「平清盛」平氏政権を樹立!武士の身で政権を握った男の生涯

 平安時代末期、世の中が武士の力を必要とした時代に頭角を現し、平氏繁栄の基礎を築き上げた人物が平清盛(たいら の きよもり)です。彼は平氏一門の武力・政治力・経済力をフル活用して政界で地位を上げていき、最高位の役職である太政大臣にまで昇りつめます。

 2012年の大河ドラマ『平清盛』では松山ケンイチさんが演じ、新しい清盛像を描いたことで話題となりました。『鎌倉殿の13人』は松平健さんが演じることが報じられ、注目されています。

 『平家物語』などの印象から、どうしても清盛には悪人のイメージが付きまといますが、実際彼はどのような人生を歩んできたのでしょうか。今回はそんな彼の生涯に迫ります。

清盛の出生と伊勢平氏

清盛誕生時の伊勢平氏

 清盛は伊勢平氏嫡流であった平忠盛(ただもり)の子として永久6年(1118)1月18日に誕生しました。

 伊勢平氏はその名の通り、伊勢国(現在の三重県)に拠点を築いた平氏の一族です。100年ほど前の摂関時代には源氏(河内源氏)に押されて影の薄い一族でしたが、清盛の祖父・正盛が白河法皇の北面(ほくめん、上皇・法皇の直属軍)に選ばれて以降、急激にその地位を上昇させます。

 父・忠盛もその功績を引継ぎ、さらに瀬戸内海の海賊退治等で活躍します。法皇からの信任も厚かった伊勢平氏は、武士としては軍事力・経済力共に京で最大規模の勢力になっていました。

清盛は誰の子?

 清盛の生母は不明ですが、白河法皇に仕えていた女性であったとするのが有力です。そのため、清盛は白河法皇の落胤なのではないかという説があります。上記の女性が白河法皇の子を身籠った状態で忠盛の妻となった、というわけです。

 この白河法皇落胤説は当時から噂されており、後述するように彼は王家の関係者でなければありえない出世コースを進んでいます。およそ落胤説は眉唾なものが多いのですが、清盛に関してはかなり有力視されていて、研究も進んでいます。とはいえ、若き日の清盛にとって、あちこちで自分の噂をされるのは、あまり気のいいものではなかったのかもしれません。

一門の棟梁に

 大治4年(1129)正月、12歳となった清盛は従五位下・左兵衛佐の官職を得ます。これは上流貴族の子弟がなれるものであり、武士がはじめて任じられる官職としては異例でした。清盛はいきなりエリートコースを歩み始めることになったのです。人事を聞いた貴族たちも仰天したといいます。

 その後、妻(高階基章の娘)を迎えた清盛は、彼女との間に重盛・基盛を儲けますが、この女性は基盛を産んで程なくして亡くなってしまいます。しばらくして継室に迎えられたのが時子(後の二位尼)です。

 時子の実家は実務官僚として代々朝廷に仕えていた家で、院(上皇・法皇のこと)や摂関家など、政界の中枢と関係の深い人物を多く輩出していました。時子と結婚し、彼女の実家の人脈を活用できたからこそ、後年清盛は政界でのし上がっていくことができたのです。

 仕事も家庭も順調な清盛でしたが、あるとき祇園社(現在の八坂神社)の人々と乱闘事件を起こしてしまいます。怒った祇園社側は忠盛・清盛の配流を要求し、あわや流血沙汰となるところでしたが、鳥羽法皇の執り成しにより事なきを得ます。ピンチに手を差し伸べてもらえるほど、清盛は法皇に信用されていたようです。

仁平3年(1153)に忠盛が亡くなると、清盛はその後を継ぎ、平氏一門の棟梁となります。


保元・平治の乱

 清盛ら武士が大いに活躍した事件として有名なのが、保元・平治の乱です。どちらも政治抗争を発端として軍事衝突にまで発展し、武士たちの力によって終結しました。清盛が政界で力を持つようになったきっかけでもありました。

保元の乱と一族分裂

 保元の乱は、皇位継承問題(後白河天皇VS崇徳上皇)や摂関家の内紛(藤原忠通VS忠実・頼長)など、朝廷内の様々な問題が複雑に絡み合って勃発した事件です。朝廷内が後白河天皇方と崇徳上皇方に分かれ争いました。

 乱に参加した武士の帰趨は、自らの意思というより政治的な立場が大きく影響していました。日頃仕えている貴族がどちらの陣営に付くかで、武士たちの所属がほぼ決まったと言えます。

 清盛の義母である藤原宗子(池禅尼)が崇徳上皇の子・重仁親王の乳母であったため、清盛らの立場は崇徳陣営寄りでした。しかし清盛は一門をまとめ、最終的に後白河陣営につくことになります。唯一、清盛の叔父・忠正のみ崇徳上皇方に付き、清盛は同族と対峙することになってしまいます。忠正が清盛と袂を分かった理由は、日頃から崇徳方の藤原頼長に仕えていて、主人を裏切れなかったからのようです。

 一方、同僚である河内源氏は、棟梁の為義をはじめほとんどが崇徳方に付く中、為義の長男・義朝のみ後白河方に付きます。比較的一門でまとまっていた平氏に比べ、こちらは一族間の対立が深刻でした。為義らと義朝は乱以前に武力衝突に及んでおり、両者の関係はすでに修復不可能なものになっていたのです。

 戦いは後白河方の勝利に終わり、勝者となった清盛と義朝ですが、その手で自らの一族を斬ることにもなってしまいました。

平治の乱

 保元の乱後は後白河側近の信西(藤原通憲)が政界を主導しました。しかし彼の台頭に反発する貴族は多く、朝廷内では反信西の機運が高まっていきました。

 反信西派の筆頭となったのは藤原信頼という人物です。彼は源義朝と提携関係を結び、その武力と後白河の後ろ盾を武器に急激に昇進を遂げていました。日頃から信西を疎ましく思っていた信頼は、義朝軍を率いて信西を襲撃、自害へと追い込みます。平治の乱の勃発です。

 信西を排除し権力を握った信頼でしたが、今度は増長する信頼を排除せんとする動きが朝廷内で加速します。反信頼派が武力として頼ったのは清盛でした。

 清盛は信西・信頼の両方と提携関係にあったので、反信西の風潮に対しては中立的立場をとっていました。しかし、信西が襲撃されたことを知ると反信頼派の動きに協力し、信頼・義朝を他の武士らと共に追討し壊滅させます。

清盛一強状態に

 保元・平治の乱の結果、河内源氏をはじめ、有力武士のほとんどが滅んでしまいました。元々強大な軍事力を持っていた平氏一門は、朝廷の軍事・警察権を一手に担うことになります。

 また、乱を通して有力な廷臣が次々と失脚・死亡したため、政界においても平氏一門は頭一つ抜きんでた存在となり、清盛は平治の乱の翌年、ついに上流貴族の仲間入りを果たします。しかし彼はあくまで慎重に立ち回り、天皇と院の間のバランス調整に努めました。度重なる政争を見てきた清盛だけに、今の朝廷には調整役が必要だと考えての行動だったのかもしれません。

全盛期

 躍進を遂げた平氏一門は朝廷の要職に次々と任じられ、政界で存在感を増していきました。一門だけでなく郎党も昇進を遂げ、平氏一門はあらゆる面で強大な力を有することとなったのです。

 政界で力を持っても清盛は相変わらず各方面に気を配り、慎重な立ち回りを徹底しています。清盛の昇進において、この優れたバランス調整能力こそが、ある意味で最強の武器だったのかもしれません。

王家・摂関家との関係

 応保元年(1161)9月、後白河上皇と時子の妹・滋子(建春門院)との間に憲仁親王(後の高倉天皇)が誕生します。一族から天皇が出る可能性が生まれたのです。一時、憲仁の立太子を巡ってトラブルが発生しますが、清盛が上手に立ち回り、何とかその場を収めます。

 同時に摂関家当主の近衛基実に娘・盛子を嫁がせ、摂関家とも提携関係を結びます。王家・摂関の両方と緊密な関係を築いた清盛の地位は盤石なものとなりました。

太政大臣にまで昇りつめる

 永万2年(1166)、清盛は内大臣となり、翌年には太政大臣となります。

 太政大臣は律令官制における最高位の役職ですが、清盛はわずか3か月で辞任してしまいます。この後清盛は、嫡男の重盛を後継者とし、表向きは政界から引退します。自身は別荘のある福原に移住し、以降厳島神社の整備や日宋貿易の拡充に専念するようになります。

 清盛が武士初の太政大臣となったことは有名ですが、当時の太政大臣は名誉職的な側面が強く、実権もありませんでした。どちらかというと、前年の内大臣就任の方が重大な出来事だったといえます。というのも、いくら有力であったとしても、本来伊勢平氏の家格では太政大臣はおろか大臣への就任すら不可能だったからです。

 「異例の出世」と言ってしまえばそれきりですが、先に述べた白河法皇落胤説を強く後押しする事例として注目されています。

栄華の陰りと最後

 仁安3年(1168)に憲仁親王が践祚し高倉天皇となります。これにより清盛は天皇の外戚(母方の祖父)となります。

朝廷の要職は一門が占め、膨大な荘園と日宋貿易により財産も莫大です。平氏一門はまさに「平家にあらざれば人にあらず」といわしめるほどの栄華を極めました。しかし、その栄光には徐々に陰りが見えつつありました。

平氏への不満

 治承元年(1177)6月、後白河法皇とその近臣が平氏打倒の謀議を行っていたことが露見します。いわゆる鹿ケ谷事件です。その後、これまで清盛と後白河の間を取り持ってきた嫡男の重盛が42歳の若さで病死すると、2人の関係は急激に悪化します。

 後白河の態度に怒った清盛は福原から軍勢を率いて上洛し、反平氏的な貴族を下官して親平氏的な人物と入れ替え、さらに後白河を幽閉してしまいます。治承三年の政変と呼ばれるクーデーターです。清盛は政権を武力で無理やり奪った形となります。

 その後、高倉天皇が譲位し、言仁親王(安徳天皇)が即位します。言仁は高倉と清盛の娘・徳子(建礼門院)の子だったので、これが平氏の傀儡政権であることは誰の目から見ても明らかでした。政権を武力で奪い、傀儡政権を打ち立てた平氏に対する反発が徐々に広まっていきました。

広がる反乱

 治承4年(1180)4月、後白河法皇の第3皇子・以仁王が檄を飛ばし、全国の武士に平氏打倒のため立ち上がるよう促しました。以仁王自身の挙兵計画は平氏方にバレ、早急に対処されてしまいますが、この事件を皮切りに全国で武士たちの反乱が相次ぐようになります。

 伊豆で源頼朝が、甲斐で武田信義を中心とした甲斐源氏が、信濃で木曾義仲が続々と立ち上がりました。皆が皆、以仁王に呼応したわけではありませんが、全国各地に平氏の支配に不満を持っていた武士が多くいたことは確かです。

 清盛らは反乱の鎮圧に努めますが、反乱の勢いは増す一方でした。対応に忙殺される中、清盛は謎の高熱に倒れます。

失意の中の最後

 病床の清盛は死期を悟り、後を三男の宗盛に託します。後白河法皇にも連絡を取りますが、取り合ってもらえません。清盛は高熱に苦見ながら、頼朝の首を自分の墓前に供えるよう遺言し、この世を去ります。享年64歳、父祖の成果を継ぎ、時代のニーズに応えて堅実に立ち回ってきた男の最後は、かなり痛ましいものでした。

おわりに

 武士の世界では父祖の言葉は強い意味を持ちます。清盛の死から4年後、後を託された平家一門が壇ノ浦で滅んだことは知っての通りです。途中頼朝と和解の機会があったにもかかわらず、一門が最後まで徹底抗戦を続けたのは、何としてでも頼朝を倒せという清盛の遺言があったからだとも言われています。


【主な参考文献】
  • 高橋昌明『清盛以前―伊勢平氏の興隆―』(平凡社、2011年)
  • 元木泰雄『平清盛の闘い―幻の中世国家―』(角川ソフィア文庫、2011年)

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  この記事を書いた人
篠田生米 さん
歴オタが高じて大学・大学院では日本中世史を学ぶ。 元学芸員。現在はフリーランスでライター、校正者として活動中。 酒好きなのに酒に弱い。

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