「島津久光」大河ドラマ『青天を衝け』や『西郷どん』にも登場した薩摩国父!
- 2021/06/14
幕末の政局は混乱を極めます。
外様大名の立場から幕政改革を主導し、公武合体運動を推進した男がいました。
薩摩藩国父・島津久光(しまづ ひさみつ)です。
久光は朝廷や幕府、諸藩の協調を目指して活動。京都において諸侯会議の開催を実現させました。
しかし、幕府政治に行き詰まりが見えると討幕に転向。明治政府樹立に大きく貢献します。
やがて久光は明治政府において居場所を失います。もがきながら目指した場所はどこだったのでしょうか。島津久光の生涯を見ていきましょう。
薩摩藩主の一族
側室・お由羅の方を生母に持つ
文化14(1817)年、島津久光は薩摩国鹿児島城で薩摩藩主・島津斉興の五男として生を受けました。生母は側室・お由羅の方です。幼名は普之進(かねのしん)と名乗りました。
母・お由羅の方は町人出身であり、身分は決して高くはありませんでした。久光自身も本来は家督を相続できる立場ではなかったのです。
しかし斉興の寵愛を受けていたことが久光にも影響しました。
文政元(1818)年、久光は種子島久道の養子に入り、公子(藩主の子)の待遇を受けています。
同8(1825)年には島津宗家に復帰。同年には島津一門筆頭・重富島津家の婿養子となりました。文政11(1828)年に元服し、天保10(1839)年には重富家の家督を相続しています。
お由良騒動と斉彬との関係
生母が側室かつ五男でありながら、久光は藩政にも関わる立場となっていました。
しかし久光の立場は、後継者問題を引き起こします。斉興の後継を巡り、斉彬と久光などの派閥が対立。お家騒動(お由羅騒動)が巻き起こることとなりました。
幕府はお家騒動に介入。嘉永4(1851)年には斉興の隠居と、斉彬の藩主就任が確定します。
久光は兄・斉彬とは決して悪い関係ではありませんでした。あくまでお家騒動は担がれる形で起きたものです。
弘化4(1847)年、久光は斉彬から軍役方名代を拝命。海岸防備を担当することとなりました。
藩政の掌握
薩摩の国父となる
安政5(1858)年、斉彬が病没。遺言によって、久光の子・茂久(忠義)が藩主となりました。久光は国父(藩主の実父)として、藩内の政治的立場を形成していきます。
文久元(1861)年には島津宗家に再び戻り、反省の実権を掌握。翌文久2(1862)年には鹿児島城二の丸へ移っています。
久光の藩内の実権掌握には、緻密な人材登用がありました。
小松清廉(帯刀)などの門閥だけでなく、精忠組の主要人物である大久保一蔵(利通)を引き上げています。
しかし久光は西郷吉之助(隆盛)とは反りが合わず対立。遠島処分を繰り返しています。
文久の改革を主導する
文久2(1862)年、久光は兵を率いて上洛。朝廷と幕府の結びつきを強める公武合体運動推進のためでした。しかし京都で思いがけない事件が起きます。
伏見・寺田屋に薩摩の尊王攘夷派が集結。久光はやむを得ずに有馬らの粛清に及びました。
久光は朝廷から江戸への勅使随従を拝命。幕政改革を要求するために先頭に立つこととなります。
江戸到着後は幕閣との交渉に従事。徳川慶喜を将軍後見職にするなど、文久の改革を実現させました。
しかし帰京途中で再び事件が起きます。
武蔵国の生麦村でイギリス人の集団と遭遇。行列の通行妨害により、薩摩藩士が殺傷に及びました。世にいう生麦事件です。
尊王攘夷運動が高まる中で勃発したこの事件は大きな政治問題となり、翌年には薩摩藩とイギリスによる薩英戦争に発展。薩摩の城下町が砲撃により、火の海となっています。
幕末の政局を主導する立場として
諸侯会議を実現させる
文久3(1863)年3月、久光は再び上洛。しかし長州藩を支柱にした尊王攘夷派の専横を抑えられずに帰国に追い込まれます。
しかし久光への期待は大きなものでした。
孝明天皇をはじめ、中川宮朝彦親王らから再三にわたる上洛の要請を受けています。
8月になると、薩摩藩と会津藩が提携。禁裏から長州藩と尊攘派公卿を追放することに成功しています。世にいう八月十八日の政変です。政変を受けて久光は三度目の上洛を果たしました。
久光は朝廷に国事を議論する諸侯会議の設置を上奏します。
同年12月には徳川慶喜、松平春嶽らが朝議参預を拝命。翌元治元(1864)年の1月には久光自身も参預に任じられています。
久光が中心となって公武合体論の一つを実現した形でした。しかし事態は思いがけない方向に動いていきます。
慶喜は横浜鎖港を主張。久光や春嶽らと対立することとなりました。
結局は久光らの譲歩によって鎖港が決定。しかし慶喜は久光に暴言を吐くなど、対立は続きました。
失望した久光は3月に参預を辞任。春嶽らも久光に続いて参預の職を辞しています。
参預会議は瓦解したことで公武合体運動は頓挫。久光は小松帯刀や西郷吉之助らを京都に残して鹿児島へと帰郷しました。
武力討幕の急先鋒として
京都政局は禁門の変から条約勅許、薩長同盟と転換していきます。
久光は国許の薩摩にあって活動。薩摩藩の力を着々と蓄えていました。
慶応2(1866)年、イギリス公使・パークスが鹿児島に到着。久光は藩主・茂久とともに迎えています。同時に薩英戦争後の講和から続くイギリスとの友好関係を確認しました。
慶応3(1867)年4月、久光は上洛。新たな諸侯会議である四侯会議の一員として政治に参加を果たします。しかしまたもや久光は慶喜と対立。長州処分問題の寛典と兵庫開港の先決を巡って応酬を繰り広げました。
朝議は、勅許は同時に降りるという結論に達します。
しかし具体的な中身は、慶喜の要求に基づいたものでした。
久光は武力討幕を決意。以降は大久保や西郷が中心となって幕府との対決を鮮明にしていきます。
しかし久光は表には出ていません。病を得て大坂に移り、9月に帰国の途につきました。
同年10月14日、討幕の密勅が下されます。しかし同日に慶喜は大政奉還を断行し討幕の密勅は宙に浮くこととなりました。
久光は朝廷から上京を命じられます。
しかし病身のために応じることができずにいました。そこで藩主・茂久が三千人の藩兵を率いて鹿児島を発つことになります。
京都政界は王政復古が出され、戊辰戦争に突入。薩摩藩は官軍の中心として戦争を主導していきました。
明治においての冷遇
明治政府への反発
明治政府が樹立され、薩摩藩が主要な地位を握ります。
しかし、久光は国許の薩摩国にあって、新政府の欧化政策に反発。藩政改革を行う川村純義ら下級氏族と対立しますが、権力闘争に敗れ、川村らに藩政を掌握されてしまいます。
明治2(1869)年2月、勅使・柳原前光が鹿児島に下向。大久保利通を随伴していました。久光は求めに応じて上洛を決意。3月には上洛して参内を果たし、従三位・参議兼左権近衛中将に叙任されています。
しかし久光は新政府への協力を拒み続けました。
明治3(1870)年1月、大久保が薩摩に帰国。新政府への協力を要請された久光ですが、自身が利用されたことで反発。騙された形で作られた政府に強い不満を持っていました。
同年には岩倉具視も鹿児島に下向。しかし久光は病を理由にして上洛への猶予を願い出ます。
実質的な大幅な減封
やがて久光の影響力が決定的に削がれる時が訪れました。
翌明治4(1871)年2月、御親兵が設置。薩摩・長州・土佐の藩兵で構成される新政府軍の軍でした。
4月には出兵のために西郷が上京。知藩事となっていた久光の子・忠義(茂久)も東京に赴きます。
旧藩主であった全国の知藩事たちも東京に集められていました。
同年7月には廃藩置県が断行。全国の藩は廃止され、中央政府が県を置いて管理することに。
これに対して久光は激怒。廃藩置県に抗議して自邸の庭で一晩中花火を打ち上げさせています。旧藩主のうちで反感を示した唯一の例でした。
9月には久光に政府から分家の命令が下ります。
久光には島津忠義の賞典禄10万石の半分である5万石を分賜。玉里島津家が設立されることとなりました。
11月には都城県が設置。県域には旧薩摩藩領のうち、日向国と大隅国が編入されています。
久光は長州の陰謀だと激怒。自身を鹿児島県令にするよう政府に希望を上申しました。
左大臣として政府に意見する
明治5(1872)年6月、明治天皇が鹿児島に滞在。西国巡幸の一環とされましたが、久光の慰留の意図もありました。
久光は滞在を意見書を奉呈。政府の開化方針とは逆の復古的内容を含む14箇条のものでした。
その後、明治6(1873)年には勝海舟らが下向。久光は上京して麝香間祇侯を拝命し、内閣顧問に任じられます。
しかし同年、西郷隆盛が征韓論に敗れて下野。不平士族たちが反乱を計画していくことになります。
明治7(1874)年、佐賀の乱が勃発。久光は西郷を慰撫するべく鹿児島に帰郷します。政府は久光の動きを警戒。勅使の山岡鉄舟らを派遣して久光を鹿児島から帰京させました。
同年4月に久光は左大臣に就任。翌5月には政府に対して旧習復帰の建白を行いました。
しかし政府はこれを無視。久光は政府の意思決定から実質的に排除される形となっていたのです。
隠居生活と西南戦争
久光が政界から去るときが訪れます。明治8(1875)年、久光は左大臣を辞職。翌明治9(1876)年には鹿児島に帰郷しています。
以降の久光は、鹿児島での隠居生活に入りました。
久光は島津家に伝来する古文書の収集や編纂に関わり、著作活動を行なっています。
また、東京にいた時と変わらず、政府の開化政策には反発。髷を落とさずに和装を通し、帯刀を続けていました。
明治10(1877)年、西郷隆盛が鹿児島で挙兵。西南戦争が始まります。
政府は勅使・柳原前光を鹿児島に派遣。久光に上京してくるように促しました。久光が西郷を与することを恐れていたようです。
久光は中立の立場を表明。代わりに四男と五男を京都に派遣しています。同時に戦火を避けるべく桜島に避難することとなりました。
ほどなくして西南戦争は鎮圧。西郷隆盛は城山で自決してその生涯を閉じています。
翌明治11(1878)年には、大久保利通が東京・紀尾井坂で暗殺されました。両名の死により、久光の運命も変わります。
叙位叙勲において最高級で遇された久光も、扱いが変わっていきました。
久光は最後まで西郷と大久保に騙されたと言い続けていたと伝わります。
明治20(1887)年、久光は世を去りました。享年七十。
久光の国葬のため、道路が整備。熊本鎮台から儀仗兵1大隊が派兵されるなど故人の威徳を忍ばせました。
墓所は鹿児島の島津家墓地にあります。
【主な参考文献】
- 芳即正 『島津久光と明治維新 久光ななぜ、討幕を決意したか』新人物往来社 2002年
- 国立国会図書館HP 「島津久光」近代日本人の肖像
※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄