは、さすが興福寺一条院の門跡だった義昭ですね。

近衛前久と上杉謙信

鼓打ちに身をやつして逃亡生活を送る近衛前久は、「以前上杉輝虎(謙信)が、今の幕府は己の利しか考えていないと言っていた」と光秀に話します。

前久と上杉謙信との仲は、永禄2(1559)年に当時「長尾景虎」だった謙信が上洛し、意気投合して盟約を結んで以来のものでした。さらにその翌年には、関白の身でありながら謙信を頼って越後に下向し、謙信の関東平定にまでついていったのです。

もっとも、関東平定はなかなかスムーズにはいかず、前久は永禄5(1562)年に帰洛しています。

前久は五摂家筆頭の名門・近衛家に生まれた人物でありながら、意外にも破天荒で、この後も信長の要請で九州に下向して島津氏に「従軍したい」と言ってみたり、ずいぶん行動力のある人だったようです。

また、鷹狩りを好み、信長とも意気投合していたとか。

天道思想

今回も信長の家族エピソードが登場しました。

ある時、父・信秀に「この世で一番偉いのは誰か」と尋ねた信長。信秀はまず「お日様じゃ」と答えたと言います。次いで偉いのは帝、その次は帝をお守りする将軍だと。将軍は帝をお守りする門番に過ぎないのに、その将軍を今は信長が守っています。

お日様が一番偉いよ、というのはおそらく天道思想ですね。

太陽信仰は日本に限らず世界各国に古くからあり、日本では天照大御神が太陽神であり、主神とされています。天道思想も太陽信仰のひとつで、戦国時代にその信仰は根付いていました。

神田千里氏は日本人の天道思想について、「当時の日本人の信仰は個々の神仏それぞれを信じると同時に、神仏全体を包括する天道へも帰依するものであった」(神田千里『戦国と宗教』(岩波書店、2016年)155頁より)と述べています。

戦国時代の日本でキリスト教が受け入れられたのも仏教とキリスト教に共通点が多かったためというのがあり、似たところがある異なる宗教としてではなく、混同し、同じものとして捉えられていた部分もありました。

もとより神仏は一体のものと考えられていた日本で、天道思想は神道、仏教、儒教などさまざまな思想が合わさってできた一神教的な思想でした。

戦国武将の間でも、天道は戦場での命運を左右するものと考えられていました。天道を守れば加護があり、背けば罰が当たる。

信長自身の天道思想がどの程度のものだったかはわかりませんが、『信長公記』で大田牛一は、桶狭間の戦いでの今川義元の死をこのようにまとめています。

「世ハ澆季(ぎょうき)ニ及ブト雖モ、日月未ダ地ニ堕チズ、今川義元、山口左馬助が在所へきたり、鳴海にて四万五千の大軍を靡かし、それも御用に立たず。

千が一の信長、纔(わず)か二千に及ぶ人数に扣立(たたきた)てられ、迯死(のがれじに)に相果てられ、浅猿敷仕合(あさましきしあはせ)、因果歴然、善悪二つの道理、天道恐敷(おそろしく)候なり」

「世は澆季」つまり末世であっても、日月(天道)は何が正しく何が誤りであるかを見ている。因果応報、義元は討たれて死んでしまったのだ。善悪二つの道理は明らかで、天道に背くと恐ろしいことになる。

神田千里氏によれば、天道は

  • 人間の運命を決定する摂理
  • 神仏同然の加護があるもの
  • 世俗道徳の実践を促す
  • 祈祷などの見かけの行為よりも、内面の倫理が天道に通じる

という特徴があります。前回の石仏を雑に扱う描写といい、再び信長の思想に少しだけ触れるシーンでした。

美しい帝

帝をお守りする「門番」のはずの将軍は、信長に手厚く守られ、新しく建てられた二条城の塀は美しく堅固です。

将軍が守るべき帝の御所の塀は破られたままなのに、皮肉なものです。伊呂波太夫に案内されて破れ荒廃した御所の塀を見た光秀は、二条城の塀と比較せずにはいられません。

伊呂波太夫はまた自身の身の上について光秀に語りましたが、今回出てきた新しい情報は、伊呂波太夫が今上帝(正親町天皇)に会ったことがあり、帝のために御所の塀を美しく元通りにしたいと考えている、ということです。

松永久秀は「誰か貢ぐ相手がいるのか」と尋ねていましたが、伊呂波太夫が貢ぐ相手とは、そんじょそこらの男ではなかったのです。

少女のころ、尼寺に入れられると知って「また捨てられるのか」と絶望していた伊呂波太夫に、温石をくれた方仁(みちひと)親王。最近、坂東玉三郎さん演じる正親町天皇のキャストビジュアルが後悔されましたが、キャッチコピーは「美しく高貴な帝」です。

まだ登場してはいませんが、「生まれて初めて人の顔が美しいと思った」と伊呂波太夫が言うほどの人物。伊呂波太夫が京の都を美しくしたいのは、あの美しい人(正親町天皇)に美しいままでいてほしいという思いに通じているのでしょう。

伊呂波太夫は「自分は泥の中で生きているものだから……」と言いました。

伊呂波太夫にとって正親町天皇はまさに泥中の蓮、この汚れて荒廃した世の中でも清らかな存在なのです。推しが住まう都を美しくしたい気持ち、わかります。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 神田千里『戦国と宗教』(岩波書店、2016年)
  • 神田千里『宗教で読む戦国時代』(講談社、2010年)
  • 奥野高広・岩沢愿彦・校注『信長公記』(角川書店、1969年)

  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター ...


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