「前島密」日本史の教科書や大河ドラマに登場する郵便制度の生みの親!賞や1円切手が話題となった政治家

「日本近代郵便の父」と言われ、明治日本の通信制度の基礎を築いた人物がいます。
のちの逓信次官・前島密(まえじま ひそか)です。

密は豪農の家に生まれますが、幼くして父と死別。貧しい生活を強いられ、苦学して学問を修めました。
長じて英語と出会い、海運に興味を抱きます。
幕臣時代には漢字廃止を上訴。明治政府内ではいち早く東京奠都を大久保利通に献言するなどしています。


民部省では、渋沢栄一とともに旧制度改革に着手。郵便制度の確立にも尽力していきました。
一度は内務卿代理や元老院議官を拝命。下野後は早稲田大学の校長となり、後進の教育に情熱を注ぎます。政府復帰後は逓信省次官として電話事業の発展に尽力しました。

密は何を目指し、何と戦い、どう生きたのでしょうか。前島密の生涯を見ていきましょう。


苦労人の前半生

豪農の子として生まれる

天保6(1835)年1月、前島密は越後国頸城郡下池部村で豪農・上野助右衛門の次男として生を受けました。母は高田藩士の娘・ていです。幼名は房五郎(※)と名乗りました。


※ 混乱を避けるため、以降の名前の表記は「密(ひそか)」で統一します。

同年8月、父・助右衛門は病没しています。
天保9(1838)年、密が4歳のとき、母・ていは高田の実家に移住。裁縫などの針仕事で整形を立てることとなりました。


ていは教育熱心な母親だったそうです。幼い密に対し、錦絵や往来物(教科書)を買い与えるなど、働きながら学問の大事さを教えていたようです。


天保12(1841)年、密らは糸魚川に移住し、叔父で糸魚川藩藩医・相沢文仲に養われることとなりました。


当時の密は文才も発揮しています。
句会で詠んだ句「夕鴉しょんぼりとまる冬木立」で商品を獲得。周囲に才能を認められたことがありました。
しかし母・ていは褒めることはせず、才能に溺れることを嗜めます。
密はこれを一生の教訓にしていました。


筆耕と遊学生活

密は厳しい環境の中で学問に打ち込みます。
天保15(1844)年、高田藩の儒学者・倉石典太に入塾。わずか10歳で下池部の家に戻りました。
冬は7キロの険しい雪道を往復。苦学して自分を磨いていたようです。


密の向学心は収まらず、やがて江戸への遊学を望むようになって行きました。
母・ていは反対するどころか、密を激励。僅かながら旅費と学資を与えて送り出します。
天保17(1846)年、12歳の密は単身で故郷を出立。江戸への遊学のために旅立ちました。


しかし江戸での暮らしは厳しいものでした。文房具や雑用品を購入し、残った金を学資に充てましたが、三ヶ月ほどで底をついたため、密は自ら生計を立てる必要が出て来ました。


密は医者の家で手伝いをしながら学問を続けます。さらに実益と学問を兼ねて、本を書き写す「筆耕」の仕事を請け負っていました。政治や兵法、西洋の事情に関する本などを筆写し、収入を増やすと同時に自分の知識を蓄えていきました。


海運を学ぶ

商船との出会い

嘉永6(1853)年、日本中に激震が走ります。
浦賀沖にアメリカの使節・ペリー提督が艦隊を率いて浦賀沖に来航。幕府に開国を要求しました。


密は非常な興味を抱き、実際に行動に出ています。ペリーの接見役・井戸石見守の従者として浦賀に随行。艦隊の様子をつぶさに観察しています。


ペリー上陸記念碑
ペリーが浦賀沖に来航した時、アメリカ大統領の国書を受け取ることになった場所にペリー上陸記念碑(神奈川県横須賀市久里浜)がある。

密は軍艦や軍人の立派さに感心。国防の考察のために全国の港湾を視察することを決めます。
旅程では北陸道から山陰道、小倉から九州を一周。さらに四国を通り、紀州と伊勢から東海道を経て江戸に戻ります。


港湾見学は実の伴わない行動だったと悟り、ここで密は改めて学問に打ち込み始めました。
幕臣・下曽根信敦に兵法・砲術を師事。設楽弾正の家臣からは数学を学んでいます。


安政4(1857)年には、軍艦教授所に入所。機関学を学び始め、ここで商船に興味を抱くようになります。


安政6(1859)年には、蝦夷地の箱館にある諸術調所に入塾。武田斐三郎から航海測量と帆船の操縦について学びます。調所の航海実習では二度の日本周回を実施。船員の実務を学ぶ他、樺太南岸まで航行しています。


洋行を企画する

当時の密は洋行を望んでました。
外国奉行組頭・向山栄五郎がロシア艦船事件処理のために対馬へ赴くと、密はこれに随行。長崎でアメリカ人宣教師・フルベッキから英数学を学びます。


文久3(1863)年、遣欧使節の通訳・何礼之の従者として洋行する機会が訪れました。
密は江戸に向かいますが、乗船した福岡藩のコロンビア号が故障。江戸に到着したのは、遣欧使節一行が出国した後のことでした。
密は洋行の機会を逃してしまったのです。


英語を教える

しかし密は立ち止まりません。翌年、何礼之(が のりゆき)が英語を教える私塾を開設。密はその塾頭となって後進の指導にあたることとなりました。


さらに密は学舎「倍社」を開き、生活困窮者の若者が安い費用で生活できる環境を整えています。しかし金銭問題が起き、倍社は閉鎖してしまいました。


慶応元(1865)年、倍社の一員・鮫島誠造を通じて、鹿児島藩(鹿児島県)の招きに応じ、鹿児島開成学校の英語教授として鹿児島に赴きます。開成所の生徒は増えますが、薩摩の藩論は次第に倒幕へと傾斜。密の考えとは齟齬が生まれていきます。


こうした中、同年に兄・又右衛門が死去したため、密はその知らせを受けて鹿児島を去ることとなります。


幕臣の前島家に養子入りし、漢字廃止を幕府に訴える

密は江戸に戻り、新たな人生を歩み始めます。
慶応2(1866)年、密は江戸城に登城。幕臣で京都見廻組・前島錠二郎に養子入りし、家督を相続します。
さらに幕臣・清水與一郎の娘・なかと結婚。江戸での生活を送り始めます。


幕臣となったものの、密は無役でした。そこで近隣の若者に学問の指導を開始。門弟の中には、星亨(後の衆議院議長。逓信大臣)もいました。同年には幕府開成所の翻訳筆記方を拝命。後進の幕臣を指導する立場となりました。


一方で強い問題意識を持って行動。同年の年末には、「漢字御廃止之議」を幕府に建白しています。 
漢字を廃止し、ひらがなを用いるべきという考えは、先進的すぎるものでした。


漢字廃止を思い立ったのは、密が青年時代に江戸から帰省して、お土産の絵草紙と三字経を甥に教えてみたときに、漢字教育の難しさを痛感したからだといいます。


慶応3(1867)年には、開成所数学教授を拝命。勝海舟の門前で会津藩士に日本の現状と将来のあるべき姿を語っています。


江戸遷都を提唱

当時、密は港湾事務の知識を得ようと画策していました。兵庫奉行・柴田日向守に随行して神戸に赴任。税関傭英人のシイルから多くのことを学んでます。神戸で密は居留地規則を翻訳。税関や保税倉庫の事務について深い知識を得ることができました。


しかし同年、将軍・慶喜が大政奉還を断行。幕府政治は終わりを告げることとなりました。
ここで密は領地還納を建白。通常であれば、重罪に処せられるほどの言説です。
当時の密は、朝廷中心の中央政府を考えていました。


慶応4(1868)年、明治新政府が樹立します。
密は江戸遷都を提唱。当時大阪遷都を唱えていた薩摩大久保に建言書を送っています。
同年に江戸は「東京」と改称。明治天皇が移られ、東京は首都機能を持つようになりました。


フランスの新聞雑誌に描かれた、1868年の明治天皇の東京行幸の様子
フランスの新聞雑誌に描かれた、1868年の明治天皇の東京行幸の様子(出所:wikipedia

やがて徳川家は静岡に移ります。
密も公用人を拝命。旧幕臣の処置や静岡の経営に深く携わることとなりました。
静岡藩では遠州中泉奉行や開業方物産掛を拝命。旧幕臣らに長屋を建設したり、特産品を売らせる仕事に従事しています。


明治新政府に出仕、郵便制度をつくる

鉄道敷設を立案

明治2(1869)年、密は明治政府からの要請で民部省改正掛に出仕。渋沢栄一らとともに旧来制度を改めて近代国家建設を担うこととなります。大隈重信の求めで鉄道開設の計算書「鉄道憶測」をわずか数日で作成。東京・横浜間の鉄道建設に大きく寄与しました。


明治3(1870)年には租税権正と駅逓権正を兼任。税制改革並びに、水陸運輸駅路と通信を管理することとなります。


郵便事業の整備等

密は全国を旅した経験から、郵便事業の整備が急務だと考えていました。


郵便局のイラスト

同年に密は郵便創業の建議を立案。直後に駅逓権正を解任され、郵便制度視察のためにイギリスに渡っています。
イギリスの郵便局では、郵便為替、郵便貯金、郵便保険も実施していました。


そして翌明治4(1871)年3月1日には、東京大阪間で官営の郵便事業が開始されます。
8月にイギリスから帰国した密は駅逓頭を拝命し、郵便制度の基礎を築く立場となるのです。


一方で運輸関係にも積極的に関わっていきます。
明治5(1872)年には陸海元会社(日本通運株式会社の前身)、郵便報知新聞(スポーツ報知の前身)の設立に関与しています。


明治8(1875)年に三菱商会(日本郵船株式会社の前身)を助成し、海運振興政策を推進することとなります。同年には日米郵便交換条約を締結。正式な外国郵便を開始し、日本の郵便事業をさらに発展させました。


訓盲院を設立

また、明治9(1876)年には、視覚障がい者の教育を目指す楽善会(らくぜんかい)に加わり、私金を使って訓盲院(現在の筑波大学付属盲学校の前身)の設立に力を尽くしました。

訓盲院はのちに、楽善会から文部省に移管されて官立学校となりましたが、密は同校の役員として、引き続き、その運営発展に努めています。


内務卿代理と早稲田大学校長就任

士族反乱が頻発すると、電信線の切断が問題となりました。
密は飛信逓送の制度を確立。継送により、迅速に最至急の手紙を運ぶように対応しています。
明治9(1876)年、内務少輔を拝命。駅逓から内政まで所管することとなりました。


明治10(1877)年に西南戦争が勃発。大久保は鎮圧のために京都に出向しています。
密は内務卿の代理を遂行。警察を含む内政を担当し、戦線派遣の巡査徴募にも当たっています。


明治11(1878)年には元老院議官を拝命。政府の枢要ポストを任されるほどになっていました。明治14(1881)年には明治十四年の政変で下野。大隈重信とともに立憲改進党を結党しています。


明治15(1882)年、東京専門学校(早稲田大学の前身)が開校。密は評議員となっています。
明治19(1886)年には校務、翌年には校長に就任するなど、教育界でも第一線に在りました。


大隈重信が開設した早稲田大学の前身・東京専門学校
大隈重信が設立した早稲田大学の前身「東京専門学校」の校舎と学生たち(1884年5月)


逓信省の設立を実現

明治18(1885)年に内閣制度が発足。逓信省が設立されました。

逓信省は、通信・交通全体を統括する省庁です。農商務省から駅逓局と管船局、旧工部省から電話局と燈台局を移管。「逓信」は駅逓の「逓」と電信の「信」を合わせて作られた言葉でした。


逓信省の設立は、密も以前から望んでいたことでした。
しかし以前から電話事業の帰属を巡り論争が勃発。官営か民営かを巡る議論には、決着が見られていませんでした。


明治21(1888)年、密は逓信大臣・榎本武揚の要請によって逓信省次官を拝命。電話事業の官営化に意見を統一します。
明治23(1890)年には、東京・横浜市内とその相互間に電話交換業務を開設。電話の利便性が理解されると、普及は急激に進んでいくようになります。翌明治24(1891)年、密は電話交換業務の普及を見届けると次官を辞職しました。


明治35(1902)年、男爵に叙任。明治37(1904)年には貴族院議員に名を連ねています。
明治43(1910)年には、密は全ての公職を辞任。九州各地を旅行するなど気ままな暮らしに入りました。


神奈川県の芦名に隠居所「如々山荘」を建設。以降は同所で過ごし、住民や自然と親しむようになります。
大正6(1917)年に妻・仲子が死去。以降、深く落胆した密は体調を崩すようになります。


大正8(1919)年に病没。享年八十四。墓所は仲子とともに山荘に隣接する浄楽寺にあります。



【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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