「徳川慶喜」近世と近代の狭間を見届けた「家康の再来」!徳川最後にして在職最短の将軍

帯刀コロク
 2021/04/03

徳川慶喜の肖像写真(個人蔵、1866年頃撮影)
徳川慶喜の肖像写真(個人蔵、1866年頃撮影)

ローマ帝国によって実現した200年におよぶ平和な時代を、「パクス・ロマーナ」と呼んでいます。 戦乱がなく秩序が保たれた黄金時代の代名詞ともされますが、日本ではそれより少し長い政権が存在しました。

いわずと知れた江戸幕府がそうで、約260年にもおよぶその時代を「パクス・トクガワーナ」と呼ぶことがあります。 しかし周知の通り、それは明治維新によって終焉を迎えます。そしてそんな徳川幕府最後の将軍が、第15代・徳川慶喜でした。

「家康の再来」とまで評された人材でありながら、最終的には武家政権そのものに終止符を打つ選択をとった慶喜。 今回はそんな激動の時代を見届けた「最後の将軍」、徳川慶喜の生涯についてみてみましょう!

出生~青年期

徳川慶喜は天保8(1837)年9/29、第9代水戸藩主・徳川斉昭の七男として江戸小石川の水戸藩邸で生を受けました。母親は有栖川宮織仁親王の王女・吉子女王(貞芳院)で、幼名は松平七郎麿といいました。

伝説的な名君として尊敬を集めていた第2代水戸藩主・徳川光圀の影響から、斉昭は七郎麿(以下、慶喜)を江戸藩邸ではなく、国許の水戸で養育する方針でした。

生後7か月で水戸へ移った慶喜は同地で教育を受け、満9歳までを過ごしました。 日本最大規模の藩校としても名高い弘道館で文武を学び、その聡明さを印象付けました。 この間に父・斉昭から偏諱を受けて「松平昭致(あきむね)」を名乗ります。

斉昭は長子・慶篤の控えとして慶喜を手許において育てようとしましたが、弘化4(1871)年に老中・阿部正弘を通じて一橋家との養子縁組の話が浮上しました。

これは第12代将軍・徳川家慶直々の意向でもあり、同年9/1に一橋家の家督を相続。12/1には家慶から偏諱を受けて「慶喜」へと名を改めました。

家慶は自ら度々一橋邸を訪れるなど、慶喜に対して将軍候補として相当な期待をかけていたようですが、阿部正弘らから諫められて控えるようになったといいます。

嘉永6(1853)年の黒船来航がもたらした混乱のさなか、家慶は病死。第13代将軍に就任した徳川家定は病弱で跡継ぎの男子が生まれる見込みが薄かったため、その継嗣問題が持ち上がりました。

その候補には、慶喜と紀州藩主であった徳川慶福が擁立され、それぞれの派閥に分かれての政争が繰り広げられました。

結果として安政5(1858)年に大老となった井伊直弼が裁定し、慶福が第14代将軍・徳川家茂として就任。しかし独断で日米修好通商条約を締結した直弼を、父・斉昭らとともに糾弾した慶喜は翌年に隠居謹慎の処分をくだされます。

将軍後見職就任~将軍就任前夜

中央から遠ざけられた慶喜でしたが、安政7(1860)年の桜田門外の変で井伊直弼が斃れ、同年に謹慎を解除されます。

文久2(1862)年7月、慶喜は一橋家を再相続し将軍後見職に就任します。この人事には薩摩・島津久光や勅使・大原重徳の介入があり、勅命を押し立てての運動でした。

同じ頃、越前福井藩主・松平春嶽は政治総裁職に任命され、慶喜と二人で文久の改革を主導しました。 その結果として京都守護職の設置や参勤交代の制度緩和などが実現することになります。

そして家茂は攘夷の実行について朝廷と協議を行うためとして、翌年に上洛することを決定。徳川将軍としては実に約230年ぶりの上洛でした。

これに先行して慶喜は文久2(1862)年12月、将軍名代として京に入り、朝廷との事前協議を重ねました。翌文久3(1863)年1月に孝明天皇への拝謁が実現しましたが、幕府と朝廷の交渉は決裂。

幕府側が「従来通りの国政委任」か「朝廷への政権返上」のどちらかを迫ると、朝廷側は幕府の政権を認めつつも国事への介入を示唆。そのうえ攘夷決行を命じるなど、緊迫した主張の応酬となりました。

これらの動きに反発した松平春嶽は政治総裁職を辞任。一方の慶喜は朝廷の主張を受け入れることを偽装し、家茂が孝明天皇から攘夷決行の節刀を拝受しないよう強引に拝謁を中止させるなどの工作を行いました。

江戸に帰還した慶喜は、朝廷へ攘夷実行を印象付けるために横浜港の鎖港を断行。幕閣の反対を押し切ってのことでしたが、同年に起こった八月十八日の政変で長州勢力を中心とする攘夷派が排除。 10月には海路で再入京し、12月に朝議参与を拝命しました。

しかし横浜鎖港に反対するその他の参与諸侯や、朝廷内での主導権をうかがう薩摩勢力と激しく対立し、時にはあえて自ら声を荒らげたり暴言を吐いたりするなど、あらゆる手段でその動きを封じる素振りをみせました。

元治元(1864)年3/25、参与会議解体後に将軍後見職も辞した慶喜は、代わりに「禁裏御守衛総督」に就任します。

これは朝廷の臣としての性格が強いポジションであり、以降の慶喜は幕府中央とは離れた立ち位置で独自の勢力基盤構築に動きます。 同時に「摂海防禦指揮」も命じられていた慶喜は一時大坂に駐在しましたが同年6~7月にかけて度々参内。7/19に勃発した禁門の変では、自ら御所防衛部隊を率いて奮戦しました。

乱戦のさなか、馬に乗らず徒歩のままで直接敵と剣を交えたのは、歴代徳川将軍のうち慶喜ただ一人とされています。

この事件以降、慶喜は攘夷派との融和方針を完全に改めます。佐幕諸藩との連携を強化しつつ、諸外国勢力へと対応するため朝幕間の工作に尽力しました。

将軍就任~最期

慶応2(1866)年7/20、第二次長州征討のさなか、将軍・家茂が大坂城で死去。連敗していた幕府軍を戦線から離脱させるため、慶喜は休戦の詔勅を引き出すことで戦闘を終結させます。

老中の板倉勝静・小笠原長行らが中央の反対を押し切って慶喜を15代将軍に推挙しましたが、本人は当初これを固辞したといいます。 同年8/20に徳川宗家の相続のみは行いましたが、将軍への就任は12/5の将軍宣下を受けてようやく実現しました。

しかしこの頃の慶喜は明確に開国路線を目指すようになっていたとされ、幕政改革では海外からの援助を受けて近代産業や軍備の拡充に努めました。

慶喜にとって最大の懸念は日本国内での戦乱発生であり、薩摩の武力倒幕を制して国内情勢を安定させる狙いもあり、慶応3(1867)年10/14に政権返上の意を明治天皇に奏上。翌日これに勅許がくだされ、世にいう大政奉還が行われたのです。

しかし翌年に戊辰戦争が勃発、一時大坂城にこもった慶喜でしたが海路で江戸に退避し、各地で新政府軍と幕府軍の激戦が繰り広げられたのは周知の通りです。

明治元(1868)年2/12、江戸城から上野寛永寺・大慈院に移って閉居謹慎した慶喜は、江戸城無血開城とともに水戸へと戻り、弘道館・至善堂で謹慎。同年7月の徳川家駿河移封に伴い、慶喜も宝台院(現在の静岡市葵区)で引き続き謹慎し、これをもって徳川氏の治世は終焉を迎えました。

翌年9月に戊辰戦争が終結したことにより慶喜の謹慎は解除。以降は長い余生を様々な趣味に没頭しながら過ごしたことが知られています。

明治30(1897)年に静岡から東京に移転、明治35(1902)年には公爵の爵位を受けて貴族院議員に就任しました。

新たに起こした徳川慶喜家の家督を明治43(1910)年に七男・慶喜久に譲り隠居。大正2(1913)年11/22、急性肺炎を伴う感冒により満76歳の生涯を閉じました。東京都台東区谷中の、徳川家墓地に眠っています。

まとめ

徳川慶喜という人物を語る際、「徳川最後の将軍」「日本史上最後の征夷大将軍」「在職最短の将軍」等々、武家政権の終焉に絡めた文脈でイメージされることが多いのではないでしょうか。

戊辰戦争で将兵を置き去りにするような振る舞いや、隠居時代に旧臣への無関心を思わせるような態度から評価の分かれるところは多分にあります。

しかし明確な思想と目的意識をもって、大規模内乱と外国からの侵略を阻止しようと奔走したことがよくわかります。 それらすべての行動の真意が、今後の研究で解き明かされていくのかもしれませんね。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
  • 『日本人名大辞典』(ジャパンナレッジ版) 講談社
  • 茨城県立歴史館 徳川慶喜15代将軍となる

  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術に ...


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