「三条実美」幕末の七卿落ちから復権し、討幕を実現!
- 2021/06/09
幕末、公家でありながら幕府と戦った男がいました。公卿・三条実美(さんじょう さねとみ)です。
実美は三男ながら家督を継承。朝廷や国家のために幕府に立ち向かっていきます。
政変によって京都を追放されると、太宰府に幽閉。討幕まで雌伏の時を過ごすこととなりました。
明治政府が樹立されると調整役として活躍。西郷隆盛や島津久光と相対する立場に立つこととなります。
数十年にわたって国家に奉職し、やがて実美は臣下で最高位の立場になりました。
彼は何を目指して戦い、生きてきたのでしょうか。三条実美の生涯を見ていきましょう。
波乱の三条家継承
三男にして三条家を継承する
天保8(1837)年、三条実美は公卿・三条実万の三男として生を受けました。生母は正室・山内紀子です。幼名は福麿と名乗りました。幼少時代から聡明だったと伝わります。
実美は三男であるため、将来は三条家庶流の花園公総の養子となることが決まっていました。教育係である儒学者・富田織部の影響で特に尊王思想を強く抱くようになっていきました。
安政元(1854)年、三条家当主である次兄・公睦が早世。当主の座が空席となりました。
富田織部の推挙により、実美が三条家の家督を相続することに。さらに同年、元服して養子として公睦の子・公恭を迎えています。
父の隠居と師の逮捕
新たな人生の幕開けですが、決して順風満帆ではありませんでした。父・実万は戊午の密勅の発出に関与。攘夷実現のために動いたことで幕府に迫害されていきます。
安政5(1858)年10月には実万が蟄居(ちっきょ)。富田織部ら三条家の公家侍らも逮捕されることとなりました。井伊直弼による安政の大獄は、実美の周囲にも及んでいたのです。
翌安政6(1859)年に、実万は出家。さらには謹慎にまで追いやられていきました。失意のまま実万は同年10月に亡くなっています。実美の幕府との戦いは、このときから始まりました。
尊王攘夷と都落ち
尊王攘夷運動に参加する
安政7(1860)年3月、桜田門外において井伊直弼が暗殺。幕府の権威は大きく失墜することとなります。
文久2(1862)年から、実美は長州藩や土佐藩などの尊王攘夷派と交流を深めていきます。
実美ら朝廷改革派は、公武合体派の公卿・岩倉具視を失脚させることに成功。朝廷の権力を増強させるべく動いていき、
朝廷内で大きな権力を握るようになります。実際、文久3(1863)年正月にも関白・近衛忠煕を辞職に追い込み、長州派の鷹司輔煕を同職に据えています。
しかし尊王攘夷派の動きは過激さを増していました。実美の師・池内大学や公卿・姉小路公知も暗殺されます。
実美は距離を置こうと議奏就任を辞退したい旨を表明。しかし許されませんでした。
尊王攘夷運動が加熱する中、実美らは大和行幸の計画を練り始めます。
大和行幸は長州藩と提携して攘夷親征を目指すものです。しかし孝明天皇は行幸には否定的な立場でした。むしろ実美や長州藩は孝明天皇から強い不信感を持たれていたのです。
8月18日、薩摩藩と会津藩が同盟。御所を固めて実美ら尊王攘夷派を締め出します。加えて実美らには参内停止の処分が下り、長州藩は御所の警備を解かれてしまいました。(八月十八日の政変)
七卿落ちで都落ちとなる
京を追われた実美らは、長州に向かいました。
三田尻に入った七卿らを奇兵隊が護衛。高杉晋作らと兵を率いての上洛について話し合っています。
元治元(1864)年正月には、実美は湯田村に移動。長州藩士である井上聞多(馨)の実家の離れに居住します。
実美らの置かれた状況は厳しいものでした。孝明天皇は実美ら七卿と長州藩の尊王攘夷派を批判する詔旨を発表。「必ず罰せずんばある可からず」とありました。
同年7月、長州藩は挙兵。京都に軍勢を率いて進撃しました。世にいう「禁門の変」です。
実美らも海路で京を目指します。しかし長州藩は敗北。御所に発砲したことで朝敵となってしまいました。
明治新政府の功労者
薩長同盟の立役者となる
程なくして幕府によって長州征伐が計画されます。加えて長州藩は下関戦争で四カ国連合艦隊に大敗。幕府への恭順派が藩政を握ることとなりました。
当然、恭順派は実美らの引渡しを計画します。配下の中岡慎太郎(土佐藩出身)は、征討軍の総督府にいた西郷吉之助と交渉。実美らを筑前国に移すことで落ち着きました。
慶応元(1865)年、実美ら五卿は太宰府に入ります。幽閉先の延寿王院には、諸藩から尊王攘夷派の人材が派遣されてきました。実美は長州の桂小五郎や中岡慎太郎らと連絡。薩長同盟を推し進めるなどの説得活動も行なっています。
慶応2(1866)年、幕府軍は長州征伐に敗北。実美らの身柄引き渡し要求も拒絶されるなど、権威のかげりが見え始めます。
翌慶応3(1867)年には、中岡が京都の公家との連携を提案。実美はかつての政敵・岩倉具視と協力することとなりました。
太政大臣となる
実美が政治の表舞台に返り咲く時が訪れます。
慶応3(1867)年10月、大政奉還が成立。12月には実美らの赦免が認められています。
同月に参内して議定を拝命。薩摩や長州と協力して朝廷を主導していく立場となりました。
翌慶応4(1868)年には、新政府の副総裁に就任。事実上、明治政府の頂点に立ちました。
さらに実美は外国事務総督を兼任。「開国和親の布告」作成に関わり、攘夷の方針を完全に捨てたことが確認されます。
戊辰戦争においても、実美は積極的に関わります。
関東観察使として江戸に赴いて、彰義隊討伐を目指す大村益次郎を支持。徳川宗家や奥羽越列藩同盟への厳罰を主張しています。
明治2(1869)年には東京への遷都を主張し、見事に実現させました。
実美の政治家としての実力は高く評価されていたことがわかります。
明治4(1871)年、実美は太政大臣を拝命。政治の調整役として活動していくことになります。
11月には条約改正交渉のため、岩倉使節団が外遊に出発。国内の政治は留守政府が預かることとなりました。
実美は留守政府の首班として、様々な問題に立ち向かうこととなります。
西郷や島津久光との調整
留守政府で西郷隆盛を慰留する
明治6(1873)年、征韓論が留守政府の中で議論されます。
西郷は自身の朝鮮派遣を要求。西郷が殺されることを懸念した実美は反対の立場を取りますが、閣議で西郷の派遣が決定してしまいます。実美は明治天皇に聖断を仰ぐ形で西郷を思いとどまらせます。
岩倉使節団の帰国後、征韓論の議論は沸騰。参議の分裂が懸念される事態にまで発展しました。
実美は西郷の案を閣議で決定しつつも、時期の引き伸ばしにかかります。一方で征韓論反対派の岩倉や大久保らは辞表提出に及びました。
10月、実美は心労が重なって卒倒。倒れた原因は脚気からの心臓病だったようです。
大久保は岩倉を太政大臣の代理に据えるように工作。岩倉は明治天皇の聖断を仰ぐ形で西郷らの征韓論を退けます。
征韓論に敗れた西郷や板垣らは参議を辞職。明治政府を去ることになりました。
このとき実美も辞表を提出しますが、認められずに却下され、引き続いて太政大臣を務めることになっています。
島津久光との対立
明治7(1874)年、島津久光が左大臣に就任。政府の開化政策を撤回する動きをはじめます。
さらに久光は翌明治8(1875)年には太政大臣の権限を左大臣と右大臣に譲渡するように働きかけました。
しかし久光の運動は失敗。同年、久光は実美を辞職するように上奏に及んでいます。
久光は閣議により免官。しかし薩摩出身の海江田信義らは実美を弾劾し続けるなど批判にさらされました。
この頃の三条家は莫大な負債を抱えていました。
家令たちが事業に失敗。毛利家の支援によって何とか破産を免れることが出来た状態だったのです。
実美の死後まで負債の返済は続いていきました。
臣下最高位の要人
明治政府で内閣総理大臣を代理で務める
久光の去った政府は、大久保がまとめています。
実美は大久保の方針を支持。参議の意見が合わない時は、まず大久保の意見を問うようになっていました。
しかし明治11(1878)年に大久保は紀尾井坂の変で暗殺。政府内で力を持った伊藤博文に近づくようになります。
明治18(1885)年、太政官制が廃止。内閣制度が発足します。
実美は太政大臣を辞任して内大臣に転じました。
実美の旧臣・尾崎三良は撤回を訴えましたが、実美は国家将来のためとして拒否しています。
明治22(1889)年、条約改正交渉が暗礁に乗り上げます。
黒田清隆は辞表を提出。明治天皇は他の閣僚には任にあたらせると同時に実美に内閣総理大臣を兼任させます。
実美は内閣職権を内閣官制に改め、内閣総理大臣の権限を縮小。同年12月にや山縣有朋が総理大臣に任じられたことで辞表を提出しています。
臣下で最高の席次
明治22(1889)年、大日本帝国憲法が公布。公布式典において実美は明治天皇の傍に控えています。実美は憲法文を明治天皇に奉呈する役割を果たしました。
当時の実美は臣下で最高の席次を持つ身でした。以降も最高位の功臣として遇されています。
明治24(1891)年2月、実美はインフルエンザを罹患。明治天皇が見舞いに訪れ、正一位に叙せられています。しかし18日、実美は世を去りました。享年五十三。
2月25日に国葬が挙行。当日は晴天で暖かい気候でした。
明治天皇は以降、同じ天候の日を「三条日和」と呼んでいたと伝わります。
【主な参考文献】
- 内藤一成『三条実美 維新政権の「有徳の為政者」』 中央公論新社 2019年
- 笹部昌利「幕末期公家の政治意識形成とその転回ー三条実美を素材にー」『佛教大学総合研究所紀要』第8巻 佛教大学総合研究所 2001年
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