「斎藤一」隊内一、二の強さと言われた新選組三番隊組長。るろうに剣心にも登場する剣客!

コロコロ
 2021/04/30

斎藤一の肖像写真(当時数え54歳)
斎藤一の肖像写真(当時数え54歳)

新選組には、魅力的な人物が数多く在籍していました。 ここには御家人の息子でありながら、隊内でも3本の指に入るほどの剣客となった男がいます。 三番隊組長の斎藤一(さいとう はじめ)です。

一は古参メンバーとして新選組に参加。主要な戦いは勿論、裏切り者の粛清において多くの手柄をあげます。 時代が明治になると、斗南藩士として生きる道を選択。やがて上京して警視局に奉職することとなりました。

一は時代が移り変わる中、どう自分の道を見定めたのでしょうか。 斎藤一の生涯を見ていきましょう。

御家人の次男から新選組幹部へ

御家人の次男として誕生

天保15(1844)年、斎藤一は武蔵国江戸で、山口祐助の次男として生を受けました。母は「ます」です。

かつて父・祐助は元は播磨国明石藩に使える足軽でした。 祐助は江戸へ上って旗本・鈴木家(一千石)に奉公。二十年ほど勤めあげ、御家人株を買って身分を取得したようです。

当時は長子相続が原則です。一は次男ですから、家督を継ぐには他家に養子入りするしかありません。養子先を確保するためには、周囲に優れた能力を認めさせる必要がありました。

そういう状況の中、一は剣術に熱を注いでいきます。無外流、あるいは一刀流(小野派、溝口派)を修行したとも言われています。

安政年間の後半、すなわち十代の時には市ヶ谷の試衛館道場で剣を学んでいたようです。永倉新八の『浪士文久報国記事』には「稽古人」として、一の名前が記されています。

試衛館は近藤勇が道場主を務めており、ここで天然理心流を教えていました。 この道場には門弟の土方歳三や沖田総司が在籍し、食客として永倉新八や原田左之助らが身を寄せていました。

新選組の初期メンバー

文久2(1862)年、一は江戸で事件を起こします。 小石川関口で旗本と口論となって抜刀。結果、一は相手の旗本を斬り殺してしまいました。

この事実が明るみになる前に、父の祐助は一を逃すことに。一は江戸を出て京の都に逃がれ、父・祐助の友人である吉田某(聖徳太子流の吉田勝見かと思われる)の道場に身を寄せます。

ここで一は優れた剣の腕を評価され、道場の師範代を務めるまでになりました。 この前後から、一は正体を隠すために山口ではなく斎藤姓を名乗っています。

文久3(1863)年、江戸で浪士組の募集が行われました。 これは上洛する江戸幕府14代将軍・徳川家茂の警護と攘夷を行うための組織です。参加者は今までの罪を免除されることになっていました。

江戸で近藤勇らが募集に応じて上洛。一も京で近藤たちと再会を果たし、合流したようです。ここで近藤らは壬生浪士組(新選組の前身)を結成。京都守護職の会津藩御預かりとなり、治安維持業務に邁進していくことになりました。

一の名前は結成同日の名簿に確認できます。ここで幹部職である副長助勤を拝命し、前線で戦うこととなりました。

新選組において最前線で戦う

池田屋事件で手柄を幕府に認められる

元治元(1864)年6月、京に潜伏する尊攘激派による京都大火計画が発覚します。

新選組は尊攘派の集う池田屋に突入。一も土方隊に加わって先行した近藤隊の第二陣として屋内で戦っています。 結果、尊王攘夷派の要人の多くを殺害することに成功。計画を未然に防ぐことができました。

7月には池田屋事件を受けた長州藩兵が京都に進撃。禁門の変が勃発し、新撰組が出動しています。 一ら新選組は会津藩兵とともに敵の残党掃討に従事。天王山に攻め上って、真木和泉らを自刃に追い込むことに成功しています。

これら新選組の一連の働きは、幕府や会津藩からも評価されていました。一は功績によって幕府と会津藩から金10両(100万円)と別段金として7両(70万円)が支給されています。新選組が幕臣になる話も持ち上がるなど、活躍は周囲が認めるところでした。

中でも一の働きは大きなものだったようです。一は副長助勤から三番隊組長に任命され、隊の撃剣師範を務めることになるのです。

粛清の立役者

新選組において、一は粛清活動に目覚ましい功績を挙げています。 長州藩の間者の御倉伊勢武、荒木田左馬之助の殺害をはじめ、五番隊組長・武田観柳斎、七番隊組長・谷三十郎の殺害にも加わりました。

粛清においては、一は個人の暗殺だけでなく策略を用いることもありました。慶応3(1867)年3月、新選組で分隊騒動が勃発します。

参謀兼総長・伊東甲子太郎らが御陵衛士を結成。新選組を離脱して高台寺の月真院に拠点を構えます。 このとき、一は御陵衛士に加わって新撰組を離脱。間者として新選組に情報を流すためのものでした。

一は折りを見て御陵衛士を脱退。間者として怪しまれないよう、金子50両を盗んだ上で姿を消しています。 結果として伊東を暗殺させ、油小路の戦いで御陵衛士を壊滅に追い込むことに成功しています。

しかし粛清の後は、海援隊との戦いが待っていました。 一は御陵衛士脱退後、一時は紀州藩士・三浦休太郎に身柄を預けられました。同年12月には三浦の要請により警護を行います。

当時、海援隊の生き残りが三浦を坂本龍馬暗殺の犯人だと判断。三浦の襲撃を計画していました。 ここで一は新選組隊士と共に敵の襲撃を迎撃し、人斬りと称された中井庄五郎を討ち取る手柄を挙げています。

会津藩と共に生きる道を選ぶ

会津藩のために戦い抜く

慶応4(1868)年、新選組は鳥羽伏見で敗北。一は軽傷を負ったらしく、19日に医学所で治療を受けています。 その後、一は近藤らと共に江戸に帰還。甲陽鎮撫隊として共に甲州勝沼の戦いにも出陣しています。敗北後、新選組は分裂して副長助勤は一だけとなりました。

ほどなくして下総流山で、新選組は新政府軍に包囲されます。近藤は偽名で投降しますが、後に斬首されてしまいます。 土方は国府台の旧幕府軍に参加。一は下妻を経由して会津若松へと向かい、隊長役として指揮をすることになります。

一らは会津藩の指揮下において、白河口の戦いや母成峠の戦いにも参加。しかしいずれも敗北に終わっています。 若松城下に退却の際、一は猪苗代で土方と合流。ここで土方は援軍要請のために庄内へ向かうと告げます。

しかし一はここで会津に残る道を選び、土方たちに別れを告げました。京以来の会津への恩義に応えるべく、ここで戦うことに決めたようです。

城外の如来堂において、一は新政府軍に抵抗。9月22日には会津藩が降伏しますが、その後も一たちの抵抗は続きました。 しかし松平容保が説得のために使者を派遣すると、投降する道を選ぶこととなります。

捕虜となった一は、ここで名前を一瀬伝八と名乗っています。名前が知られることで危険が及ぶ可能性があったためでした。 その後会津藩士らと共に塩川に送られ、後に越後高田で謹慎となりました。しかし途中で一は謹慎先から脱走しています。

二度の結婚

明治2(1869)年、松平家は陸奥国において三万石でのお家再興を許されます。下北半島に斗南藩が立てられ、一も藩士として赴くこととなりました。

明治3(1870)年には、一は五戸村に移住。元会津藩若年寄・倉沢平治右衛門方の長屋に寄宿していました。

明治4(1871)年、一は元会津藩士・篠田内蔵の娘である「やそ」と結婚します。篠田家は会津藩士としては大身の家柄でした。明治5(1872)年の戸籍では、藤田五郎と妻やその名前が確認できます。

しかし明治7(1874)年、二人の関係は破綻したようです。一は やそ を残して東京に出て、やそ は倉沢家に戻っています。

東京に出た一は、ここで旧会津藩大目付・高城小十郎の娘である時尾と再婚を果たしました。 時尾との再婚では上仲人が松平容保、下仲人が旧家老の佐川官兵衛と山川浩らでした。

この頃から、時尾の母方の姓である藤田姓を称し、藤田五郎と名乗りを変えています。一は時尾との間に三人の男子を授かっています。

警視庁に登用される

警部補となる

同年、一は東京で警視局(警視庁の前身組織)に警部補として採用。以降、警察官として奉職することになります。

明治10(1877)年には、西南戦争が勃発。一は大分に出陣して、警視徴募隊の半隊長となりました。 一はこのとき抜刀隊として敵陣に斬り込みを敢行。銃弾を受けて負傷するも、その活躍が東京日日新聞に報じられています。

明治12(1881)年に警視局が廃止されると、一は陸軍省御用掛となります。その後、警視庁の再設置に伴い巡査部長となりました。

明治18(1885)年には警部補に再任、明治21(1888)年に麻布警察署詰外勤警部として奉職し、明治24(1891)年に退職しています。

師範学校の看守として

明治27(1894)年、一は東京高等師範学校の附属東京教育博物館の看守を拝命します。

これは旧会津藩士で、東京高等師範学校校長であった高嶺秀夫らの推挙によるものでした。 明治31(1898)年まで在職し、撃剣師範として学生に指導を行っています。

明治32(1899)年には、東京女子高等師範学校学校に勤務。庶務掛兼会計掛として務めます。ここで一は生徒の登下校時に人力車の交通整理も行っています。

明治43(1910)年に1月に退職。その後は妻の時尾らと共に本郷真砂町で暮らします。酒を飲んでは維新の時の話をして嘆いたと伝わります。

大正4(1915)年、一は東京の本郷の自宅で胃潰瘍のために亡くなりました。享年七十二。臨終に際し、結跏趺坐をして生涯を閉じたと伝わります。墓所は会津若松の阿弥陀寺にあります。


【主な参考文献】

  この記事を書いた人
コロコロ さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 ...


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