「原田左之助」新選組十番隊組長。『るろうに剣心』相楽左之助のモデルとなった漢の激動生涯

  • 2026/05/22
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 新選組のなかでもひときわ破天荒で、同時にどこか憎めない愛嬌を持つ男、原田左之助(はらだ さのすけ)。人気漫画『るろうに剣心』の主要キャラクター・相楽左之助のモデルとしても知られ、今なお多くの歴史ファンの心を掴んで離しません。

 豪快な槍さばきで京都の夜を駆け抜け、最後は時代の荒波に消えていった左之助。彼は一体何と戦い、どのような生涯を駆け抜けたのでしょうか。

 戦いと情愛に満ちたその激動の生涯に迫ります。

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松山藩の中間として奉公

松山藩中間の子

 天保11年(1840)、原田左之助は伊予国松山の矢矧町(現・愛媛県松山市)にて、松山藩の中間(ちゅうげん)・原田長次の長男として生を受けました。のちに諱(本名)を「忠一」と名乗ることになる少年の旅路は、ここから始まります。

 「中間」という身分は、いわゆる正規の武士ではなく、「武家奉公人」と呼ばれる非武士の階級でした。当時の武家奉公人には、雑務や警護を担う「若党(わかとう)」、さらに雑用を行う「小者」といった区分があり、中間も基本的には武士に奉公する立場にすぎませんでした。

 しかし、中間は他の奉公人とは一線を画していました。藩によっては苗字帯刀が許され、実質的に「譜代の足軽(下級武士)」と同等に扱われることも珍しくなかったのです。この場合、身分は世襲として代々受け継がれていきました。原田家もまさにその一例であり、左之助の心には「自分はただの奉公人ではない」という強い自負が芽生えていくことになります。

江戸詰めと反発心

 やがて成長した左之助は、父と同じく松山藩の中間として出仕。安政2年(1855)頃には、念願の江戸詰(江戸勤務)を命じられます。

 翌安政3年(1856)には、松山藩の目付役を務める内藤家(150石)へと派遣されることに。この内藤家の長男こそ、のちに松山を代表する俳人となり、正岡子規らとともに雑誌『ホトトギス』で活躍する内藤鳴雪(助之進)でした。

内藤鳴雪の肖像(出典:wikipedia)
内藤鳴雪の肖像(出典:wikipedia)

 当時、左之助は7歳年下だった助之進をとても可愛がり、よく一緒に遊んでやったといいます。後年、内藤鳴雪は左之助の印象を回想しています。

「怜悧(頭の回転が速い)で容貌は美男」

 しかし同時に、鳴雪は左之助が中間部屋で厳しい折檻を受けている姿も目撃していました。左之助は年少者や弱者にはこの上なく優しい反面、目上の者に対しては、傲慢だったといいます。この彼の強い反発心が、のちに大きな事件を引き起こすことになります。

切腹と脱藩

 安政4年(1857)頃、左之助は江戸から郷里の松山へと帰還します。しかし、江戸の風を浴びて一段と尖った左之助の行動は、周囲の目には「奇行」と映るようになっていきました。時には褌(ふんどし)一丁という出で立ちで、太鼓をドコドコ打ち鳴らして外を練り歩く姿が目撃されるなど、そのエネルギーは完全に持て余されていました。

 この頃の左之助に、有名な切腹エピソードがあります。あるとき、左之助は些細なことから、上役の武士と喧嘩となりました。上役は左之助に対し、「切腹の作法も知らぬ下郎」と罵ると、これにカッとなった左之助は、本当に腹を切ってしまいます。幸い傷は浅手で、命に関わる怪我にはなりませんでしたが、腹には一文字の刀傷が消えずに残ったといいます。

 この切腹事件については「脱藩のときに駕籠(かご)の中で行った」という説もありますが、いずれにしろ切腹したという事実は確かなようです。

 この後、左之助は生まれ育った松山藩を脱藩して流浪の旅へと身を投じることになります。

試衛館の熱き絆。新選組の「切り込み隊長」へ

種田流の免許皆伝

 松山を飛び出した左之助は、大坂(大阪)へと向かい、武者修行の日々を始めます。ここで彼は、種田流槍術の谷三十郎(のちの新選組七番隊組長)に師事。もともと身体能力が高かった左之助は、めきめきと頭角を現し、のちに「免許皆伝」を伝授されるまでになりました。

 その後、時期ははっきりしませんが、左之助は江戸へ上り、市ヶ谷の試衛館道場に食客として転がり込んだようです。ここで道場主の近藤勇や、門弟の土方歳三、食客の永倉新八らと出会ったとみられ、その人間関係は後に京の都で活動する上での母体となりました。

天然理心流剣術の道場・試衛館跡(東京都新宿区市谷柳町25)
天然理心流剣術の道場・試衛館跡(東京都新宿区市谷柳町25)

 文久3年(1863)、朝廷を警護すべく上洛する将軍・徳川家茂の護衛を名目に「浪士組」の募集が始まると、左之助は近藤らとともに迷わず参加を表明。京都へ到着後、浪士組が分裂すると、左之助は近藤・土方らと行動をともにし、京都残留を決意します。こうして結成された「壬生浪士組(のちの新選組)」は会津藩御預かりとなり、血で血を洗う京都の治安維持業務へと突き進んでいくことになります。

新選組の実行部隊

 新選組の組織が整うと、左之助は永倉新八らと共に幹部格である「副長助勤」を拝命。いかに近藤や土方から厚い信頼を寄せられていたかが分かります。

 左之助の本領は、その圧倒的な「戦闘力」にありました。文久3年(1863)の9月、水戸派の筆頭局長・芹沢鴨の粛清劇に参加。さらに長州藩の間者(スパイ)であった楠小十郎の殺害など、組織の闇の任務をことごとく遂行しました。好戦的な性格だった左之助は、楠の殺害後には、「良い気持ちだ」と言い、その不謹慎さに近藤勇から叱られたエピソードも残っています。

 元治元年(1864)を迎えると、新選組と左之助の戦いはさらに激化していきます。同年5月、新選組と激しく対立していた西町奉行所与力・内山彦次郎を、土方や永倉とともに大坂にて暗殺。その遺体を市中に晒すという大胆不敵な行動に出ます。

 そして同年6月、幕末史最大の捕縛劇「池田屋事件」が勃発。このとき、狭い屋内に大槍を抱えて突入した左之助は、逃げた過激派志士を追って槍で仕留めたとか。また、「左之助戦死」のウワサが出るほどの奮戦ぶりだったと伝わります。

 勢いに乗る新選組は、翌7月の「禁門の変(蛤御門の戦い)」にも出陣。左之助は永倉とともに九条河原から御所へと急行し、日野邸付近で敵と激闘を繰り広げて左肩を負傷したといいます。

京での私生活と、坂本龍馬暗殺の疑惑

まさとの結婚と長男・茂の誕生

 修羅の巷と化した京都で、左之助は戦いだけの日々を過ごしたわけではありません。慶応元年(1865)、左之助は商家の菅原某の娘であった「まさ」を妻に迎えます。まさは左之助より8歳下だったと伝わります。

 二人は本願寺筋釜屋町七条下ルにささやかな借家を構え、新婚生活をスタートさせました。翌慶応2年(1866)には、待望の長男・茂(しげる)が誕生。この「茂」という名は、14代将軍・徳川家茂から一字を拝領したものでした。非番の日には茂を抱いたまま屯所を訪れ、子供の自慢話をするなどしていたと伝わります。

 家庭を持ったことで守るべきものができた左之助ですが、新選組内での重要度は増すばかり。この頃は組織の「小荷駄方(こにだがた)」も兼任していり、武器の運搬や兵糧の確保、生活全般の庶務を取り仕切る、重要な後方支援業務も担っていました。そしてひとたび戦いとなれば「十番隊組長」として一隊を率い、殿軍(味方を逃す任務)という苛烈な立場を任されていたようです。

 同年9月の「三条制札事件」においては、高札を引き抜こうとした土佐藩士らと命懸けの乱闘を展開。任務後には会津藩から20両(現在の価値で約200万円)の褒賞金を授与されています。

左之助が坂本龍馬の暗殺犯?

 翌慶応3年(1867)6月、新選組はこれまでの功績が認められ、正式に幕臣(徳川将軍家の直臣)へと取り立てられます。左之助も「見廻組肝煎(みまわりぐみきもいり)」という扱いとなりました。中間出身の左之助には異例の出世と言えるでしょう。

 しかし、その名声が高まるにつれ、不穏な影も這い寄ります。同年11月15日、京都河原町の近江屋において、土佐藩の坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺される事件(近江屋事件)が発生。このとき、左之助に「犯人」の疑いがかけられたのです。

 これは元新選組幹部で、御陵衛士の伊東甲子太郎が、現場に落ちていた鞘を「左之助のもの」と新政府側に証言したことが発端でした。さらに、襲撃されながらも数日間生き延びた中岡慎太郎が、「こなくそ!」と言う犯人の言葉を聞いたと証言。この「こなくそ」という言葉が、左之助の故郷である伊予国の方言であったことも、疑惑に拍車をかけました。ただ、これは御陵衛士による先入観や誤認だったとする見方が一般的であり、暗殺の実行犯は京都見廻組説が有力です。

 御陵衛士と新選組とは敵対関係にありましたが、この因縁は、この後すぐに血の決着を迎えます。同年12月8日、新選組は京都油小路において御陵衛士を急襲(油小路の変)。組織を壊滅に追い込みます。この乱戦の中、左之助は御陵衛士の最強剣士・服部武雄を仕留めたとされています。服部は新選組在籍時には、隊内随一の剣と柔術の使い手と言われていました。そんな服部を撃破した左之助の技量は、沖田総司や斎藤一ら肩を並べるほどに高いものがあったのでしょう。

「彰義隊」に合流。左之助の最期

 油小路の変からわずか3日後の12月11日、左之助は妻のまさに金銭を預けます。激動する京の情勢のなか、当分の暮らしむきに当てるためのものでした。

 もはや旧幕府軍と薩長を中心とする新政府軍の衝突は避けられず、左之助自身も生きて再び妻子の元に戻れるかもわからないと覚悟していたはずです。このとき、まさは二人目を妊娠中だったといいます。しかし非情にも、この日の会話が、最愛の妻との永遠の別れとなってしまいます。

※参考:戊辰戦争の大まかな流れ。赤は新政府軍、青は旧幕府軍の動き
※参考:戊辰戦争の大まかな流れ。赤は新政府軍、青は旧幕府軍の動き

 明けて慶応4年(1868)1月、鳥羽・伏見の戦いで新政府軍の近代兵器の前に敗北を喫した新選組は、江戸へと撤退。その後、左之助らは「甲陽鎮撫隊」として甲州勝沼の戦いに挑みますが、ここでも大敗を喫します。

 江戸への敗走の途中、これからの戦い方を巡って、左之助と永倉新八は、近藤勇と激しく衝突してしまいました。「武士としてどう死ぬか」──意見の相違は埋まらず、ついに二人は試衛館以来の盟友であった近藤と袂を分かつことを決意。ここに新選組の初期メンバーは完全に分裂してしまいます。

 新選組を離脱した左之助と永倉は、独自の抗戦組織「靖兵隊(せいへいたい)」を結成。引き続き旧幕府の意地を見せるべく、北関東での再起を図ります。しかし、靖兵隊が江戸を離れようとしたその瞬間、左之助は突如として戦列を離脱します。「用事を思い出した」と言い残し、彼は一人、江戸へ引き返していったのです。

 左之助が向かったのは、上野の寛永寺でした。そこでは、徳川慶喜の助命と旧幕府の復権を叫ぶ「彰義隊(しょうぎたい)」が、新政府軍を迎え撃つべく気勢を上げていました。左之助のなかにくすぶる「幕臣としての誇り」が、江戸を捨てて逃げることを許さなかったのかもしれません。

主戦場となった東叡山寛永寺の黒門(『旅の家つと 第29 都の巻』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
主戦場となった東叡山寛永寺の黒門(『旅の家つと 第29 都の巻』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 同年5月15日、のちに「上野戦争」と呼ばれる戦いがはじまります。降りしきる雨のなか、左之助は前線で奮戦するも、新政府軍の銃撃を受けて戦場から運び出されます。その後、本所にある旧幕臣の神保山城守の屋敷に運ばれますが、5月17日に亡くなりました。

 享年二十九。戒名は正誉円入大居士。入隊時期が遅かったためか、彰義隊の名簿に名前は載っていないとのことです。

おわりに:馬賊としての生存説

 なお、左之助には生存したという説もあります。

 上野で生き延びた左之助は、その後に新潟に向かい、そこから下関を経て、船で朝鮮の釜山に渡ったと伝わります。大陸へ渡った左之助は、馬賊を旗揚げ、その頭目として勢力を築いたとか。また、日清戦争(あるいは日露戦争)のときに、松山に昔語りをする軍人の風体をした老人が自身を「原田左之助」と名乗ったといいます。

 明治40年(1907)頃の愛媛新聞では、左之助が故郷の弟家族と再会を喜び、その後に「満州に帰る」と言い残し、去っていったという話が報じられたといいます。

 これらの伝説の真偽は定かではありません。しかし、これほど荒唐無稽とも言える生存説が生まれるほどに、原田左之助という男は人々に愛され、人気があったのでしょう。

 左之助が去った後、妻のまさは激動の明治・大正を生き抜き、昭和5年(1930)まで命を繋ぎました。晩年の彼女は、新選組の証言をまとめた子母澤寛の『新選組始末記』・『新選組遺聞』・『新選組物語』に左之助のことを語っています。

 褌一丁で太鼓を叩き、意地で腹を切り、我が子を愛した、不器用で真っ直ぐな漢。幕末を全力で駆け抜けた原田左之助の足跡は、妻の記憶を経て、今なお私たちの胸に鮮やかに生き続けているのです。

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【参考文献】
  • 伊東成郎・菊池明・結喜しはや『土方歳三と新選組10人の組長』(新人物往来社 2012年)
  • 菊池明『新選組十番組長 原田左之助』(新人物往来社 2009年)
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  この記事を書いた人
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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