日記は歴史を知る手がかり!意外に知らない戦国時代の日記について

桜ぴょん吉
 2021/11/17

古文書・史料のイラスト

みなさんは、戦国時代の日記と聞いた場合、どのようなものを思い浮かべるでしょうか。一般に学校で習う日記は古典文学のことが多いと思います。

『蜻蛉日記』、『更級日記』、『紫式部日記』など、平安時代の女性が随筆的に書いた作品が多く知られています。しかし、全体として見ると、女性の随筆的な日記は少数派。数量としては、むしろ男性の日記のほうが多く、内容も業務日誌的なものが多いのです。

確かに男性の業務日誌は、文学的に面白くないかもしれません。しかし、歴史研究にとってはそれらの日記は必要不可欠。たとえば「本能寺の変は天正10年6月2日未明だった」というような情報を現代まで伝えてくれるのも、彼らの日記なのです。

そこで今回は主に、戦国時代を知る手がかりとしての著名な日記をご紹介したいと思います。

そもそも日記をなぜ書いたのか?

日記は歴史を知る上でとても重要な史料です。平安時代より公家の間で書かれるようになりました。最初はカレンダーの隙間に書いていたのが、だんだん内容が増えて、専用の冊子を作って書くようになりました。

日記を書いていたのは、主に公卿です。内容は出席した儀式の次第や、そのときの服装、饗応で出た食べ物、贈答品、日々の訪問者、政局、事件、天気、日常の私事で面白い事など、多岐にわたります。

公卿は儀式と社交が仕事だったので、自分用の備忘録としてつけていました。同時に当時はマニュアル本などなかったので、子孫のための業務手引書としても詳しい記録を残していました。

次に具体的に戦国時代を知ることのできる著名な日記をいくつか見ていきましょう。

公家の日記:『言継卿記』

『言継卿記』(ときつぐきょうき)は、戦国時代の下級貴族・山科言継(やましなときつぐ)の日記です。山科言継は公家ではありますが、羽林家の出身で、決して地位が高いわけではありません。そのため、政治的重要事件から町のうわさ、庶民の日常風景など幅広い内容が書かれています。

『言継卿記』に記録されているおおよその期間は大永7(1527)年~天正4(1576)年で、重大事件が多数記録されています。たとえば天文元(1532)年に京都山科にあった本願寺が法華一揆に焼き討ちされた事件、また永禄8(1565)年の足利義輝暗殺事件も克明に記録されています。

その他、織田信長の上洛や比叡山延暦寺焼き討ち、安土城築城や石山合戦といった代表的な出来事も網羅しています。戦国乱世から天下泰平までの移行期がリアルタイムでつづられた日記は、戦国時代研究に不可欠です。

庶民的な話題も、『言継卿記』は多く掲載しています。山科言継が住んだ家の近所には、公家の他にも米屋や畳屋といった町人店も多くありました。言継は積極的に庶民と交流しており、たとえば病人に薬を処方したり、町の祭りとなると舞いや歌の稽古をつけに出かけていったりしています。

他にも、言継の日常業務の様子や、手元不如意で品物を質入れした記録、また戦乱を逃れて尾張など各地を回った様子などもあり、等身大の公家の日常が分かる日記となっています。

この時期の公家日記には、他にも三条西実隆の『実隆公記』、近衛尚通の『後法成寺関白記』などがあります。

僧侶の日記:『天文日記』

『天文日記』(てんぶんにっき)は『石山本願寺日記』とも呼ばれる、顕如の父・本願寺証如(ほんがんじしょうにょ)の日記です。本願寺はそれまで京都山科に本拠を構えていましたが、天文元(1532)年に京都を追われ、摂津石山まで逃れてきました。

この日記はそれ以降の石山本願寺の様子が描かれています。おおよその期間は天文5(1536)年~天文23(1554)年。内容は主に領地の統治に関することと、外交とに分かれます。

前者について、石山本願寺は当時加賀の国主と見なされていたので、加賀国の運営や加賀関連の裁判を行っていました。また本願寺内部にも商人・職人が居住するエリアがあり、そこの運営やトラブル解決も証如の責任で行っていました。

後者の外交面では、六角や尼子といった守護大名と渡り合ったり、九条尚経や足利義輝と関係を強化したりと、多方面での関係構築が見られます。

長らく織田信長と戦った一向一揆集団の、強い組織力と、難攻不落の石山本願寺の内情が分かる貴重な史料です。この時期の僧侶の日記には他にも興福寺大乗院尋尊の『大乗院寺社雑事記』などがあります。

神官の日記:『兼見卿記』

『兼見卿記』(かねみきょうき)は、吉田神社の神主である吉田兼見(よしだかねみ)の日記です。

おおよその期間は元亀元(1570)年~文禄元(1592)年で、内容は吉田神道に関わる内容の他に、親しい戦国武将とのやりとりも多く書かれています。

本能寺の変の起こった天正10(1582)年だけ、巻が2つ存在します。1冊は6月12日で終わっていて、もう1冊は年初から年末まで完備しています。実は吉田兼見と明智光秀は仲が良く、本能寺の変後に勅使として度々光秀のもとに出入していたり、金品をもらっていたりします。

ですが光秀は6月13日の山崎の戦いで敗れ、兼見のもとにも織田信孝から事情説明を求める使者が来てしまいます。身の危険を感じた兼見は、前日までの日記を隠して、光秀との関係を削った日記を改めて作成しました。書き直し前と後の日記はともに『史料纂集』で読むことができます。

神社関係の日記としては他にも北野天満宮の『北野社家日記』があります。

武将の日記:『上井覚兼日記』

『上井覚兼日記』(うわいかくけんにっき)は、鹿児島の戦国大名・島津義久の家老をつとめた上井覚兼の日記です。

おおよその期間は天正2(1574)年から天正14(1586)年です。天正5~10年10月までは現存していませんが、それでもなお戦国大名家中の様子がよくわかる貴重な史料となっています。

『上井覚兼日記』には、戦国大名と家臣の関係がよく書かれています。島津家当主の義久が何か決定をする際に重臣たちがどう関わったか、また義久と他の兄弟たちの力関係なども、一家臣の目を通して詳細に書かれています。一方で、長期休暇をとって狩に出かけた様子が嬉々として書いてあるなど、戦国大名家臣のプライベートもうかがうことができます。

文体の面でも、京都の公家日記にはない独特の言い回しがあり、昔の方言の資料としても貴重なものとなっています。

武家の日記としては、室町幕府に仕えた蜷川親元の『親元日記』、戦国武将であれば『駒井日記』や『松平家忠日記』があります。

女性官僚の日記:『お湯殿の上日記』

『お湯殿の上日記(御湯殿上日記)』は、宮中の女官たちが代々書き継いだ業務日誌です。

おおよその期間は文明9(1477)年~文政9(1826)年。女性の手による日記のため、内容は主に平仮名で書かれています。一見すると平安時代の女流文学の系譜を引いているように思われますが、内容は朝廷行事や任官、武家との交渉など公家男性の日記内容と変わりません。

『お湯殿の上日記』は勾当内侍(こうとうのないし)という役職にある女官が中心となって記録の収集にあたり、数日間まとめて記載していたそうです。宮中にも、現代でいう「社内文書」のような部署間の手紙やメモの往来があり、本日記はそれらを参照しつつ記録されました。

何日かまとめて記録していたので、出来事の日付がずれている可能性があり、注意が必要です。一方で、同じ形式でこれほど長く書き継がれた日記は貴重で、朝廷と武家との関係や朝廷政治の変化などを見るにはなくてはならない記録です。

おわりに

日記は書き手の目を通して戦国時代を見ることが出来る貴重な史料です。広く知られている歴史的事件も、もとをたどれば誰かの日記記事が根拠になっていることも少なくありません。

データの宝庫ともいえる日記の研究が進めば、新たな戦国像が出てくるかも。今後の動向に注目です。


【主な参考文献】
  • 元木泰雄・松薗斉編著『日記で読む日本中世史』(ミネルヴァ書房、2011年)
  • 今谷明『言継卿記 公家社会と町衆文化の接点』(そしえて、1980年)
  • 五味文彦編『日記に中世を読む』(吉川弘文館、1998年)
  • 福島金治編『戦国大名論集16 島津氏の研究』(吉川弘文館、1983年)

  この記事を書いた人
桜ぴょん吉 さん
東京大学大学院出身、在野の日本中世史研究者。文化史、特に公家の有職故実や公武 ...

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