幕末の思想をわかりやすく解説! 尊王攘夷論、佐幕論から倒幕論まで

コロコロさん
 2021/06/02

1854年、日本に再上陸(横浜)したペリー一行(ヴィルヘルム・ハイネ 画)
1854年、日本に再上陸(横浜)したペリー一行(ヴィルヘルム・ハイネ 画)

幕末は1853年の黒船来航により始まります。異なる思想同士がぶつかり、維新へと続く時代でした。 尊王論と攘夷論が結合することで、「尊王攘夷論」が誕生。日本中がより良い未来を選択すべく鳴動していきます。

佐幕論とは頑迷な考えだったのか。倒幕論とは武力一辺倒で幕府を倒すだけの考えだったのか。本記事では幕末の思想について一つ一つ丁寧に見ていきます。

尊王論(そんのうろん)とは

尊王論とは、王者を尊ぶ思想、わかりやすく言えば天皇を崇拝する思想のことです。

元々は中国の儒教で起こった思想が日本に伝来し、独自の変容を遂げて発展した思想でした。

孟子は仁徳による統治を「王道」と規定。対して武力による統治を「覇道」としています。 日本では天皇の立場が「王道」、幕府などの武家政権は「覇道」と位置付けられました。

江戸時代中頃から国学が勃興。国史(日本史)や神道の研究も進むこととなりました。 国学は学者だけには止まりません。知識層である武士や豪農へも広がりを見せていきます。 実践的な動きでは、天皇陵の修復や諸藩では藩祖を皇族に結びつける動きも出てきました。

こうした流れから、尊王論は江戸時代中期に有力な思想となります。さらに、一代転換点となったのが幕末の到来です。

1853年の黒船来航によって幕府の権威は失墜。天皇や朝廷の存在感が高まっていくことに。 国学および儒学の影響を受けた水戸学によって、強固なナショナリズムが形成され、尊王論は全国的な高揚を見せていくのです。

攘夷論(じょういろん)とは

攘夷論は、海外との開国通商を拒否し、諸外国の排斥を目指す思想です。江戸時代に行われていた鎖国を継続する、といった考え方はこれにあてはまります。

日本では水戸学が幅広い支持を獲得。1820年代から30年代にかけて攘夷論が確立します。 攘夷は「夷狄(いてき)を攘(はら)う」という意味がありました。

攘夷論には日本に伝来した、儒学における華夷思想の影響もあります。 華夷思想では自国を中心と規定。欧米諸国を文明を持たない野蛮な国と捉えていました。

攘夷の源流は、西洋諸国との関わりによる危機感にあります。 キリスト教などの思想の浸透により、日本の文化が侵略されるという意識が根強くありました。

攘夷派の代表格となったのが長州藩です。文久3(1863)年、長州藩は馬韓海峡を航行するアメリカやフランス、オランダの艦船に砲撃。攘夷の実行に踏み切りました。

事前通告のない砲撃により死者も発生。長州藩による砲撃は国際法に違反する行為でした。

被害を受けた国が黙っているはずはありません。 翌元治元(1864)年、イギリスを加えた4カ国の艦隊17隻が馬関と彦島の砲台を砲撃。占拠して壊滅的打撃を与えています。世にいう下関戦争です。

下関戦争の大敗により、長州藩は攘夷が不可能だと悟ったのでした。

佐幕論と開国論

佐幕論

佐幕とは「幕府を補佐する」という意味です。 徳川幕府は朝廷から大政を委任された立場です。すなわち佐幕論には多分に尊王論を含むところがありました。 実際に孝明天皇も強固な佐幕主義者です。幕府に対して大きな期待を寄せ、国政の安定を望む立場でした。

幕末に佐幕派の代表格として活躍したのが会津藩主・松平容保です。 文久2(1862)年、容保は京都守護職に就任。孝明天皇の厚い信頼を受けて京都の治安維持に邁進します。

会津松平家は徳川家の一門です。 江戸城では溜間詰(たまりのまづめ)として、幕府政治に関与する立場でもありました。 佐幕論者であることは自明だったと言えます。

会津藩の下で活躍した新選組も佐幕派の集団です。 局長の近藤勇や副長の土方歳三は、武蔵国多摩郡の百姓出身でした。多摩は徳川幕府の天領であり、古くから恩恵を受けています。 新選組は地縁の面でも幕府とは大変近い立場に存在していました。

開国論

貿易によって富国強兵を実現するべき、というのが開国論です。 当時の情勢からは攘夷の実現は不可能でした。 諸外国との戦争は、多大な犠牲を払うこととなります。失敗すれば植民地になる可能性さえありました。 むしろ開国通商は、日本における国力増強の近道だったのです。

開国論は江戸時代後期には知識人の間で主張されていました 当時の日本近海では外国船が数多く目撃され、対外的な危機感が高まっていた状況です。 危機感が現実となるのには時間はかかませんでした。

嘉永6(1853)年、浦賀にペリー率いる艦隊が来航。翌嘉永7(1854)年には日米和親条約が締結されます。安政5(1859)年には日米修好通商条約が締結。全国各地で次々と港が開かれ貿易が始まっていきました。

開国派の要人として著名なのが勝海舟です。勝は安政7(1860)年に渡米。サンフランシスコに入港して日米修好通商条約の批准に随行しています。

帰国は軍艦奉行に就任し、洋式の海軍の導入に尽力しました。一時は坂本龍馬も門下として、勝の海軍操練所に在籍していました。

開国論は、国防上大変重要な思想だったのです。

尊王攘夷論と公武合体論

尊王攘夷論

尊王攘夷は、尊王論と攘夷論が結びついて生まれた考え、つまりは天皇を尊び、夷狄(外敵)を退けるという思想です。

幕末において、尊王攘夷の言葉を最も早く用いたのが水戸藩です。 水戸藩の藩校・弘道館は水戸学の総本山でした。 教育理念を記した弘道館記は徳川斉昭が作成。起草は水戸学者・藤田東湖が行っています。 水戸藩士たちは尊王攘夷の思想を体現。安政7(1860)年に桜田門外の変で幕府大老・井伊直弼を暗殺しています。

桜田門外に止まらず、尊王攘夷運動は特に西日本の雄藩で高まりを見せました。 長州藩は京都において朝廷に接近。急進派の公卿の後ろ盾となって尊王攘夷運動を推進していきます。 松下村塾の門下である高杉晋作や久坂玄瑞、伊藤博文らはその代表的な人物でした。

土佐藩においても、特に下級武士たちの中で熱を帯びていきます。 武市半平太は土佐勤王党を結成。坂本龍馬や中岡慎太郎などが加盟して運動に参加しています。

尊王攘夷は、武士だけの思想ではありません。 在野にいる武士以外の人間にも影響を与えていました。 武蔵国血洗島では、渋沢栄一が尊王攘夷運動に参加。幕府転覆のため、高崎城乗っ取り計画を企てています。

尊王攘夷の思想は、次第に反幕府的なものへと変化。後の倒幕運動へと繋がっていくこととなりました。

公武合体論

公武合体論は、朝廷(公)と幕府(武)の結び付きを強めて南極に対処するという思想です。公武一和とも呼びます。

日米修好通商条約の調印によって、朝廷と幕府の関係は悪化。尊王攘夷派は激しく幕府を糾弾していきます。 両者の関係修復を図り、幕府の権威強化を目指す必要が出てきます。

具体的な施策が、老中・安藤信正の推進した和宮降嫁でした。 和宮内親王(孝明天皇の妹)を将軍・徳川家茂の正室に迎え、朝廷と幕府の関係を強化する政策です。

公武合体論は、幕府の内外を問わず多くの賛同者を得ています。 一橋家当主・徳川慶喜や薩摩藩の島津久光、越前藩の松平春嶽もその一人に数えられます。

公議政体論と倒幕論

公議政体論

公議政体論は、合議制による政治決定を目指す思想です。 議会制度を日本に取り入れるべく起こった考えでした。

文久3(1863)年、朝廷は大名経験者を朝議参預に任命、参預会議が成立することとなります。参預会議のメンバーの多くは、徳川慶喜や島津久光など公武合体論の推進派でした。 公武合体の一つの形として公議政体論は存在していたのです。

提唱者によって公議政体論の内容には幅があります。 諸侯の公議政体論は、諸侯会議の設置が目的とされています。これに対して幕臣や下級武士たちは、上院と下院の設置を想定したものでした。

明治政府の樹立後も、公議政体論は存在感を持ち続けます。 五箇条の御誓文の最初にある「公議輿論に決すべし」で、公議政体論の必要性が強調されていました。

倒(討)幕論

倒幕(討幕)論は、江戸幕府を倒して新政府を樹立するという思想です。 狭義では武力で幕府を倒す思想を討幕。大政奉還などの穏健な手段で政権移譲を図る道を倒幕と呼びます。

倒幕派の代表格となったのが、薩摩藩や長州藩、土佐藩などの西日本の雄藩でした。 元治元(1864)年の参預会議の崩壊により、薩摩藩は幕府を倒す方向ににシフト。慶応2(1866)年に長州藩と薩長同盟を結んでいます。 薩長同盟には土佐藩の坂本龍馬が仲介する形で関与しました。

倒幕と討幕は、絶妙な関わり合いで存在していました。 翌慶応3(1867)年10月14日、薩長に討幕の密勅が下ります。 しかし同日には、徳川慶喜が大政奉還を実行。土佐藩の山内容堂の建言を受けてのものでした。

容堂の背後には、藩士・後藤象二郎の存在がありました。さらに後藤は坂本龍馬からの助言によって動いています。土佐藩を中心とした勢力は、あくまで公議政体論の手段として倒幕を目指していました。

しかし王政復古と鳥羽伏見の戦いにより、薩長は官軍となります。以降は武力討幕路線が大勢を占めていきました。


【主な参考文献】
  • 山口和夫 『近世日本政治史と朝廷』 吉川弘文館 2017年
  • 町田明広 『攘夷の幕末史』 講談社 2010年
  • 井上勝生『シリーズ日本近現代史1 幕末・維新』 岩波書店 2006年
  • 尾藤正英「水戸学の特質」『日本思想大系53 水戸学』 岩波書店 1973年

  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 ...


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