「工藤祐経」曾我兄弟の仇討ちで殺された伊豆の武士

鎌倉時代後期から室町時代初期にかけて成立した『曾我物語』という軍記物語があります。この物語は源頼朝が催した富士の巻狩で起こった曾我兄弟の仇討ち事件(日本三大仇討ちのひとつ)を題材としています。

その発端は、伊豆の所領相続をめぐって工藤祐経(くどう すけつね)と伊東祐親が対立し、祐経が祐親の子・河津祐泰を暗殺したことにありました。「曾我兄弟」こと祐通の遺児の曾我祐成・時致は18年の苦難に耐え、父を殺した祐経を討ち果たすのです。

工藤祐経はなぜ河津祐泰を暗殺したのか。本稿では伊東祐親を深く恨んだ祐経の生涯を見ていきましょう。

後継者に恵まれなかった工藤祐隆

工藤祐継(すけつぎ)の子として生まれた祐経は、父が早くに亡くなったことから義理の叔父にあたる伊東祐親(すけちか)の後見を受けました。

祐経と祐親の確執は、祐経の祖父にあたる工藤祐隆(すけたか)の選択にありました。工藤氏の惣領であった祐隆は、嫡男・祐家(祐親の父)が早世したことにより後継者を失い、後妻の連れ子(娘)の子を養子に迎えて後継としたのです。その養子こそ、祐経の父の祐継でした。

祐家が長生きしていれば、嫡流の祐親が工藤氏の惣領になるはずだったのです。祐継は養子とはいえ実は祐隆の実子とも言われるので、全く血のつながらない赤の他人というわけではありませんが、祐親はいい気はしなかったでしょう。祐親も祐継と同様に祐隆の養子になったものの次男の扱いで、本領の伊東荘ではなく河津荘が与えられ、河津二郎と称しました。

平家に仕えた時期も

祐経は13歳で元服すると、後見人の祐親の娘である万劫御前(まんごうごぜん)を妻に迎え、上洛して小松殿こと平重盛に仕えました。上洛後の祐経は14歳のころに院の御所を警護する武者所に仕え、21歳で最上位の一﨟(いちろう)の地位について「工藤一﨟」と称されました。

『曾我物語』によると、万劫御前を祐経に嫁がせること、上洛して重盛に目通りさせることは、祐継の遺言であったようです。

祐継はふたりの婚姻により伊東荘と河津荘を協力して治めることを期待したのでしょう。祐経には祐親を頼りにするよう言い聞かせて亡くなりましたが、祐継の思うようにはなりませんでした。

所領の伊東荘をめぐる争い

祐親は祐継が亡くなると、これ幸いとばかりに伊東荘に移り、伊東祐親を名乗るようになりました。河津荘は嫡男の祐泰(祐通)に譲って河津祐泰と名乗らせ、さらに自身は本領の伊東荘を押領し、伊東荘・河津荘の両荘を独占したのです。

元服したとはいえまだ幼い祐経は、当初何もできなかったのでしょう。やがて祐親に対する恨みを抱くようになり、大宮大進遠頼朝臣を通じて何度も訴訟をしましたが、祐親が賄賂を贈って根回ししたことで空振りに終わります。

その後祐経は伊豆へ戻りましたが、祐経による祐親父子暗殺計画が祐親に知られてしまい、今度は妻の万劫御前と離縁させられてしまいます。祐経の祐親に対する恨みはこの一件でこらえきれないほどになったのでしょうか。

安元2(1176)年10月、祐経はとうとう祐親父子殺害を郎党に命じ、狩猟に出ていた祐親と祐泰を襲撃させました。しかし、祐泰を射落とすことに成功したものの、祐親は取り逃がしてしまいました。

祐経の一番のねらいは祐親殺害だったはずですから、本懐は遂げられなかったということです。それでも祐親を苦しめることはできたでしょう。

『曾我物語』には、死んでしまった祐泰の首を抱きかかえて「なぜ自分ではなく子が死んでしまったのか」と泣く祐親の描写があります。自分の行いにより祐泰を死なせてしまった後悔の気持ちはあったのではないでしょうか。

この時、のちに祐経を討つことになる曾我祐成(すけなり)、時致(ときむね)の「曾我兄弟」はまだそれぞれ5歳、3歳でした。

教養ある文化人として頼朝に寵遇される

一時は平重盛に仕えていた祐経ですが、元暦元(1184)年にはすでに頼朝の家臣のひとりになっていたことがわかっています。『吾妻鏡』に祐経が初めて登場するのはこの年の一ノ谷の戦い後、4月20日条です。

この時、一ノ谷の戦いで捕虜となり護送された平重衡を慰めるため、宴席が設けられました。その場で祐経は、「祐經打鼓歌今樣」つまり鼓を打って今様を歌った、とあります。祐経は重盛に仕えていたころ、その弟の重衡をいつも見ていたため、とても憐れんだようです。

在京中に舞楽をよく学んだ祐経は、関東の武士たちにはない都会的な素養が身についていたのでしょう。それが頼朝に重用された理由のひとつだといわれています。

祐経の鼓で有名なエピソードは、捕らえられた静御前が頼朝の前で舞を踊った出来事でしょう。

文治2(1186)年、義経の妾で白拍子の静御前は、吉野で義経と別れた後捕らえられて鎌倉へ送られました。頼朝と政子が鶴岡八幡宮へ詣でた際、頼朝は静御前を呼び出して舞を踊らせました。

『吾妻鏡』には以下のように記されています。

「左衛門尉祐經鼓是生數代勇士之家。雖繼楯戟之塵。歴一臈上日之職。自携歌吹曲之故也。從此役歟」
『吾妻鏡』文治2(1186)年4月8日条より

左衛門尉祐経は勇士の家に生まれただけでなく、都で一臈の地位にあったころにこういったことになじんでいたからこの役目を与えられたのだろうか、と。

この後、静御前が義経を恋しく思う歌をうたったため、激怒します。それを政子が過去に頼朝と引き裂かれそうになった時に恋しく思ったこと、石橋山合戦の折に頼朝の安否が不安であったことなどを挙げながら、静御前の今の気持ちは理解できるとなだめたとされています。

静御前のエピソードの中でも特に有名な見せ場に、祐経も居合わせたのでした。

富士の巻狩で曾我兄弟に討たれる

頼朝が征夷大将軍に任ぜられた翌年の建久4(1193)年5月、頼朝は富士の巻狩を開催し、嫡男・頼家の武芸を披露しました。頼家のお披露目は見事成功したといえますが、この行事の最中にある事件が起こります。

5月28日の夜、曾我兄弟が侵入し、父の敵である祐経を殺害したのです。

『曾我物語』によれば、曾我兄弟は祐経が酔って眠っていたところを起こしてから切りつけたとか。『吾妻鏡』によれば事件は深夜で、外は激しい雷雨だったようで、騒動で人々が混乱する中、何名家の武士が負傷したということです。

父の敵を討ち取った曾我兄弟。兄の祐成は仁田忠常に討たれ、弟の時致は頼朝をも討とうとして取り押さえられ、最終的には斬首されました。頼朝は時致を尋問する中で、あまりの潔さに「これほどの男はなかなかいない、武士の手本のようだ」と考え、助命しようとしましたが、祐経の遺児・犬房(のちの伊東祐時)が泣いて仇討ちを訴えたため、殺されることになったようです。

江戸時代の仇討ち(敵討ち)は幕府に届け出ることで認められる公認の制度で、仇討ちを遂げるまで藩に帰れないとか、仇討ちしてはいけない場所があるなどの決まりもあったようです。その中には仇人(仇討ちで討たれた人物)の遺族が討ち手に対して仇討ちをすることを禁じたルールもありました。仇討ちが連鎖するときりがなく、どこまでも終わりません。

このようなルールのない平安末期には、曾我兄弟の仇討ち事件のような仇討ちの連鎖が起こるのは無理もないことだったのかもしれません。工藤祐隆の後継者問題に端を発した恨みの連鎖は、仇討を果たした曾我兄弟が仇人の遺児に殺されることでようやく終わったのでした。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
  • 『世界大百科事典』(平凡社)
  • 『日本人名大辞典』(講談社)
  • 岡田清一『北条義時 これ運命の縮まるべき端か』(ミネルヴァ書房、2019年)
  • 元木泰雄『源頼朝 武家政治の創始者』(中央公論新社、2019年)
  • 校注・訳:梶原正昭・大津雄一・野中哲照『新編日本古典文学全集(53) 曾我物語』(小学館、2002年)
  • 『国史大系 吾妻鏡(新訂増補 普及版)』(吉川弘文館)※本文中の引用はこれに拠る。

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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