「原田左之助」新選組十番隊組長。るろうに剣心の相楽佐之助のモデルとなった男!
- 2021/04/29
「切れ、切れ」と叫ぶ短気な男。
新選組の一隊の長となった、原田左之助(はらだ さのすけ)を称した言葉です。
左之助は松山藩の中間から脱藩、やがて新選組に加入します。隊の幹部でありながらも最前線で戦い、近藤や土方の厚い信任を受けていました。幕臣となった左之助は、妻子と別れ、新選組を離れても戦い続けます。
左之助は何と戦い、どう生きたのでしょうか。
原田左之助の生涯を見ていきましょう。
松山藩の中間として奉公する
松山藩中間の子として生まれる
天保11(1840)年、原田左之助は伊予国松山の矢矧町で松山藩の中間(ちゅうげん)・原田長次の長男として生まれました。諱は忠一と名乗ります。
中間は武家奉公人と呼ばれる非武士の身分です。武家奉公人は正規の武士に奉公することを職務としていました。
他に非武士の身分として若党(雑務や警護)や小者(雑用)がありました。
しかし中間は他の武家奉公人とは同じではありません。藩によっては苗字帯刀を名乗ることが許され、譜代の足軽(下級武士)と見なされます。その場合は世襲として身分が継承されることになっていました。
江戸詰めと反発心
左之助の場合は、まさにその一例だったようです。
やがて父・長次と同じく中間となり、松山藩に出仕。安政2(1855)年頃には江戸に詰めています。
翌安政3(1856)年には、松山藩目付の内藤家(150石)に派遣されます。
この家の長男に内藤助之進(のちの内藤鳴雪)がいました。助之進は後に松山を代表する俳人となり、雑誌『ホトトギス』でも活動しています。
左之助は七歳下の助之進を可愛がり、良く遊んでやったといいます。
内藤鳴雪はのちに左之助のことを「怜悧(頭の回転が速い)で容貌は美男」であったと語っています。
同時に内藤は左之助が中間部屋で折檻を受ける様子も目撃していました。左之助は幼い者には優しい反面、目上の者には傲慢だったといいます。この左之助の目上に対する反発心は、後に大きな事件を起こすこととなります。
切腹と脱藩
安政4(1857)年頃、左之助は松山に帰還。江戸のときと変わらず、中間として藩に奉公を続けます。
しかし左之助の行動に奇行が目立ち始めました。褌一つで太鼓を打ち鳴らして外を歩く左之助の姿が目撃されます。さらには短気ゆえにある事件を起こします。
あるとき、左之助は上役の武士と喧嘩となりました。上役は左之助に「切腹の作法も知らぬ下郎」と罵ります。
カッとなった左之助は、本当に腹を切ったと伝わります。
幸い傷は浅手で、命に関わる怪我にはなりませんでしたが、腹には一文字の刀傷が消えずに残ります。
切腹は脱藩の時の駕籠の中という説もありますが、いずれにしろ切腹したという事実は確かなようです。
新選組の幹部格として活動する
種田流の免許皆伝
脱藩後、左之助は大坂に武者修行を始めます。
ここで種田(宝蔵院)流槍術の谷三十郎(後の新選組七番隊組長)に師事。槍術の手解きを受け、後に免許皆伝を許されました。
次に左之助は江戸に上ります。
ここで市ヶ谷の試衛館道場に食客として逗留。道場主の近藤勇や、門弟の土方歳三、食客の永倉新八らと盟友となります。ここでの人間関係は後に京の都で活動する上での母体となりました。
文久3(1863)年、近藤らと共に浪士組に参加します。
これは上洛する将軍・徳川家茂の警護のためと称して募集がかかっていました。
しかし上洛すると浪士組は分裂。左之助は近藤勇らと共に壬生浪士組(新選組の前身)を結成。会津藩御預かりの身分となり、京都の治安維持業務に取り組むこととなります。
新選組の実行部隊
ここで左之助は永倉らと共に幹部格である副長助勤を拝命。近藤と土方から厚い信頼を受けていたことがわかります。
同年9月の筆頭局長・芹沢鴨粛清や長州の間者・楠小十郎殺害も実行。戦闘活動において確かな手腕を発揮しています。
左之助は好戦的な性格をしており、楠殺害後に「良い気持ちだ」と言っていたと伝わります。その時は近藤に叱られるなど、近い人間関係は京でも続いていたことがわかります。
元治元(1864)年は、左之助や新選組にとって激動の年となりました。
同年5月に大坂に下り、新選組と対立した西町奉行与力・内山彦次郎を土方や永倉らと暗殺。市中に晒すという行動に出ています。
6月には京の池田屋に出動。左之助は屋内に斬り込みを敢行し、逃げた浪士を槍で倒しています。ここで戦死の噂が出るほどの奮戦ぶりだったと伝わります。
7月には禁門の変にも出陣しています。左之助は永倉と共に九条河原から御所に移動。日野邸付近で敵と激闘を繰り広げて左肩を負傷しています。
京都の最前線で戦う
まさとの結婚と長男・茂の誕生
京において、左之助は戦いだけの日々を過ごしたわけではありません。
慶応元(1865)年、左之助は商家の菅原某の娘・まさを妻に迎えました。まさは左之助より八歳下だったと伝わります。
二人は結婚すると本願寺筋釜屋町七条下ルで、借家住まいを始めます。
翌慶応2(1866)年には長男・茂が誕生。この名前は将軍・徳川家茂から一字を取ったものでした。
非番の日には茂を抱いたまま屯所を訪れ、子供の自慢話をするなどしていたと伝わります。
所帯を持った左之助ですが、新選組の幹部であり続けました。
この前年には小荷駄方を拝命。後方支援業務(武器の運搬や生活全般の庶務)を担当していました。
戦時には十番隊組長として一隊を指揮。殿軍(味方を逃す任務)という苛烈な立場を任されていたようです。
これらの働きが認められ、同年6月に新選組は幕臣に取り立てられました。
左之助も見廻組肝煎という扱いとなっています。中間出身の左之助には異例の出世と言えます。
しかし左之助は最前線で戦い続けました。同年9月の三条制札事件にも出動。土佐藩士と命懸けの戦いに及び、会津藩から20両(約200万円)の褒賞を受け取っています。
坂本龍馬の暗殺犯として名が挙がる
慶応3(1867)年11月15日、京の近江屋において坂本龍馬が暗殺されるという事件が起きました。
このとき、左之助は犯人の一人として疑惑がかかります。元新選組幹部で、御陵衛士の伊東甲子太郎は、現場に落ちていた鞘を左之助のものと証言したのです。
さらに龍馬と共に襲われた中岡慎太郎は「こなくそ」という犯人の言葉を聞いたと言い残します。これは伊予国の方言でした。
しかしこれは御陵衛士による先入観や誤認のようです。
御陵衛士は新選組と敵対関係にありました。御陵衛士らには、左之助が実戦部隊の主導的立場と認識されていました。
同年12月8日、新選組は油小路において御陵衛士と衝突。壊滅に追いやることに成功しています。
左之助はここで御陵衛士の服部武雄を仕留めています。服部は新選組在職時には、隊内随一の剣や柔術の使い手と言われていました。
服部を仕留めた左之助の技量は、沖田総司や斎藤一と肩を並べるほど高いものがあったようです。
新選組を脱退する
上野の彰義隊に参加する
同年12月11日、左之助は妻のまさに金銭を預けます。当分の暮らしむきに当てるためのものでした。
すでに旧幕府と薩長の新政府が衝突することは確実な情勢です。
左之助は当面の間は会えないと覚悟していました。このとき、まさは二人目を妊娠中だったといいます。
そしてこのときのまさとの会話が最後となりました。
鳥羽伏見の戦いで敗北すると、左之助は近藤たちと江戸に撤退。その後は甲州勝沼の戦いでも戦っています。
しかし勝沼からの敗走途中、左之助と永倉は近藤と衝突し仲違いをしてしまいました。
ここで二人は袂を分つことを決め、新選組の初期メンバーは完全に分裂。左之助と永倉は靖兵隊を結成。引き続き旧幕府の一員として新政府と戦う道を選びます。
しかし精兵隊が江戸を離れると、左之助は突如として脱退。「用を思い出した」と言い残して、上野の寛永寺に向かいます。ここには彰義隊が新政府軍に立ち向かうべく、気勢を上げていました。
やがて黒門から戦闘が開始。左之助も前線で戦いますが銃撃されて戦場から運び出されます。
その後本所の神保山城守の屋敷に運ばれ、7月6日に亡くなりました。享年二十九。戒名は正誉円入大居士。墓は寿徳寺にあります。
入隊時期が遅かったためか、彰義隊の名簿に名前は載っていません。
馬賊としての生存説
一方、左之助には生存したという説があります。以下、その話を紹介しましょう。
上野で生き延びた左之助は、その後新潟に向かいました。そこから下関を経て、船で朝鮮の釜山に渡ったと伝わります。
大陸へ渡った左之助は、馬賊を旗揚げ、その頭目として勢力を築いたとか。
日清戦争、あるいは日露戦争のとき、松山には昔語りをする老人がいました。軍人の風体をした老人は「原田左之助」を名乗ります。
明治40(1907)年頃の愛媛新聞には、故郷の弟家族と再会を喜んだという話が載っています。
左之助は「満州に帰る」と言い、姿を消しました。
上述の伝説の真偽は定かではありません。しかし新選組の一員である左之助には、生存説が出るほどの人気があったというのは確かです。そして死んだという確たる証拠もありません。
妻のまさは昭和5(1930)年まで生きています。新選組の証言をまとめた、子母澤寛の『新選組始末記』・『新選組遺聞』・『新選組物語』に左之助のことを語っています。
【主な参考文献】
- 菊池明、伊東成郎、結喜しはや 『土方歳三と新選組10人の組長』 新人物往来社 2012年
- 菊池明 『新選組十番組長 原田左之助』 新人物往来社 2009年
※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄