「松平容保」新撰組を統括した京都守護職!朝廷からもっとも信任された、秀麗なる北の武人

 幕末史を彩る多くの語句のうち、「新撰組」の名に特別な感慨を抱く方は多いのではないでしょうか。言わずと知れた京都市中を警備する武装警察で、他にも旗本が中心構成員の「見廻組」もよく知られています。

 幕末時点では尊王攘夷を掲げる過激派の志士が京都に集結し、その治安がおおいに脅かされていました。そこで幕府は浪士の部隊を前身とする新撰組や、二条城など官庁街を中心に警備する見廻組を創設しましたが、その統括機関が「京都守護職」です。

 これは文久2年(1862)創設という、江戸幕府においては末期に新設されたもので、実質の活動は約6年という短いものでした。しかし、倒れゆく幕府と波乱の朝廷との間で、最後までその忠節を尽くした武士たちの生きざまは語り草になっています。

 そんな京都守護職の長が、会津藩主・松平容保(まつだいら かたもり)です。彼は当初、守護職への就任を辞退したといいますが、多大なリスクを負いながらその任務を全うしたことはあまりにも有名ですね。今回はそんな、松平容保の生涯を概観してみることにしましょう。

出生~幕政参与

 松平容保は天保6年(1835)12月29日、美濃高須藩主・松平義建の7男として江戸屋敷で生まれました。

 通称は銈之允、のちに祐堂・芳山を号として用いました。ちなみに、のちに伊勢桑名藩主となる「松平定敬」は義建の7男であり、容保にとって実弟にあたる人物です。

 弘化3年(1846)4月、容保は会津藩主・松平容敬(かたたか)の養子となります。嘉永5年(1852)に容敬が満47歳で逝去するとその跡を継ぎ、会津23万石の藩主となりました。

※参考:歴代会津藩主(会津松平(保科)家)
人物在期
1保科正之(まさゆき)1643~69年
2保科正経(まさつね)1669~81年
3松平正容(まさかた)1681~1731年
4松平容貞(かたさだ)1731~50年
5松平容頌(かたのぶ)1750~1805年
6松平容住(かたおき)1805年
7松平容衆(かたひろ)1806~22年
8松平容敬(かたたか)1822~52年
9松平容保(かたもり)1852~68年
10松平喜徳(のぶのり)1868年

 翌年にはペリー提督率いる黒船艦隊が来航。容保はその折、幕府に対して防衛体制の不十分さから開国はやむを得ないという答申を行っています。それというのも、会津藩は弘化4年(1847)2月より房総の守備を任務としており、実体験に基づいた現実的な意見具申だったことがうかがえます。

 嘉永6年(1853)11月には品川の二番台場(第二砲台)警備へと配置転換。安政6年(1859)8月には安政の大獄で水戸藩主・徳川斉昭が処罰され、藩士らの動揺を抑えるため、江戸府内の警備を担当しました。

お台場からみたレインボーブリッジ
幕末に洋式の海上砲台が建設され、「品川台場」と呼ばれた場所が、現在の東京のお台場。

 同年9月に二番台場警備の任を終えると、今度は蝦夷地(北海道)の開拓という任務を与えられます。これは網走地方を除いて西別~沢木にいたる海岸90里(約360km)という広大なもので、会津という立地が南北におよぶ防衛任務に大きな役割を期待されたことがうかがえます。

 万延元年(1860)3月に桜田門外の変が勃発すると、容保は幕命により出府。このとき容保は老中らの水戸家への出兵方針に反対し、幕府と水戸藩との調停に尽力しました。御三家での紛争を回避した手腕と忠義に、容保はその存在感を高めることになります。

 文久2年(1862)5月、14代将軍・徳川家茂の命により幕政参与に就任しました。

京都守護職就任~王政復古

 容保が幕政参与となった同年閏8月、尊王攘夷派による騒動が続いていた京都の治安維持のため新設された京都守護職に任命されます。

2つの対立軸でみた、幕末の各思想(論)の概念図
2つの対立軸でみた、幕末の各思想(論)の概念図。松平容保は開国寄りで、徳川幕府を補佐した佐幕派(図の右上枠)に該当。

 京都守護職は経済・国防をあらゆる点でハイリスクな任務であり、当初は容保をはじめ会津藩重職らも辞退の方針をもっていたといいます。しかし、会津藩祖「保科正之」の徳川家に忠誠を誓う遺訓を持ち出した松平慶永(春嶽)の説得にあい、拝命を決意しました。

 容保は京都守護職就任にあたって幕府に対し、朝廷と幕府が協力して国事にあたる「公武一和( = 朝廷と幕府の融和をはかる政策)」の信念から建議書を提出しています。その内容は、大きく以下の3つに集約されます。

  • 外国人の江戸府内居住地の制限、および対等の接遇(犯罪抑止を含む)
  • 長崎・横浜・箱館の開港は継続し、兵庫・新潟の開港および大坂・江戸の開市は延期するよう交渉する
  • 朝廷から江戸への勅使の待遇改善

 以上の内容は幕府に採用され、外国公使館の品川・御殿山建設や、開港の5年間延長などが実現しました。また、勅使への接遇も改められ、三条実美がその効果を直接体験しています。

 容保は同年12月に京都入りし、金戒光明寺を拠点としました。翌年正月に初めて参内し、朝廷と幕府の両方を尊重する容保に孝明天皇は絶大な信任を寄せたといいます。

 容保はこの間にも朝廷の財政改善や尊攘派への牽制を行い、文久3年(1863)には薩摩と結び「八月十八日の政変」で暗躍していた長州勢力の一掃に成功します。

 同年12月には公武合体派の一橋慶喜・松平慶永(春嶽)・山内豊信(容堂)・伊達宗城とともに参予に任じられました。翌年1月には島津久光もこれに列しましたが、攘夷や長州藩への処分方針で意見の一致を見ず、参予会議は約2か月で解体されてしまいます。


 元治元年(1864)2月、容保は幕府より5万石の加増を受けて長州征討の軍事総裁職に就任しましたが、孝明天皇からの特段の慰留で同年4月に京都守護職に復帰。同年6月の池田屋事件、7月の禁門の変と第一次長州征討など、おもに対長州の最前線で強硬派として事態にあたりました。

池田屋事件のイラスト
池田屋事件は、京都守護職配下の新選組が、池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を襲撃した。

 第二次長州征討も推進する立場でしたが、慶応2年(1866)6月の開戦から2か月で幕府軍が敗退した際、慶喜の部隊解散には最後まで反対したといいます。

 容保は京都守護職の辞任を申請しますがこれも却下され、同年12月に孝明天皇が突然崩御したこともあり、容保の目指した公武一和はもはや実現不可能な状態に陥っていました。

鳥羽・伏見の戦い~

 慶応3年(1867)3月の大政奉還にも反対の立場だった容保でしたが、同年12月の王政復古により京都守護職を解任。徹底抗戦派の主張は変わらなかったものの、慶喜に従って大坂へと下ります。

 明治元年(1868)1月に鳥羽・伏見の戦いが勃発すると、官位を剥奪され、容保は朝敵の汚名を着ることとなります。江戸に帰着した後も慶喜に対して幕府軍としての再挙を促しますが容れられず、謝罪状を松平慶永らに託して袂を分かち、会津へと帰国します。

 同年8月には会津も新政府軍の攻撃を受け、会津若松城に1か月もの間籠城して戦いましたが、9月に降伏。この間、容保は孝明天皇から下賜された御製を錦の袋に入れて背負い、戦場を駆けたと伝わっています。

戦後

 容保は12月に鳥取藩に永預となり、翌明治2年(1869)12月に和歌山藩に預替として移送されます。しかし明治4年(1871)3月に身柄は「謹慎」となり、翌明治5年(1872)1月には赦免されることになりました。

 これに先立つ明治2年(1869)9月、同年の6月に誕生した容保の実子・容大に家名の再興が許可され、11月に陸奥3万石を与えられ「斗南藩」(現在の青森県東部)と名付けられました。

 明治13年(1880)2月、容保は日光東照宮の宮司に就任します。翌月には上野東照宮の祠官も兼ね、6月には会津藩祖・保科正之を祀る土津(はにつ)神社の祠官も兼務しました。ちなみに容保の後継として日光東照宮の宮司に就任したのは実弟・定敬で、2年間奉仕したといいます。兄弟そろって徳川の霊を祀るという任を務めたことに、「松平」としての矜持を感じさせます。

 明治26年(1893)12月5日、容保は満57歳の生涯を閉じました。藩祖以来の伝統である神道にのっとって葬られ、戒名ではなく「忠誠霊神」の諡号を贈られました。墓地は福島県会津若松市東山町院内、松平家廟所にあります。

おわりに

 新撰組や見廻組ら、武辺の者を束ねた松平容保。しかし朝廷を尊び、幕府にも対等に建言できる数少ない人材でもありました。侍の本来の務めが朝廷を守ることとすれば、幕末においてその任を果たした代表格が容保だったといえるでしょう。

 眉目秀麗で礼を重んじる東北の大名に、京の人々は古の武官の姿を思い描いたのではなかったでしょうか。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
  • 『日本人名大辞典』(ジャパンナレッジ版) 講談社
  • 金戒光明寺HP

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  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術についての考察記事を中心に執筆。 全国の史跡を訪ねることも多いため、歴史を題材にした旅行記事も書く。 「帯刀古禄」名義で歴史小説、「三條すずしろ」名義でWEB小説をそれぞれ執筆。 活動記録や記事を公開した「すずしろブログ」を ...

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