「益田孝」井上馨とともに先収会社を設立した、のちの三井物産の創業者。箱根や小田原のコレクションでも有名な大茶人

「眼前の利に迷い、永遠の利を忘れるごときことなく、遠大な希望を抱かれることを望む」

この言葉は、幕末から昭和までを生きた、佐渡出身の実業家・益田孝(ますだ たかし)の言葉です。益田孝は、地役人の父親が幕臣になると、孝も江戸に出て最先端の教育を受けることとなりました。通訳としてアメリカ総領事館に勤務し、パリへの使節団にも参加。帰国後には幕府騎兵隊の隊長として、西洋兵学の実践的立場を貫きました。

明治に入ってからは実業家に転身し、大蔵省に出仕。ここで渋沢栄一らと出会い、先収会社を立ち上げます。先収会社はのちに三井物産の母体となり、孝が初代社長に就任。有数の大実業家の一人として、日本の近代化を商業の面から支えていくこととなります。

孝は何を目指し、何を思い、何と戦って生きたのでしょうか。益田孝の生涯を見ていきましょう。

地役人の子、パリへ発つ

佐渡の地役人の子として生まれる

嘉永元年(1848)、益田孝は佐渡国雑多郡の相川で、地役人・益田鷹之助の長男として生を受けました。幼名は徳之進と名乗ります。

家は代々、地役人として佐渡金山に関わっていたと伝わります。孝が後に鉱山経営に関わる素地は、少年時代にあったのかと考えられます。

安政2年(1855)、父・鷹之助は幕臣に取り立てられました。鷹之助が新設の箱館奉行所に転任すると、孝ら一家も箱館に移り住むこととなります。

当時、箱館は横浜屋長崎と並ぶ開港地でした。外国船の来航が増えており、国際色豊かな土地です。孝も当時としては珍しく、奉行所の教育所で英語を学習。海外に触れる経験を得ています。

安政6年(1859)、父・鷹之助が外国奉行支配定役に昇進。江戸詰(えどづめ。大名とその家臣が江戸の藩邸に勤務し在府すること)と決まります。当然、孝も父に違って江戸に移住することになりました。

通訳官となり、パリ使節団の一員に加わる

江戸への移住は、孝にとって大きな転機となります。

当時は英語などの外国語が重要視されてきた時代でした。このとき12歳の孝は外国語修習見習生として最高の教育を受ける機会に恵まれました。14歳のときには試験に合格して幕府の支配通弁御用出役(通訳官)となり、幕臣の末席に加わることになるのです。

孝の勤務地は、麻布の善徳寺にあるアメリカ総領事館でした。初代公使であるタウンゼント・ハリスと接する重要な役割です。そこでさらに本場の英語を学ぶため、総領事館に勤務する傍ら、ミセス・ヘボン(ヘボン博士の妻)に師事します。

ハリス条約のイラスト
ハリスといえば、訪日して1858年に日米修好通商条約(ハリス条約)を調印した人物で有名。

外国との関わりは、孝の前途を開くこととなります。文久3年(1863)12月、幕府がフランスに横浜鎖港談判使節団(よこはまさこう だんぱんしせつだん)を派遣することに決定。孝の父・鷹之助も一員に加わることになりました。

孝は同行を求めますが、当時は親子での洋行は禁じられていました。そのため、変名を用いて家来として一行に参加しています。

孝の洋行は、衝撃的な旅でした。使節団の船は、横浜を出港。上海などを経由してアラビア界を渡ってカイロに上陸。その後、アレクサンドリアまでの陸路をたどり、地中海を船で進むという旅路でした。

スフィンクス像前での横浜鎖港談判使節団
スフィンクス像前での横浜鎖港談判使節団(1864年。出所:wikipedia

元治元年(1864)、マルセイユに上陸した一行は、パリに入り五十日間滞在してます。当時のパリは、皇帝ナポレオン三世の治世でした。市中には下水道が敷かれ、ガス灯や電信が整備されています。近代的な街並みを目にして、孝は衝撃を受けたことでしょう。

江戸幕府の旗本に昇進

同年の7月に一行は帰国しています。孝はより先進的な知識に触れるための努力を始めました。幕府に横浜の運上所での勤務願いを上申。実地での英会話を習う意向でした。

しかし孝は満足しません。最新式の西洋軍隊を日本に導入すべく、自ら実践していきます。慶応元年(1865)には英軍の調練に参加。翌年には幕府軍に入隊しています。

孝は陸軍で騎兵としてキャリアを積んでいます。フランス軍人に師事し、馬術やフランス語を習得。さらに髷を切って散切り頭にするという徹底ぶりでした。慶応3年(1867)には能力を認められて旗本に昇進。まだ20歳という若さでのことでした。

慶応4年(1868)1月、孝は騎兵頭並を拝命。幕府騎兵隊の隊長という立場となります。この任命は徳川慶喜から直々に申しつかったものでした。孝の非凡さは勿論、かけられていた期待の大きさが分かります。

しかし時代は新たな局面を迎えようとしていました。4月には江戸城は無血開城が決定。薩長などの官軍に明け渡され、徳川の時代は終わりを迎えます。孝は開城と御役御免を言い渡されました。

徳川家は駿府70万石を拝領。静岡に移ることとなります。多くの旗本も従いますが、孝はすでに武士から実業家に転身することを決めていました。

先収会社を立ち上げる


井上馨や渋沢栄一らとの出会い

明治時代に入り、孝は商人としての歩みを進めていきます。

明治2年(1869)、当時は自由貿易が活発だった横浜に移住すると、通訳としてウォルシュ・ホール商会に勤務。孝は商取引の見聞を積んでいます。

翌明治3年(1870)、経験を積んだ孝は中屋徳兵衛と名乗って輸出商として船出します。豊富な商取引の知識と経験は、明治政府の知るところとなり、商売仲間から大蔵大輔(大蔵次官)の井上馨を紹介されました。

井上馨の肖像
明治政府での要職、閣僚を歴任し、政財界に多大な影響を与えた井上馨。

明治5年(1872)、孝は井上に見込まれて大蔵省に入省。造幣権頭を拝命します。造幣権頭は、現代でいう造幣局の副局長クラスの地位です。孝は井上のもと、旧幕府時代の通貨から新通貨に転換する業務を担います。旧幕府の旗本から、新政府の役人への転身でした。

井上とともに先収会社を発足させる

しかし孝の人生には、さらなる転換点が待っていました。翌明治6年(1873)、井上は留守政府内で汚職事件を糾弾されて辞職。孝も井上に続いて政府を去りました。

その翌年、井上は先収会社(せんしゅうがいしゃ。旧三井物産の前身)を設立。貿易事業へと乗り出します。先収会社は、銃や毛布などの輸入物を陸軍に納入。さらに米や紙、銅を扱っていました。井上の長州閥のコネクションを活かして莫大な利益をあげます。

孝は副社長に就任し、培った経験や知識で井上を補佐しています。

三井物産の初代社長へ

三井物産の誕生

明治8(1875)年12月、井上は元老院議官を拝命して再び政府に復帰。先収会社は解散となります。しかし同社の収益は、決して小さなものではありませんでした。

孝の才覚に目を付けた大蔵卿・大隈重信は先収会社の事業継続を主張します。当時、大隈は三井組の大番頭・三野村利左衛門と緊密な関係にありました。やがて三井組が先収会社を継承して新会社を立ち上げることになるのです。

これにより、孝は新会社の統轄(責任者)を拝命。社名は孝によって「三井物産」と命名され、明治9(1876)年に三井銀行発足と同時に業務が開始されます。

三井側から三井物産への出資はゼロでした。認められたのは、三井銀行の借越契約5万円と、三井大元方からの10年返済無利息貸付2万2900円のみです。いわば三井物産は、孝による請負事業として始まったのでした。

周囲の期待とは対照的に、三井物産は順調な滑り出しを見せています。
孝は馬に乗って飛び回り、必死に仕事を獲得。政府関係の仕事は井上に、金融関係の仕事は三野村に相談していました。

三井物産は、程なく三井組国産方と合併。創業後半年で、取扱総額は54万円、純益7900円という結果を出しました。
孝は実業家として見事な成功を収めています。
また同年には、私財を投じて『中外物価新報』(のちの『日本経済新聞』)を創刊。自ら解説・論説に筆を取るなどしています。

大手町にある三井物産の本社「三井物産ビル」(写真中央のビル)
2021年現在、大手町にある三井物産の本社「三井物産ビル」(写真中央のビル)。ちなみに左手前から2番目のビルは日本経済新聞社の東京本社ビル。

翌明治10(1877)年には西南戦争が勃発。軍需物資の取引は激増していきます。
孝のもと、三井物産は純益20万円を計上するなど、好況に恵まれていきました。

三井物産は、全三井の主要企業としての地位を固めていったのです。


三池炭鉱の買収に成功する

明治21(1888)年、外務卿・大隈重信は官有物官業の民間払い下げを打ち出します。

払い下げの対象には、三井炭鉱が含まれていました。
当時、三井物産は三池炭鉱産出の石炭を重要輸出品目としていました。
いわば三池炭鉱は海外進出の足場です。
三池炭鉱が他社に渡ることは、三井物産の海外進出策にとって、大きな痛手となることを意味していました。

孝は一般入札での三池炭鉱獲得を決意します。
しかし政府提示の最低価格は、400万円以上という高額なものでした。

買収にあたり、孝は資金調達に向けて動き、三井銀行を説得。100万円の融資を獲得して入札に臨みます。
入札価格は自身が決定。455万5000円で落札することに成功しました。
二番手は三菱でしたが、僅差で競り勝っています。

三池炭鉱獲得に伴い、坑長・団琢磨という人材も得ています。後年、孝が「よく切腹をしなくて済んだものである」と語っています。

小田原の大茶人

表舞台から退く

孝は三井内部での発言力を強めていました。
しかし明治24(1891)年、中上川彦次郎(福沢諭吉の甥)が三井に入り、翌明治25(1892)年に銀行副長となると立場は一変。孝の立場は沈下気味となります。同年には、孝は三井物産の社長職を退任。取締役となります。

中上川は、三井銀行を三井系企業の持株会社にしようと考えていました。
しかし明治34(1901)年、中上川が死去。孝は三井の実権を握り、経営方針を転換させます。
中上川の指示で買収した企業の多くを売却。あるいは三井直営から独立させています。

翌明治35(1902)年には、孝は三井家同族会事務局管理部の専務理事を拝命。事実上の主催者として君臨しました。

大正2(1913)年、孝は三井合名理事長に団琢磨を推薦。自らは相談役に退きます。
翌大正3(1914)年にはシーメンス事件が勃発。同事件を契機として、孝は実権のない立場となりました。

しかし孝の働きは、経済界のみならず国にも認められていました。
大正7(1918)年、孝は男爵に叙任。大正14(1925)年には従四位に叙されています。

小田原の茶人「鈍翁」

孝はかねてから、茶人としても活動していました。
小田原に三万坪の別荘「掃雲臺」を建築。茶人として自らを「鈍翁」と号しています。古い仏画や骨董を収集し、茶入「猿若」を10万円で落札するなど、乙寺の高値記録をつくっています。

もちろん、三井には強い影響力を持ち続けていました。当時の孝は、社員から「大御所」と呼ばれるほどの存在でした。
強大な影響力を持ち続け、三井合名の主要な政策決定に関わっていたのです。

昭和13(1938)年、孝は小田原の別邸にて世を去りました。享年九十一。墓所は護国寺にあります。




【主な参考文献】

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。