「丹後局(高階栄子)」朝廷内で発言力をもった後白河院の寵妃
- 2022/03/08
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての朝廷において、院の寵愛を得た女性として、そして広大な所領をもつ女院の生母として、政治の発言力をもった女性がいました。それが後白河院の寵妃・丹後局(たんごのつぼね)です。
平業房の室として
丹後局(たんごのつぼね)こと高階栄子は、一説には僧澄雲あるいは僧章尋を父にもち、建春門院平滋子(平清盛の継室・時子の異母妹)の乳母・若狭局(平政子)を母にもつとされます。それを信用するならば、丹後局は清盛と同じく平正盛の孫ということになります。また、丹後局の夫である平業房(なりふさ)は正盛の弟・維盛の曾孫にあたるため、夫婦そろって平氏とつながりをもっているというわけです。業房との間には、平業兼、教成ほか、3人の娘が生まれました。
業房は後白河院の近臣のひとりでした。どうやら今様(いまよう/平安時代から鎌倉初期にかけて流行した歌謡)を通じて後白河院に気に入られたようです。大河ドラマ「平清盛」で知られるように後白河院は今様を好んだ人物で、『梁塵秘抄』という歌謡集を編纂しています。
治承元(1177)年6月に起こった鹿ヶ谷の変では多くの後白河院近臣が処分されていますが、業房は後白河院の懇願により清盛に釈放されています。それほど気に入られていたのでしょう。
後白河院の寵妃
丹後局が後白河院に寵愛されるようになったのは、治承3(1179)年の清盛のクーデターのころではないかと考えられています。幽閉された後白河の近くに侍ることが許されたのはわずかな人のみで、そのうちのひとりが丹後局だったようです。ちなみに、このクーデターにより夫の業房は伊豆国に流され、殺害されています。後白河院はそれ以降片時も丹後局を離さないほど寵愛したようで、それにつれて丹後局の発言力が強くなっていきました。
宣陽門院の生母として権力をもつ
養和元(1181)年10月5日、丹後局と後白河院の間に生まれたのが第6皇女です。文治5(1189)年には9歳で内親王宣下を受けて覲子内親王となり、あわせて准三宮(准三后/太皇太后宮、皇太后宮、皇后宮の三宮に准ずる称号)の宣旨を受けています。さらに、建久2(1191)年6月には11歳で院号宣下を受け、宣陽門院となりました。これにあわせて、母の丹後局も従二位に叙されています。
女院(にょういん)は太上天皇に准ずる待遇を受けます。初例は平安中期の一条天皇の生母・藤原詮子(東三条院)です。
もともとは母后が与えられるものでしたが、やがて生母ではない后や、未婚の内親王の女院も増えていきました。后位を経ることなく女院になった内親王の初例は鳥羽院皇女暲子内親王・八条院です。院政期は、この八条院と、宣陽門院が膨大な所領をもつ女院の代表格でした。
宣陽門院は父・後白河院の死後に長講堂領を伝領しています。多い時には180以上もの荘園があったといい、宣陽門院が並はずれた経済力を持っていたことがわかります。そのおかげで、丹後局は後白河院の死後もある程度発言力を保ったのでしょう。
後鳥羽天皇を天皇に
寿永2(1183)年、平氏は清盛の娘・平徳子(建礼門院)を母にもつ安徳天皇を奉じて都落ちしました。安徳天皇を連れた平氏はその後屋島を内裏としますが、朝廷ではそのようなことは認められません。そこで、後白河院は新たに高倉天皇の第4皇子である後鳥羽天皇(安徳天皇は異母兄)を立てました。
この時、後鳥羽天皇を推したのは丹後局だったといいます。どこまで本当かわかりませんが、『平家物語』にこのような場面があります。
「浄土寺の二位殿、そのときはいまだ丹後殿とて御前に候はせ給ふが、「さて御ゆづりは、此宮にてこそわたらせおはしましさぶらはめ」と申させ給へば、法皇、「仔細にや」とぞ仰せける」
皇位継承候補の皇子たちと対面する後白河院のそばに控えていた丹後局が「皇位をお継ぎになるのはこの宮(後鳥羽天皇)でいらっしゃるのでしょうね」と言うと、院が「いかにも」と答えた、という場面です。
その他の政治介入
文治2(1186)年3月、源頼朝の要求で摂政が近衛基通から九条兼実(基通は甥)に変えられました。丹後はこの件に関わっていました。また同年7月に起こった地頭の問題にも関わり、兵糧米停止に関与しています。後白河院崩御の後
丹後局は、先述のとおり後白河院が崩御した後も宣陽門院の後見人として発言力を持っていました。建久6(1195)年ごろ、娘の入内を考える頼朝が、後鳥羽天皇の後宮を支配していた丹後局やその娘である宣陽門院に近づき、幾度も献上品を贈っています。そのころ、九条兼実は亡くなった後白河院の側近たちと対立していました。兼実を疎ましく思う者たちは、丹後局や女院別当の源通親と組み、兼実を排除する機会を狙っていました。
頼朝といえば、兼実を摂政にした人物です。兼実は娘・任子を入内させていて、ここで頼朝が娘を入内させようとするならば、両者はライバルになるわけです。おまけに頼朝が娘の入内を叶えるには、兼実と敵対する立場の丹後局に近づいてゴマをすらなければならないわけで、頼朝と兼実の間に亀裂が入ることは必至。丹後局らはその状況を利用しました。
支援者の頼朝を失った兼実は娘・任子の皇子出産を待つばかりでしたが、生まれたのは皇女でした。しかもさらにひどいのは、源通親の妻の連れ子・在子が産んだのが皇子(のちの土御門天皇)だったことです。これで兼実は最後の望みを絶たれました。
建久7(1196)年11月、兼実は関白を罷免されました。その後、丹後局は皇子の外祖父となった通親とともに朝廷の実権を握りました。
しかし、その後の丹後局についてはあまりわかっていません。後鳥羽天皇が土御門天皇に譲位してからは院政を敷いたため、丹後局は徐々に発言力を失っていったのでしょう。建仁2(1202)年に通親が亡くなってからは力を失い、東山の浄土寺に移り住んで建保4(1216)年に亡くなりました。
【主な参考文献】
- 『国史大辞典』(吉川弘文館)
- 『世界大百科事典』(平凡社)
- 『日本人名大辞典』(講談社)
- 校注・訳:市古貞次『新編日本古典文学全集46 平家物語(2)』(小学館、1994年)※本文中の引用はこれに拠る。
- 元木泰雄『源頼朝 武家政治の創始者』(中央公論新社、2019年)
- 渡辺保『北条政子』(吉川弘文館、1961年 ※新装版1985年)
- 斎賀万智「後白河院説話の周辺に関する一考察―六条西洞院とその周辺の人々の関係性から―」(『国文学研究ノート』53巻、神戸大学「研究ノート」の会、2014年10月)
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