「六浦藩」の歴史 神奈川県横浜市に唯一存在した藩

 全国の市区町村別における人口ランキングの1位といえば横浜市。江戸時代、その横浜市に唯一存在したのが「六浦藩(むつらはん)」です。

 鎌倉時代の始まりと共に、六浦は交易や経済で隆盛。北条氏の一族である金沢北条氏が治めていました。 しかし、時代の推移と共に徐々に衰退し、江戸時代には寂れた村と成り果てていました。徳川家に仕える米倉家は六浦に入封して以来、明治になるまで同地を統治し続けました。

 六浦藩はどのように生まれて発展し、どのように終わったのでしょうか。六浦藩の歴史について見ていきましょう。

六浦藩前史 《平安・鎌倉時代》〜六浦荘と金沢流北条氏〜

平安時代の六浦荘

 武蔵国六浦は、古代には荘園・六浦荘が置かれた私有地でした。当時の六浦荘の領家(領主)は、皇族の門跡寺院・仁和寺だったと考えられています。

 六浦荘は、六浦・金沢・釜利谷・富岡の四郷によって成立。金沢区には、真言宗御室派(総本山は仁和寺)の寺院が多く分布していました。東国にはめずらしく、京との関わりがあった地域のようです。

 平安時代に入ると、次第に武士が台頭して、六浦荘をはじめとした東国の荘園も影響を受けていきます。源義朝(頼朝・義経の父)は、鎌倉を拠点として勢力を拡大。相模国一帯をはじめとする南関東に強い影響力を持つまでになりました。六浦荘園は鎌倉の近くに位置しており、義朝の長男・義平(鎌倉悪源太)に制圧され、以後は源氏の支配下に置かれることとなります。

 保元2年(1157)、源義朝は那珂実経(なか さねひさ)に六浦荘を与え、以降は那珂氏が領主となったようです。鎌倉から見れば、六浦は喉元にあたる場所でした。既に平安時代の終わりには、信頼できる武士が統治する必要性が生まれていたことになります。

金沢流北条氏の拠点となる

 六浦の地は源平の騒乱がきっかけで歴史の表舞台に登場します。

 平治元年(1160)、源義朝は平治の乱において、平清盛率いる平家一門に敗北。東国に逃れる途中で部下の裏切りに遭い、最期を遂げています。義朝の遺児・頼朝は伊豆国に流罪となりますが、それから20年後となる治承4年(1180)に頼朝の運命は一変。以仁王(後白河法皇の第三皇子)が全国の源氏に平家打倒の令旨を降下。頼朝は伊豆国で挙兵して、関東の武士たちと共に立ち上がりました。

 頼朝が鎌倉に入って関東に勢力基盤を築くと、六浦の地もその支配下に入ります。その際に加護をもらった伊豆三島明神を六浦の地に勧請し、瀬戸神社を建立しました。文治年間(1185〜90)には、浄願寺が六浦山中に建立。同寺の遺構が現在の上行寺東遺跡として残っています。

一部復元された上行寺東遺跡。石窟仏を納めたやぐらと、岩山を削って柱穴をあけて建てた寺院跡とみられる。
一部復元された上行寺東遺跡。石窟仏を納めたやぐらと、岩山を削って柱穴をあけて建てた寺院跡とみられる。

 頼朝は、父・義朝と同じく鎌倉を源氏の根拠地と定めていました。当然、六浦荘も鎌倉の庇護を多分に得ていくこととなります。

 鎌倉時代初めには、六浦荘は和田氏が領主を補任。当主の和田義盛は、侍所所司を務めたほどの人物です。しかし建保元年(1213)の和田合戦において、和田氏が滅亡したため、以降は金沢流北条氏の北条実泰(三代執権・北条泰時の弟)が治めました。

 金沢流北条氏は、六浦荘金沢郷の地を家名の由来とする、鎌倉時代の執権北条氏の分流であり、幕府の執権や連署(執権の補佐役)を輩出するなど、幕府政治に重きをなす一族でした。二代当主の北条実時は、多数の和漢書を収集し、武家の文庫として日本最古である「金沢文庫」を創設しています。

現在の金沢文庫は、旧昭和塾跡地に「神奈川県立金沢文庫」として建てられ、博物館となっている。
現在の金沢文庫は、旧昭和塾跡地に「神奈川県立金沢文庫」として建てられ、博物館となっている。

鎌倉と繋がった景勝地

 六浦の地は、鎌倉時代に広く知られるようになります。仁治2年(1241)には、幕府執権・北条泰時が幕府の中心地・鎌倉と六浦を結ぶ道路の開削を命令。鎌倉七口の一つ「六浦道」が開かれています。

※参考:横浜市HP 「金沢の古道と朝夷奈切通」

 六浦道は、鎌倉から三浦半島を横断しており、海路から房総半島などと繋がる玄関口となっていました。六浦川流域をはじめ、六浦には複数の湊に適した場所が存在しています。近隣の浦郷榎戸湊などにより、六浦の地は物資の流通や交易などで経済的に発展を遂げていきました。

 また、経済だけでなく、六浦は鎌倉の都市計画の影響を受けていました。鎌倉の都市計画は、京都の四堺を真似ています。六浦は鎌倉にとって東の堺であり、疫病や鬼といった災いを食い止める障壁として位置付けられていました。六浦や金沢は杭州西湖と風景が類似していることを鎌倉五山の禅僧が指摘しており、景勝地としても広く知られています。

 安貞2年(1228)には、摂家将軍・九条頼経も六浦に滞在しています。貴人の保養地としても認識されていたようです。

六浦藩前史 《室町・戦国時代》〜米倉家の入封〜

六浦の衰退と品川の隆盛

 元弘3年(1333)、鎌倉幕府が滅亡すると、六浦の地も戦乱に巻き込まれます。

 足利尊氏が京都で室町幕府を開府。関東では、尊氏の四男・基氏が鎌倉公方となって、鎌倉府を開いています。ここで六浦の地は、鎌倉公方の支配下に入っていました。

 しかし室町時代に入ると、関東の政局は複雑化。鎌倉公方と関東管領上杉氏が六浦の地を巡って軍事的衝突を繰り返すようになります。応永年間(1394〜1428)には、上杉方の実力者である大喜光昌が六浦を支配していました。

 享徳3年(1455)、鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺。これをきっかけに戦乱が関東一円に拡大することとなりました。世にいう「享徳の乱(きょうとくのらん、1455~82)」のはじまりです。

 この乱で足利成氏は上杉氏に鎌倉を占領されたため、下総古河を本拠として古河公方と称されました。その後、鎌倉は扇谷上杉氏の家宰である太田道灌が支配し、六浦もその支配下にあったとされています。関東諸将の多くは経済や軍事の面から、六浦の土地の重要性を認識しています。六浦を太田道灌が抑えることで、関東の他勢力は下手に手出しが出来ない状況でした。

 しかし六浦をめぐる状況は、時代と共に変わっていきます。六浦の入江において、土砂の堆積が進行。湊の機能が内海部の六浦から、外側の洲崎や瀬ヶ崎に限定されていきました。加えて品川湊が栄えたことで、六浦の衰退は確実となります。

米倉家の領地となる

 戦国時代に入り、六浦は鎌倉をめぐる争いに巻き込まれていきます。

 大永3年(1523)年、小田原北条氏当主・北条氏綱が六浦周辺を平定。以降は小田原北条氏の所領となりました。大永6年(1526)には安房国の里見義豊が鎌倉を攻撃。六浦も攻撃対象となり、戦場と化しています。さらに天文6年(1537)には、上総国の真里谷信隆が六浦近くの金沢に敗走。同所で隠居しています。この頃の六浦周辺は、まだ鎌倉に準ずる都市としての機能を有していたようです。

 しかし天正18年(1590)、豊臣政権による小田原征伐の後、徳川家康が関東に入って江戸を拠点にすると、相模国は関東の中心地ではなくなり、六浦の地はより寂れていきました。同年、徳川家臣・米倉清継が相模国の大住郡堀山下に200石を知行。同地はのちの六浦藩の一部となるのです。

六浦藩の立藩 《江戸時代》〜横浜の大名・米倉氏による統治~

六浦陣屋の構築

 江戸時代に入ると、六浦藩は寂れた村と化していました。

 寛永18〜19年(1641〜42)、三浦浄心が『名所和歌物語』を発表。同書において、六浦と金沢を金沢八景の一つとして称しています。江戸時代においても、六浦は代表的な絶景の一つとして位置付けられていたようです。

 元禄12年(1699)には、上野・武蔵・相模などに1万石を領していた米倉昌尹(よねくら まさただ)が、下野国で5千石を加増され、皆川に陣屋を設置し、皆川藩主となります。昌尹は600石となっていた旗本・米倉氏の家に誕生。出仕後は五代将軍・徳川綱吉に認められ、若年寄(老中の次。旗本や御家人の支配を担当)を拝命して大名となったほどの人物でした。

 時が下って、米倉忠仰(ただすけ)の代である享保7年(1722)に陣屋を六浦に移し、米倉氏による六浦藩統治が始まります。

 忠仰は、綱吉の側用人であった柳沢吉保の六男です。江戸幕府は六浦藩を要所として認識しており、六浦藩を領有する人間は信頼できる人間と定めていました。翌享保8年(1723)には金沢の地に六浦陣屋が完成しています。

 陣屋というのは、城を持てない藩が建てた藩庁です。江戸時代は多くの場合、3万石以上の石高がある藩が城を与えられることになっていました。

※参考: 六浦藩の歴代藩主
米倉家:譜代 陣屋 1万2千石(1722年 - 1869年)
初代:米倉忠仰(ただすけ)
2代:里矩(さとなり)
3代:昌晴(まさはる)
4代:昌賢(まさかた)
5代:昌由(まさよし)
6代:昌俊(まさのり)
7代:昌寿(まさなが)
8代:昌言(まさこと)

幕末の沿岸警備と開国

 六浦藩は “藩” とはいえ、わずかの石高しかありません。当然、他の大名家と同列とは言い難く、むしろ大身の旗本に近い身分でした。しかし混乱する時代には、国家や幕府を護るために藩を挙げて行動しています。

 嘉永6年(1853)、浦賀沖にペリー率いる黒船艦隊が来航して幕府に開国を要求。この際、六浦藩も沿岸警備に出動し、乙舳海岸に陣を張って見張りをおこなっています。

 翌安政元年(1854)には、再びペリーが六浦藩領の金沢小柴沖に停泊。二ヶ月にわたって留まっています。ペリー艦隊の停泊時、六浦藩の領民は艦隊の随行員たちと交流。小舟を使って黒船を間近に見に出かけた者もいました。随行員がビスケットを投げたり、領民が獲れた魚を軍艦に差し入れしたと伝わります。

1854年、再びペリー一行が日本を訪れて横浜に上陸した様子(出典:wikipedia)
1854年、再びペリー一行が日本を訪れて横浜に上陸した様子(出典:wikipedia)

 安政5年(1858)には日米修好通商条約が締結。漁村だった横浜は開港したことで大きく発展していきます。六浦藩領の領民の中には外国商館に勤める女性もおり、外国文化に触れる機会に恵まれていたようです。

 尊王攘夷運動が高まると、横浜では外国人の殺傷事件が頻発します。万延元年(1860)のヒュースケン殺害から、文久2年(1862)のイギリス公使館焼き討ちなど、治安の乱れも深刻化していきました。

 当時の六浦藩主・昌言(まさこと)は横須賀製鉄所の警備や大坂加番にも従事。長州征伐にも随行しますが、時勢の変わり目に方針を転換します。慶応3年(1867)に大政奉還が断行され、翌年の鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が新政府軍に敗北すると、昌言は官軍となった新政府軍に恭順。東征軍の食糧調達や宿場の警備に従っています。

六浦藩最後の藩主・米倉昌言の肖像(出典:wikipedia)
六浦藩最後の藩主・米倉昌言の肖像(出典:wikipedia)

六浦藩の廃藩 《明治時代》~廃藩置県の断行~

 明治時代になると、中央集権化の波が六浦藩にも及んできました。当時、明治政府は近代化を推進しています。そのために全国の藩や武士たちを再編する必要があったのです。

 明治2年(1869)6月、版籍奉還の勅許が降下。全国諸藩に対して、版(土地)と籍(人民)を朝廷に返還する動きが高まります。ここにおいて、昌言は版籍奉還を断行し、知藩事を拝命しました。

 しかし版籍奉還は次の政策の布石でもありました。このとき、明治政府は全国の藩を廃し、県に再編するという廃藩置県を計画していました。明治4年(1871)7月、西郷隆盛らが御親兵を集めて上京。程なくして廃藩置県の勅命が降ります。

 これにより、六浦藩は廃藩置県後に「六浦県」と改称。中央政府から県令が派遣されて統治されることとなりました。同年11月には、六浦県の相模川以東が「神奈川県」に、同川以西が「足柄県」に編入。六浦県は、その名を消すこととなります。

 ちなみに六浦藩は、現在の横浜市内にあった唯一の藩でした。


【参考文献】
  • 中屋宗寿 『民衆救済と仏教の歴史』 郁朋社 2006年
  • 金沢区制五十周年記念事業実行委員会編 『図説かなざわの歴史』 金沢区制五十周年記念事業実行委員会 2001年
  • 佐藤博信 『江戸湾を巡る忠誠』 思文閣 2000年
  • 横浜市歴史博物館HP 「横浜の大名 米倉家の幕末・明治」
  •  

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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