「本阿弥光悦」とは?戦国末期の超天才肌芸術家と作品を一挙紹介!

桜ぴょん吉
 2021/11/09

本阿弥光悦の肖像(出所:<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E9%98%BF%E5%BC%A5%E5%85%89%E6%82%A6" target="_blank">wikipedia</a>)
本阿弥光悦の肖像(出所:wikipedia

本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)という名前を聞いたことがあるでしょうか。彼は桶狭間の戦いの2年前に生まれて、戦国時代から江戸時代初期を駆け抜けたアーティスト 兼 芸術プロデューサーです。

織田信長・豊臣秀吉の治世に、大規模な城郭や豪華な障壁画、南蛮風の服装に代表される桃山文化が芽生えました。その中で育った本阿弥光悦は、桃山文化の華やかさを受け継ぎつつも、斬新な構図や洗練された落ち着きを加えて、江戸時代の文化につなげる役割をはたしました。

特定の家に仕官しなかったため、本阿弥光悦の生涯をくわしく追うのは難しい状況です。そこで今回は、光悦の作品や交友関係を中心に紹介します。

本阿弥光悦とは

本阿弥光悦は、永禄元(1558)年に京都の刀剣研磨・刀剣鑑定師の分家に生まれました。母は本阿弥家本家の娘、父は婿養子でした。子供は光悦の他に女子2名が確認されます。

前半生は詳しく分かっていませんが、父親に付き従って修行をしつつ、趣味や交友を深めていたと思われます。芸術活動が盛んになるのは45歳からで、福島正則に協力して『平家納経』の修復をした時からです。

晩年は江戸幕府から京都鷹峰(現在の金閣より北、大文字山を越えたあたり)の地を与えられ、悠々自適な隠居生活&創作生活を楽しんだそうです。その地で寛永14(1637)年に亡くなっています。

家業と両親

本阿弥家について

光悦が生まれた本阿弥家は、代々刀剣研磨・刀剣鑑定を専門にする職人です。足利尊氏に仕えた初代・妙本から、代々京都に居住し、刀剣研磨・刀剣鑑定を担っていました。

彼らは懇意の客はいるものの、特定の大名に代々仕官することなく、本阿弥ブランドを守ってきました。光悦もまた特定の大名に仕えることなく、権力とは無関係なところで芸術活動を行っていますが、それは「本阿弥家」ならではのスタイルでした。

日本刀は研磨するとき、ただ切れるように研ぐ以外にも、「化粧研ぎ」と言って刀身が綺麗に見えるように、刃文や地肌それぞれ研ぎ方を変えて丁寧に仕上げる方法があります。

綺麗に仕上げるためには、刀身をじっくり観察して、それぞれの刀に最適な研ぎ方をしなければなりません。そのような作業を担っていた本阿弥家は、自然と刀剣のよしあしや真贋、作者の特定などの鑑定技術も身に着けていったのでしょう。

室町時代も半ばを過ぎ、世の中が落ち着くと、贈答の機会が増えて、刀剣が贈られることも多くなりました。それに伴い、本阿弥家への依頼も増加。本阿弥家は特定の主に仕えなくても、鑑定料や鑑定書発行手数料などで十分生計をたてられるほどになりました。

光悦の両親について

光悦の父親・光二(大永2(1522)年~慶長8(1603)年)は、もと武家で、京極家の重臣・片岡家の一族です。本阿弥家に婿養子となり、刀剣鑑定を行いました。『本阿弥行状記』によると、今川家の御用を長くつとめ、義元敗死後は織田家の御用をつとめたそうです。

豊臣秀吉の天下では、前田利家から禄をもらっていました。また、今川家御用中に徳川家康と知り合い、それがその後の本阿弥家と徳川将軍家との強い結びつきにつながったそうです。

光悦の母・妙秀(享禄2(1529)年~元和4(1618)年)は、本阿弥宗家の娘です。兄弟が宗家をつぎ、自身は婿を迎えました。

『本阿弥行状記』によれば、彼女はかなりしっかり者。親戚の面倒もよく見て、子供たちに早くから四書五経を習わせるなどのエピソードが盛りだくさんです。また、夫が信長に仕えていたとき、いわれなき誹謗中傷で契約解除されたのですが、命がけで信長に直訴して復職させた伝説も持つ、なかなかの女傑だったそうです。

光悦の芸術センスは、子供の頃から日常的にすばらしい美術刀剣がある環境と、妙秀を慕ってやってくる一族の人々との交流で培われたのかもしれません。

光悦の交友関係

本阿弥光悦のまわりには、現代まで名が残るような芸術家が多く集っていました。

たとえば、慶長7(1602)年の『平家納経』修復で知り合った、絵師の俵屋宗達。彼は現在でも人気な「風神雷神図屏風」の作者です。また、織部焼で有名な古田織部や、繊細な金属工芸品を残した埋忠明寿(うめただみょうじゅ)ももれなく光悦の友人です。そのほか、蒔絵師・金工・茶釜師をはじめ、各方面の職人のネットワークを持っていました。

職人の他にも、大名にも知人がいました。前田利家・徳川家康はその代表です。両家については家臣も光悦と直接交流が確認されます。豪商でも、角倉了以はともに絵入りの木版活字本「嵯峨本」を考案したとされ、親しい付き合いをしていました。

交友関係が広いにも関わらず、光悦が親しくやりとりした中に公家がほぼ見当たりません。戦国時代までの文化活動といえば公家の存在と不可分で、武家や町人は彼らから伝授を受ける立場でした。確かに光悦も書の師匠が公家出身ですが、関係はそれだけ。光悦は、伝統を踏まえつつも武家や町人を主体とした、江戸時代の文化につながる独自の芸術を生み出していきました。

光悦が手がけた作品

本阿弥光悦の手がけた優れた作品は、絵画・書・蒔絵・陶芸などの各方面において、現代にも多く残されています。2021年現在、国宝に2点、重要文化財に18点指定されており、それぞれの代表作品をご紹介します。

光悦の作品としては「扇面月兎画讃(畠山記念館蔵)」が有名です。

俵屋宗達との合作が多く、彼の下絵を描くこともあったので、明治時代までは本阿弥光悦と俵屋宗達同一人物説があったほどでした。本作品は、現在、光悦筆による最高傑作と言われています。

俵屋宗達が下絵を描いた「鶴下三十六歌仙和歌絵巻(京都国立博物館、俵屋宗達:絵)」は重要文化財に指定されています。本作品は、台紙の絵を俵屋宗達が描き、文字を本阿弥光悦が書きました。

光悦は当時から評判の能書家でした。文字の基礎こそ青蓮院尊朝法親王から伝統的な形を習ったものの、独自の工夫を加えて、新たな流派「光悦流」を作っています。光悦の友人で京都所司代の板倉勝重によると、光悦が隠棲した鷹峰には連日光悦の揮毫(サイン)を求める人が列をなしていたそうです。

蒔絵

国宝の「船橋蒔絵硯箱(国宝、東京国立博物館)」は光悦がデザインを手がけました。中央が膨れ上がったユニークな形は、現在でも目新しいものです。光悦の斬新な蒔絵デザインは、加賀蒔絵の基礎になったとも伝わっています。

陶芸

光悦は茶の湯にも造詣があり、「黒楽茶碗 銘時雨(重文、名古屋市博物館)」などの作品を残しています。光悦は古田織部や織田有楽など茶の湯の名人たちと親交がありました。蒔絵とは対照的な落ち着いた茶碗からは、光悦の作風の幅広さが読み取れます。

その他の光悦の作品は、国のポータルサイト「e国宝」「国指定文化財等データベース」のほか、各博物館の所蔵品データベースからも見ることができます。

まとめ

本阿弥光悦の作品は、多く国宝や重要文化財になっているように、絵画・書・陶芸・蒔絵それぞれに秀でた多彩な人でした。

また、光悦の芸術活動を支えたのが彼の人脈です。名のある絵師のほか、有名無名の職人を多数知っていました。お互いに刺激しあったり、光悦のデザインを形にしたりと、彼らの支えの上に光悦の活動も成り立っていました。

光悦は武家との関わりが深く、前田家からは禄を得ていたり、徳川家とは家臣ぐるみで付き合いがあったりします。しかしその一方で当時の文化の中心であった公家との関わりはほぼありません。

従来の文化活動は公家が中心的役割を果たしていました。しかし光悦の登場を機に、文化の主体が公家から武家や町人に移ってゆきます。その点でも、京都の富裕な職人であった光悦の台頭は時代の流れにあったものでした。

光悦の気風はやがて「琳派」として、江戸時代から現代へ受け継がれていくのです。


【主な参考文献】

  この記事を書いた人
桜ぴょん吉 さん
東京大学大学院出身、在野の日本中世史研究者。文化史、特に公家の有職故実や公武 ...

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