「阿波局(北条時政の娘)」梶原景時一族を滅ぼすきっかけをつくった実朝の乳母

阿波局(あわのつぼね)とは、北条時政を父に、北条政子を姉にもつ女性です。本名もわからない人物ですが、源頼朝に重用されて活躍した梶原景時一族を滅亡させるきっかけをつくったとされています。

北条政子の妹・阿波局

阿波局は、北条時政の娘として生まれました。姉に北条政子が、ほかに北条義時、宗時らの兄弟がいます。生まれた年や実名はわかっていません。2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では義時の妹と設定されているようです。

阿波局は姉の夫・源頼朝の弟である阿野全成(あのぜんじょう)に嫁ぎ、全成との間に時元(全成の四男)をもうけました。

全成は源義朝と常盤御前の間に生まれた最初の子「今若」で、義経は同母弟にあたります。父義朝亡き後は醍醐寺の僧侶として過ごしていましたが、頼朝挙兵後の治承4(1180)年10月に兄のもとへ駆けつけました。頼朝の弟の中でいちばん最後まで生き残ったのが全成でした。

頼朝の次男・千幡(のちの実朝)が生まれると、叔母である阿波局は乳母(めのと)になり、あわせて夫の全成は乳母夫(めのとぶ/めのと)に就任しました。乳母は養育にあたる女性のことで、乳母夫は養育の責任をもつ後見人のような立場でした。

梶原景時の変

頼朝が亡くなり、その嫡男・頼家が後継者となった正治元(1199)年10月25日のこと。頼朝の近習だった御家人の結城朝光が「忠臣は二君に仕えないというが、自分は頼朝が亡くなった時に出家遁世しなかったことが悔やまれる。今の世は薄氷を踏むようで心配だ」と頼朝の時代を懐かしんで発言しました。

その二日後の10月27日、御所で仕えていた阿波局が朝光のところにやってきて、「あなたは梶原景時の讒訴で謀反人とされ、殺されることになっている」と告げ口しました。阿波局がどこで聞いたのかはわかりませんが、朝光はこれを聞いて驚き、三浦義村に相談しました。

義村はこれまでの景時の行いもあわせて非難し、事態は景時を弾劾する方向へ進みます。朝光が阿波局から話を聞いた翌日の28日には御家人66名の連署が集められ、仲原仲業が弾劾文を書き起こし、大江広元に提出されました。

11月13日、弾劾文を受け取った頼家は景時を呼び出して弁明を求めましたが、景時は何も答えませんでした。翌正治2(1200)年正月20日、鎌倉から追放された景時は上洛をめざしますが、その途で追討に向かった御家人によって討ち取られ、一族は滅ぼされてしまいました。

この事件、阿波局の言葉だけで「景時の讒言で殺される」と信じてしまう朝光もどうかと思いますが、しかしそんなうわさのような話でも信じてしまうほどに景時は人望がなかったのでしょう。

きっかけこそ阿波局の告げ口ですが、その背後には父の北条時政あるいは姉の政子がいた可能性が考えられます。

『吾妻鏡』に書かれた内容とは別に、五摂家のひとつである九条家の祖・九条兼実の日記『玉葉』を見ると、どうも景時追放までの話が少し違うようです。

ここまで見てきたようにとにかく人に嫌われる人物らしい景時は、御家人たちのそしりを受けていて、景時を悪く言う者たちを「頼家の弟・千幡を主君にして頼家を討つつもりでいる」として頼家に讒訴しました。頼家が御家人たちに問いただせば、「景時と直接対決する」と言います。しかし景時は彼らとやり合うだけの力がいなかったのか、鎌倉を追われてしまいました。

どちらが本当かはわかりません。『玉葉』の内容はそしりを受ける景時が相手方を陥れようとついたウソなのかもしれません。しかし、このような話を遠く離れた京の兼実が知っていることを考えると、根も葉もないウソというわけでもないのかもしれません。

のちに頼家の外戚である比企氏と北条氏が後継者をめぐって対立することになります。頼家の子・一幡を擁する比企氏と、千幡を擁する北条氏+阿野全成。千幡を擁立しようという動きはすでにこのころからあったのかもしれません。

景時は頼家の乳母夫で、頼家側の人間でしたから、北条氏が千幡擁立のため景時を追放すべく阿波局を使ってことを起こしたと考えることもできそうです。

夫・阿野全成の失脚

建仁3(1203)年5月19日、頼家は阿波局の夫・全成に謀反の疑いがあるとして捕らえられました。妻の阿波局も捕らえられるところでしたが、政子が拒否したおかげで連座を免れています。全成は常陸国に配流となり、そこで誅殺されてしまいました。全成の子・頼全ものちに京都で殺されています。

千幡の乳母夫であった全成がいなくなった後、その座についたのは時政でした。今までは頼朝の岳父として一応敬われながらも、大きな力をもっていなかった時政。この後に後継者の座をめぐって一幡と千幡それぞれを養育する比企氏と北条氏のバトルが始まることを思うと、あるいは全成も時政や政子の策略にはめられて殺されたのでは、と勘繰ってしまいます。そしてその場合、彼らに命じられて動いたのは阿波局だったのではないでしょうか。

その後も阿波局は実朝に仕え、嘉禄3(1227)年11月4日に亡くなりました。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 『世界大百科事典』(平凡社)
  • 『日本人名大辞典』(講談社)
  • 岡田清一『北条義時 これ運命の縮まるべき端か』(ミネルヴァ書房、2019年)
  • 永井晋『鎌倉幕府の転換点 『吾妻鏡』を読みなおす』(吉川弘文館、2019年)
  • 元木泰雄『源頼朝 武家政治の創始者』(中央公論新社、2019年)
  • 渡辺保『北条政子』(吉川弘文館、1961年 ※新装版1985年)
  • 『国史大系 吾妻鏡(新訂増補 普及版)』(吉川弘文館)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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