「海保漁村」草莽の大賢者!渋沢栄一も学んだ、庶民教育の儒家

 江戸時代における学問の中で、官学とされた「朱子学」は中心的な役割を果たしてきました。この学問を一言で説明することは難しいですが、物事の「理」を重視した道徳哲学の一派といえるでしょう。

 さらにその法則を文化や社会のみならず、天地自然にまで当てはめて解釈する点に特徴があります。朱子学の思想を貫く考え方のひとつに、「上下」「長幼」といった階梯に最大の敬意を払うことがあります。これは封建社会においては階級や身分を絶対視する原則に大きく貢献しており、軍人政権ともいえる幕府にとっては有効な思想教育でもありました。

 そんな朱子学は、大きなカテゴリーでは「儒学」の一派として位置付けられています。儒学とは、いわゆる儒教のことであり、孔子が創始した東アジアを代表する思想大系です。日本でも重要視された儒学は歴史上重要な研究テーマであり続け、多くの優れた儒学者を輩出しました。幕末において、特筆すべき儒学者の一人に海保漁村(かいほ ぎょそん)がいます。

 資料によって「かいほ」とも「かいぼ」ともいい、決して多く言及される学者ではありませんが、2021年大河ドラマ『青天を衝け』の主人公である渋沢栄一と関わりのある人物であることから注目度は上昇しています。彼は渋沢栄一の、江戸遊学時代における学問の師であり、栄一に大きな影響を与えた志士・尾高長七郎も彼の門下でありました。

 幕末から近代に重要な役割を果たした人物たちを、学問的に導いた草莽の大賢者。今回はそんな、海保漁村の生涯を概観してみることにしましょう。

出生~2回目の江戸遊学

 海保漁村は寛政10年(1798)11月22日、上総国武射郡北清水村(現在の千葉県山武郡横芝光町北清水)の医師・海保修之恭斎の三男として生を受けました。通称は章之助、名は元備、字(あざな)は純郷・郷老・春農などといい、漁村・伝経廬の号を用いました。(※以下、漁村で統一)

 海保家は河内源氏・安房里見氏の末裔とされ、漁村は7~8歳のころから父によって経書の手ほどきを受けました。旺盛な向学心を示した漁村は13歳の頃に江戸遊学を果たしますが、都会の退廃的空気を厭う気持ちからほどなく郷里に戻り、利根川河畔の書斎で独学を続けました。

 しかし学究の思いは募り、文政4年(1821)に再び江戸へと出てのちに儒家の碩学・太田錦城(おおた きんじょう)の門下に入りました。

漁村の師、太田錦城について

 ここで、漁村を知るうえでの重要人物となる儒学の師、太田錦城についてもプロフィールを概観しておきましょう。

 太田錦城は明和2年(1765)、加賀国大聖寺(現在の石川県加賀市大聖寺)の医家に生を受けました。10代後半までは家業の漢方医として過ごしましたが、やがて京の皆川淇園、天明4年(1784)には江戸の山本北山についてそれぞれ儒学を修めました。

 しかしいずれの師とも反りが合わず、ほぼ独学で自身の学風を確立していきます。江戸に私塾を開いて教授を行っていた錦城の学才を見出したのは、のちに奥医師や11代将軍・徳川家斉の侍医などを務める多紀元簡(たきもとやす)でした。

 元簡の援助を受けた錦城の名声は江戸に知れわたり、文化8年(1811)に三河吉田藩に仕官。文政5年(1822)に故郷・金沢藩に招かれ、同8年(1825)に60歳で永眠しました。

 錦城は博覧で知られ、その道のあらゆる書を読破したといいます。その学風は「折衷学派」と説明されることが多いようですが、精緻な考究と実証主義に基づく考証学の手法を取り入れたものでした。

儒学者としての独立

 漁村が2度目に江戸に出たのは、先述の通り文政4年(1821)のことでしたので、太田錦城に直接師事したのはどんなに長くとも、2年に満たない短い期間のことと考えられます。

 しかし、ほぼ独学で大成した師・錦城の影響を強く受けた漁村は天保元年(1830)、江戸下谷(現在の東京都台東区)に私塾「掃葉軒」を開設。またの名を「伝経廬(でんけいろ)」と呼ぶのはこれよりのち、天保13年(1842)の京都遊学で日野大納言資愛に授かったことによるといいます。

 この塾では身分に関係なく、庶民の子弟を中心にその学問を教授しました。門下からは渋沢栄一・鳩山和夫・島田篁村等々、各分野で歴史に名を残す人材を輩出しています。

 天保11年(1840)に漁村が著した『周易古占法』が高い評価を受け、同14年(1843)にはその学名を耳にした佐倉藩(現在の千葉県佐倉市あたり)の藩主・堀田正睦の招きを受けて経書の講義を行いました。

 在野の儒学者としては異例のことともいわれ、当時の江戸において漁村が斯界の第一人者として認知されていたことがうかがえます。

藩校教授時代~最期

 漁村は天保14年(1843)、佐倉藩藩校「成徳書院」において儒官に就任し、藩士らにも講義を行うようになります。

 余談ながら、この成徳書院時代の教え子に、のちに文学者として活躍する「依田學海(よだがっかい)」がいました。學海は文豪・森鴎外の師としても知られ、『ヰタ・セクスアリス』に登場する漢学の「文淵先生」のモデルになったとされています。

 佐倉藩で儒学講義を続けた漁村は、やがて友人であった奥医師「多紀元堅」の推挙を受け、安政4年(1857)に幕府医学館直舎儒学教授に就任しました。漁村を医学館に推した多紀元堅とは、漁村の師・太田錦城を援助した多紀元簡の子にあたります。親子二代にわたって師弟を見込んだともいえ、錦城・漁村ともにその学識と人柄が深く慕われたことをうかがわせます。

 それまでには秋田藩佐竹氏や老中・水野忠邦らからも招聘を希望する声があったものの、漁村はこれらを固辞したといいます。庶民~武士まで幅広く儒学を教授し、その研究成果を優れた著作に残した漁村は慶応2年(1866)9月18日、江戸下谷練塀小路(現在の東京都千代田区神田練塀町)の自宅にて、68年の生涯を閉じました。

 戒名は養源院映月積山居士。本所・普賢寺に葬られましたが、同寺が東京都府中市紅葉丘に移転したことにより、そこに改葬されています。

北海道開拓論の先駆者として

 最後に、漁村がもっていた当時の国防意識をうかがえる著作の内容に触れておきましょう。

 安政3年(1856)に著した、『辺政備覧』という書です。端的にいうとこれは北海道の開拓と防備の必要性を論じたものであり、海外との国境問題にまで言及しています。

 坂本龍馬の盟友・中岡慎太郎が、『時勢論』でロシアの南下政策に警鐘を鳴らす約10年も前の著述であり、漁村の時代を見通す眼力の確かさを裏付けています。

 当時の北海道開拓方針は先住民族であるアイヌの人たちに対して、今日的な意味での同化政策としての側面は否定できません。しかし漁村の主張ではアイヌ民族伝来の地名や土地区分を尊重し、意思疎通を目的に日本語を知ってもらうため、質朴で親切丁寧な人格の講師を厳選して派遣するべきとしています。これは北海道を幕府の行政下に組み込むにあたって、先住民族に対する威圧的な支配を戒めたものとも考えられます。

 このように現実的な国防問題を論じつつも、漁村は当時において儒学者らしい倫理観を重視した人物だったことをうかがわせます。

おわりに

 儒学というと古来の道徳哲学で、どちらかというと観念的なものというイメージがないでしょうか。しかし一方では物事の道理を考究していく、いわば人文科学としての性格をもった学派も形成されていきます。

 漁村はまさにそんな学風の儒家であり、近代実業の発展に大きく貢献した渋沢栄一も、その思想や方法論に影響を受けたものでしょう。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
  • 『日本人名大辞典』(ジャパンナレッジ版) 講談社
  • 『近代日本国防論.上巻』 足立栗園 1940 三教書院
  • 千葉県教育委員会 海保漁村先生誕生之處
  • 北海道大学 北方資料データベース 海保元備/漁村

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  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術についての考察記事を中心に執筆。 全国の史跡を訪ねることも多いため、歴史を題材にした旅行記事も書く。 「帯刀古禄」名義で歴史小説、「三條すずしろ」名義でWEB小説をそれぞれ執筆。 活動記録や記事を公開した「すずしろブログ」を ...

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