「安達盛長」源頼朝の流人時代から仕えた最古参の御家人で、鎌倉殿の13人のひとり

安達盛長(あだち もりなが)は、源頼朝が伊豆で流人生活を送っていたころから近くで使えていた武士で、鎌倉幕府の御家人の中でも特に古参の家臣です。『曾我物語』によれば、吉夢を見て頼朝に挙兵を決意させる一因を担い、挙兵後には頼朝の使者として関東武士を召集するために奔走しました。

よくわからない盛長の出自

安達盛長は保延元(1135)年に生まれ、藤九郎と称しました。『尊卑分脈』によれば、藤原北家魚名流の小野田三郎兼盛(広)であるということですが、信憑性はありません。

武蔵国には足立郡を本拠地とする足立遠元ら足立氏がおり、『尊卑分脈』や「足立氏系図」では盛長が足立氏の一族として記載されていますが、安達氏と足立氏は別の氏族であったようで、出自ははっきりしません。

盛長は頼朝の乳母・比企尼(ひきのあま)の娘の丹後内侍を妻としていました。比企尼は流人となった頼朝を支え、娘婿たちにもよくよく仕えて支援するよう命じていたといわれているので、盛長もその関係でかなり早くから頼朝の近くで仕えていたようです。

盛長の夢見

『曾我物語』に、「盛長の夢想を景義夢合せする」という段があります。ある時、盛長はこんな夢を見たといいます。

頼朝が足柄山矢倉嶽(やぐらだけ)に出かけると、頼朝は腰かけて三度酒を飲み、箱根へ参上した。頼朝は左の足で陸奥の外の浜を踏み、右の足では西国の鬼界が島(場所については複数の説があるが、薩摩初唐一帯を表すか)を踏み、左右の袂に日と月とを入れ、小松三本を飾りとして南へ向かって歩いた。

これを聞くと、頼朝もまた素晴らしい夢を見た、政子も不思議なお告げを蒙った、とそれぞれ話し、感動し合いました。そこに懐島平権守景義が出てきて、盛長の夢想について夢判断をしました。

その内容は以下のとおりです。

  • 足柄山矢倉嶽
    足柄明神第二の王子。矢矧(やはぎ)大明神のご利益により、敵を討って平らげ、ご先祖・八幡(八幡太郎義家のこと)の跡を継いで東国を従わせて西国を平定し、北国を後ろ盾に南海を征服、そこに住まうお告げ。
  • 酒を三度飲む
    遠ければ3年、近ければ3か月のうちに願いを叶え、心痛の酔いを醒ますことになる。
  • 左の足で陸奥の外の浜を踏む
    藤原秀衡の館まで支配することを意味する。
  • 右の足で鬼界が島を踏む
    四国・西国に逃げ下り、ついに平家を滅ぼして西国も支配することを意味する。
  • 左右の袂に日月をとどめる
    帝・上皇の後見となり、将軍になることのお告げ。
  • 小松三本を飾りにする
    子孫三代までは天下に繫栄することを表す。

この夢判断を聞いた頼朝は喜び、この通りになったら盛長に褒美を与えると言ったとか。

同じく『曾我物語』にある政子が妹の夢を買い取ったおかげで頼朝の妻になったという話と同様にいかにも後世になって創作された後付けのエピソードですが、物語が書かれた時代の人々にとって、夢のお告げに沿って行動するのは常識的なことであり、これらのエピソードももっともらしく感じられて受け止められたのでしょう。

頼朝の使者として関東の武士たちを集める

治承4(1180)年8月、頼朝が伊豆で挙兵するにあたり、盛長はその使者として関東各地の武士たちに参陣を求めるため奔走しました。

6月24日、相模国の武士たちのもとへ遣わされた盛長は、頼朝の乳母子・山内首藤経俊や兄の朝長の外戚の波多野義通の拒否にあうこともありましたが、頼朝の勢力拡大に大いに貢献しました。

頼朝の信頼厚い近臣の盛長は、元暦元(1184)年ごろには上野国奉行人となり、国内公領の収納事務管轄権および国中寺社管領の権が与えられています。盛長は平家追討にはかかわらず、関東に留まっていたようです。

甘縄神明神社(神奈川県鎌倉市長谷)にある「安達盛長邸址」の石碑
甘縄神明神社(神奈川県鎌倉市長谷)にある「安達盛長邸址」の石碑

晩年の盛長

その後、文治5(1189)年の奥州征伐に従軍、頼朝の二度の上洛にも供奉しています。建久10(1199)年正月13日に頼朝が亡くなると、盛長は出家して蓮西と号しました。

2代将軍・頼家の時代になり結成された「十三人の合議制」のメンバーのひとりになり、そのころに三河の守護にもなっていますが、翌正治2(1200)年4月26日、頼朝の後を追うように亡くなりました。

長泉寺(愛知県蒲郡市)にある安達盛長の墓
長泉寺(愛知県蒲郡市)にある安達盛長の墓(出所:wikipedia

盛長は生涯無官のままでしたが、幕府では頼朝の流人時代から仕えた近臣として重んじられた人でした。




【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 『世界大百科事典』(平凡社)
  • 『日本人名大辞典』(講談社)
  • 安田元久『武蔵の武士団 その成立と故地を探る』(吉川弘文館、2020年)
  • 岡田清一『北条義時 これ運命の縮まるべき端か』(ミネルヴァ書房、2019年)
  • 永井晋『鎌倉幕府の転換点 『吾妻鏡』を読みなおす』(吉川弘文館、2019年)
  • 元木泰雄『源頼朝 武家政治の創始者』(中央公論新社、2019年)
  • 上杉和彦『戦争の日本史6 源平の争乱』(吉川弘文館、2007年)
  • 五味文彦編『別冊歴史読本01 源氏対平氏 義経・清盛の攻防を描く』(新人物往来社、2004年)
  • 校注・訳:梶原正昭・大津雄一・野中哲照『新編日本古典文学全集(53) 曾我物語』(小学館、2002年)
  • 『国史大系 吾妻鏡(新訂増補 普及版)』(吉川弘文館)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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