「吉田兼見」明智光秀と朝廷とのつなぎ役を果たした公卿
- 2020/05/08
本能寺の変前後の関係者としてはあまり有名ではありませんが、光秀と親友といっていいほどの間柄であった吉田兼見(よしだかねみ)という人物がいます。
光秀に関する史料が乏しいなか、光秀と親しく付き合っていたこの吉田兼見が記した『兼見卿記』は、当時の光秀を知るための貴重な史料となっています。
光秀に関する史料が乏しいなか、光秀と親しく付き合っていたこの吉田兼見が記した『兼見卿記』は、当時の光秀を知るための貴重な史料となっています。
吉田兼見とは
吉田兼見は天文4年(1535年)に吉田兼右(よしだかねみぎ)の子として生まれました。「兼見」と紹介していますが、実はこの名前になったのは光秀死後の天正14(1586)年のこと。光秀存命中は初名の「兼和」で通っていました。
吉田家は京都にある吉田神社の神主の家系であり、兼見は卜部氏25代、吉田家9代の当主にあたります。もともと兼見の父は直系ではなく、その父(つまり兼見の祖父)は学者の家に養子に入った清原宣賢(きよはらののぶかた)です。
順当にいけば兼見も学者の家の子として大学寮にでも入ったのかもしれませんが、兼右の従兄弟にあたる兼満が出奔したことで運命が変わりました。吉田神社の神職を継ぐのは兼満だったのですが、突然消えたために兼右が兼満の養子となる形で当主となったのです。
兼見が吉田神社の神主になったのは、こういう出来事があったからでした。
光秀に石風呂を貸したエピソード
さて、この兼見と光秀のつながりが初めて見えるのが、元亀元(1570)年11月13日のことです。この日、光秀は兼右と兼見親子の邸宅を訪ね、石風呂を所望しました。
石風呂とは今でいうサウナのようなもので、湯につかるのではなく、焼いた石に水をかけて蒸気を発生させる風呂のこと。光秀がこの日石風呂に入っていったことは、兼見の日記である『兼見卿記』に記されています。
光秀とのつながりはどこから?
この石風呂を借りた出来事が日記初登場回だといっても、まさか初対面ではないでしょう。知らない人に突然風呂を借りるなんて考えられないはずです。ということは、この出来事の前にふたりは親しい関係になっていたであろうということ。では、どこで知り合ったのでしょうか?これだ!! という出来事は記録に残っていないのですが、おそらく細川藤孝を介して出会ったものと考えられます。実は、細川藤孝と兼見は従兄弟同士なのです。
藤孝の母は清原宣賢の娘(智慶院とされる)で、兼見の父の姉か妹にあたります。藤孝と光秀は同じ幕臣であり、付き合いが始まったのは光秀が朝倉義景に仕えていたころか、と言われています。藤孝がどこかのタイミングで従兄弟の兼見を紹介していてもおかしくないでしょう。
細川藤孝といえば当代随一の文化人。友人であった光秀も連歌や茶の湯に親しみました。同じく、兼見も二人が参加した茶会や連歌会の場によくいたようです。藤孝を介しているということもあり、ふたりは茶の湯や連歌など、共通の趣味をもつことで親しくなっていったのかもしれません。
兼見の日記『兼見卿記』
先ほどから登場している『兼見卿記』という書物。兼見の日記ですが、これによく光秀の名が登場しています。元亀元年以降、光秀が兼見に人足派遣を依頼したとか、兼見が坂本城を訪問したとか、また神職である兼見に光秀夫婦が病気平癒を依頼した、なんて話もあります。
光秀は坂本城を居城とするようになってから、城で正月と秋に連歌会を催すようになります。また、その他連歌会や茶会に関しても兼見の記録が残っており、光秀の文化活動を知る上でも重要な史料となっています。
光秀のおかげで出世?
中には、「光秀が信長の上洛を知らせてくれた」という記録もあります。これは元亀3(1572)年3月3日のこと。光秀が事前に信長の上洛を知らせたことで、兼見は信長を迎える準備を整えることができたのだそう。この件で初めて信長に面会したのかどうかはわかりませんが、以後、信長に京都での義昭の評判を尋ねられるというような出来事もあったようです。
兼見は吉田神社の神主であると同時に公家でもありましたが、大した身分ではなかったため、公家としては出世が望めるような立場ではありませんでした。ところが、本能寺の変のほんの数年前、信長によって昇殿が許される堂上家の身分になり(といっても堂上家の中では最も地位の低い貴族)、殿上の間に上がることが叶いました。位は従三位。公卿に列席します。
おそらく、もともと公家としての地位もそれほどでなかった兼見は、藤孝や光秀と親しかったことでそのつながりから信長と接点を持つことができたのではないでしょうか。とすると、兼見が公卿になれたのも、もしかすると光秀のおかげだったかもしれません。
朝廷の使者として面会
本能寺の変の後、光秀が友と思っていたであろう藤孝は援軍の要請を断りました。本能寺の変直後は信長の首も出てこず、真偽も確かでないため情報が錯綜したはず。常識的に見れば、信長の家臣である藤孝が光秀を拒むのは当然のことです。しかし、信長の家臣でも武士でもない兼見は違いました。兼見は当時の帝・正親町天皇(おおぎまちてんのう)や誠仁親王(さねひとしんのう)の信頼を得ており、誠仁親王の使者として安土の光秀のもとへ向かったのです。
信長を討った光秀と安土で面会
具体的な話の内容がどんなものだったかはわかりませんが、天正10(1582)年6月7日、『兼見卿記』には、「今度の謀反の存分を相談」したことが記録されています。光秀は信長を討ったあと、すぐに各所の大名たちに書状を送っており、同時に朝廷にも信長亡き後の後継者として認めるよう書状を送っています。
その後で誠仁親王の使者として兼見が訪ねてきたということはつまり、誠仁親王は光秀を次の天下人として認めたということ。兼見の要件は、「今後の京都治安維持を一任する」という誠仁親王の命を告げるためであったともいわれています。
このとき兼見がどういう立場だったのか。おそらく光秀に寄り添う態度を示し、「よくやった!じゃあ今後はどうしようか……」という相談をしたのではないでしょうか。
光秀は朝廷との橋渡しをしてくれる兼見の存在は重宝したでしょう。兼見にとって光秀が信長との仲介者だったように、光秀にとっては兼見が朝廷との仲介者だったのです。
銀子50枚を受け取る
このときの面会によって朝廷に認められた光秀は、兼見に銀子50枚を贈っています。これは兼見にだけでなく、禁中に銀子100枚、寺社にも銀子を贈りました。京都の市民に対しては税を緩めるなど、大盤振る舞いだったようです。
ふたつ存在する天正10年の『兼見卿記』
朝廷に認められてやれ安心、というわけにはいきませんでした。光秀は「三日天下」と揶揄されたとおり、それから1週間もしないうちに山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ去ってしまいます。こうなると、親光秀派であった兼見の立場も危うくなり、彼は日記の都合の悪い箇所を書き換えることで保身を図りました。
実は天正10年の『兼見卿記』は正本と別本の2種類があります。正本は1月から12月までの記録がそろう本で、別本は1月から6月12日までの記録しかない本。つまり、もともと書いていた別本の都合の悪い箇所を書き換え、新たに正本を作ったということ。
正本では、安土で光秀と面会して話し合ったことや、朝廷との仲介役をした件も書き換えられています。銀子50枚をもらった件については、「吉田神社の修復のため」だと言って逃れたとか。
二冊あることについては、別本は途中で紙がなくなったため新しく書き直しただけだ、という説もありますが、意図的に書き換えたと見る考え方が一般的なようです。
【参考文献】
- 明智憲三郎『本能寺の変 431年目の真実』(文芸社文庫、2013年)
- 谷口克広『検証 本能寺の変』(吉川弘文館、2007年)
- 二木謙一編『明智光秀のすべて』(新人物往来社、1994年)
※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄