徳川兄弟団結の願いと、幕府防衛の要!「御三家」の意味と歴史を解説

 「御三家」という言葉。時代劇や歴史小説では、頻出する歴史用語のひとつといえますね。現代では、ある分野で特に人気や知名度の高い三者を指して御三家という場合があり、よく浸透した言葉として使われています。歴史好きの多くの方がご存じのように、本来は「徳川御三家」についてのことであり、徳川宗家に次ぐ地位の一族でした。

 よく耳にするため、なんとなく「尾張・紀伊・水戸」の藩主を指すことはわかりますが、その細かい位置付けは意外と知られていないのではないでしょうか。そこで今回は、そんな「御三家」の意味と歴史をざっくりとみてみましょう!

御三家とは

 御三家とは基本的に、何らかの事情で徳川宗家に将軍継嗣の人材が輩出されない場合、代わって将軍職を継ぐ者を出すために設けられたといわれています。

 いわば徳川将軍の血統上のバックアップといったニュアンスですが、実際には大名家の上位にある最高位の家格として扱われてきました。

 御三家同士の間では石高や官位の違いがあり、一般に尾張家が筆頭格といわれることがあります。しかし殿中での席次は家督の相続順、あるいは官位の任官順であったとされ、その点では対等だったといえるでしょう。

御三家の特別待遇

 御三家には特別待遇として、さまざまな権利とならわしがありました。たとえば公役がほぼ免除されていること、将軍後継者や老中の選定・選任に参画できることなど、政治的な特権を有しています。

 また、殿中に自身の刀を持ち込むことができ、「城付」と呼ばれる連絡役の家臣は江戸城内を自由に行き来することができました。将軍でさえも御三家に対する礼法というものがあり、面会の際には寝具を取り払って刀掛けから刀を下ろしておくなど、礼を尽くした気遣いのあったことがうかがえます。

 家臣が将軍に謁見することを「目見」といいますが、御三家の場合には特に「対顔」と呼ぶこともあり、このことからも形式的には対等に近い処遇を演出したようでもあります。

 他には、任官叙位の際には一般諸侯には老中が伝えるところ将軍自らが申し渡す、正月の拝礼では将軍に返盃ができる、8代・吉宗以降では将軍交代時の誓詞提出が免除となる等々の特別待遇もありました。

いつごろ確立したか?

 『国史大辞典』においては、御三家に相当する一族内の連携は関ケ原の戦い頃より構想されていたと想定。元和2年(1616)頃にはその形態が整備され、格式は3代・家光の時代に出来上がったとされています。

 「三家」という言葉が幕府法の法文中に登場するのは延宝(1673~81年)末あるいは天和(1681~84年)初め頃とされ、4代・家綱か、5代・綱吉の時代に確立したと考えられています。

 では次に、各家の始祖・官位・石高・立地・特徴などを概観してみましょう。

尾張家

 尾張徳川家は、家康9男・徳川義直(よしなお)を始祖とする家です。

 官位・官職は将軍家を除く極位極官である従二位大納言、寛文11年(1671)に幕府へと上申した公称石高は61万9500石で、御三家中の最高値となっています。

徳川義直の肖像(徳川美術館 所蔵)
徳川義直の肖像(徳川美術館 所蔵)

 尾張は東海道・東山道(中山道)の結節点という交通の要衝で、戦国時代には多くの有名武将を輩出した戦略上の重要拠点でもありました。

 徳川宗家に将軍後継となる男子が絶えた場合、尾張家か紀伊家から養子を出すことになっていました。しかし、歴史上は尾張家出身の将軍はとうとう誕生しなかったことが知られています。

紀伊家

 紀伊徳川家は、家康10男・徳川頼宣(よりのぶ)を始祖とする家です。

 官位・官職は尾張家と同様の従二位大納言、石高は高野山寺領を除く紀伊・大和・伊勢各国の一部を含む55万5000石としています。

徳川頼宣の肖像(和歌山県立博物館 所蔵)
徳川頼宣の肖像(和歌山県立博物館 所蔵)

 紀伊の検地は天正13年(1585)に実施されたという説がありますが確証はなく、その後の部分的な検地も自己申告的なものだったといいます。紀伊は太平洋ルートで関西と関東を結ぶ、海の要衝として重視されました。また中世以来の強力な寺社勢力の統括も、幕府にとって重要な課題でした。

 享保元年(1716)、7代・徳川家継の早逝によって紀伊家の徳川吉宗が8代将軍に就任したことはよく知られています。これより以後、14代・徳川家茂までは紀伊家の血筋となり、事実上、御三家のうちでは徳川将軍家にもっとも近縁な家となりました。

水戸家

 水戸徳川家は、家康11男・徳川頼房を始祖とする家です。

 実は当初から御三家として扱われたわけではなく、紀州徳川家の親族としての水戸松平家という家格でした。

徳川頼房の肖像(彰考館徳川博物館 所蔵)
徳川頼房の肖像(彰考館徳川博物館 所蔵)

 初期の御三家構成は紆余曲折があり、水戸家(頼房)が徳川姓を許されたのは寛永13年(1636)のことでした。水戸家の官位・官職は従三位中納言、元禄14年(1701)に幕府に認められた公称石高は35万石でした。

 官位・官職・石高ともに尾張家と紀伊家の下に位置してはいますが、江戸に最も近い防衛の要としてその当主は「副将軍」の俗称がよく知られています。もっとも副将軍とは正式な官職名ではありませんが、水戸家は次期将軍の奏聞を行えたり、江戸定府(常勤)であったりするなど他の二家とは異なる役割を担っていました。

 最後の将軍として知られる15代・徳川慶喜は一橋家の養子として就任したものの、その血統は水戸家の出身であったことは有名です。

おわりに

 御三家という言葉はよく聞くものの、江戸時代を通じて必ずしも各家が協調できたわけではなかったようです。それでもそのシステムには家康という始祖が、兄弟や一族で力を合わせて平和な世を保ってほしいという願いを込めたであろうことを、ひしひしと感じさせますね。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
  • 『全文全訳古語辞典』(ジャパンナレッジ版) 小学館

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  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術についての考察記事を中心に執筆。 全国の史跡を訪ねることも多いため、歴史を題材にした旅行記事も書く。 「帯刀古禄」名義で歴史小説、「三條すずしろ」名義でWEB小説をそれぞれ執筆。 活動記録や記事を公開した「すずしろブログ」を ...

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