「北条時政」挙兵する源頼朝に信頼された岳父。初代執権となるも、権力欲に溺れて失脚する

北条時政(ほうじょう ときまさ)は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室・北条政子の父として知られます。もともとは伊豆国の一豪族にすぎませんでしたが、娘の政子が頼朝と結婚したことで運命が大きく変わり、将軍の外戚に。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の時政は継室の牧の方(りく)にベタぼれで、彼女に出世欲をあおられる、という人物ですが、実際の歴史を見ても牧の方とその子どもかわいさにあれこれ事件を起こす、ということがあり、ドラマの人物設定もあながち実際の時政とそう遠くはないのかもしれません。

北条氏

北条氏は桓武平氏の流れを汲み、伊豆介として伊豆国の北条に土着した一族が地名から北条と称すようになったといいますが、詳しくはわかっていません。系図によって父を時方とするもの、時家とするものがあり、こうした記述の違いから系図に信憑性がなく、そもそも平氏出身ではないのでは、という説もあります。

よく時政は伊豆の在庁官人であったといわれますが、これもはっきりしません。時政の名が歴史書『吾妻鏡』に初めて登場した治承4(1180)年4月27日条にも「上総介平直方朝臣五代孫北條四郎時政主者。当國豪傑也」とあるだけで、官位官職に関する記述は何もありません。時政よりも、「北条介」という肩書をもつ時兼という人物(系図により関係性はバラバラで不明)が北条氏の主流なのではないか、という説もあります。

この官職も不明な時政は、いつのころからか継室として牧宗親の娘(あるいは妹)の牧の方を迎えています。牧の方は駿河国大岡牧の豪族牧氏出身で、平清盛の義母・池禅尼の姪であるともいわれる女性です。

牧氏は院近臣として京都に基盤を持っていたといわれ、そんな家の女性と地方豪族の時政がどのようにつながりを持ったのかは不明(京都警護の大番役で在京中に出会ったか?)です。池禅尼は頼朝の命を救ったことで知られますが、もしかすると頼朝の配流先に伊豆が選ばれたのも池禅尼と牧氏とのつながりが関係していたのかもしれません。

源頼朝の岳父

頼朝は永暦元(1160)年3月に伊豆へ流され、伊東氏の監視を受けたとされています。

頼朝の監視役がいつごろ伊東祐親から時政に移ったのか、はっきりとしたことはわかりませんが、安元元(1175)年に頼朝と娘の仲を知った祐親によって暗殺されそうになるという事件があり、その時から北条氏の保護を受けるようになったとされているので、少なくともそれ以降のことであると思われます。

治承元(1177)年ごろ、時政が大番役で在京しいている最中に、娘の政子と頼朝が深い仲になり、伊豆目代の山木兼隆と結婚させたい時政の反対を押し切ってふたりが結婚してしまうという出来事があったようです。頼朝監視の前任者・祐親は同様の状況を許さず、時政は許しました。

政子の意志の強さと、嫌がる娘を無理やり違う男と結婚させなかった時政の選択こそが、この先の北条氏の行く末を決定づけたといっていいかもしれません。

治承4(1180)年8月、頼朝が平家打倒のため挙兵すると、時政、宗時、義時の北条父子も従いました。頼朝はまず伊豆目代・山木兼隆を討ちました。この直前、頼朝は工藤茂光、土肥実平……といった武士たちひとりひとりを個別に呼び出し、兼隆を討つ計画を話したといいます。全員に対して「お前が頼りだ」というようなことを言ったそうですが、『吾妻鏡』によれば本当に大事なことは時政だけに打ち明けたのだとか。

岳父・時政への信頼の強さがうかがえるエピソードではありますが、あるいは北条氏をよく見せるために『吾妻鏡』が誇張したという可能性も考えられます。

その後、富士川の戦いには参加したものの、西国での平家討伐には加わっていません。平家滅亡ののち、頼朝とその異母弟・義経の関係が悪くなると、文治元(1185)年に頼朝の代官として上洛してわずかな期間京都守護を務め、京都の治安維持のほかに後白河院との交渉にあたっています。

幕府内の邪魔な存在を次々と排除

上記の活躍の後、しばらく時政に目立った行動はありませんでした。ひとつ挙げるとすれば、建久4(1193)年5月の富士の巻狩りの最中に起こった事件でしょうか。この狩りの期間、『曾我物語』で知られる曾我兄弟(曾我祐成、時致)が父の仇の工藤祐経を殺害するという事件(曾我兄弟の仇討ち)があり、頼朝も狙われました。

この兄弟の弟のほうが元服した際、時政が烏帽子親をつとめた縁から、この事件は時政の手引きで起こり、どさくさに紛れて頼朝暗殺を図ったのではないかという説があります。しかしこの時点で時政が頼朝と対立するようなことは何もなく、わざわざ頼朝を殺す意味はないように思われます。

時政が権謀術数をめぐらして大いに活躍するのは、頼朝が亡くなった後です。

将軍の外戚の地位をめぐって比企能員と対立

建仁3(1203)年、もともと病弱であった頼家が臥せるようになると、千幡(のちの実朝)の外祖父である時政と、頼家の嫡男・一幡(母は能員の娘・若狭局)の外祖父である能員とが、対立しました。

嫡流の頼家の子孫が後継者となるのが妥当なところではありますが、このまま一幡が将軍になるようなことになれば、将軍の外戚という立場は比企一族に移ってしまいます。それを阻止したい時政は頼家の跡目を決める評定で一幡に「関東28か国の地頭職と惣守護職」を、千幡に「関西38か国の地頭職」を相続させることが決まりました。能員はこれを不服とし、頼家に訴えて時政を追討する密談を交わしたといいます。ところが、これを偶然聞いていたらしい政子が時政に知らせたことで、先手を取った時政によって比企一族は討たれてしまったのでした。実際のところ、能員と時政のどちらが先に相手を討とうとしたのかはわかりません。

続いて将軍頼家も出家させられて退き(幽閉の後暗殺)、弟の実朝が第3代将軍に据えられ、時政はめでたく外祖父として政所別当のひとりとなり、将軍の「仰(おおせ)」を受けて単独署名して幕府の公文書を発給するようになります。幼い将軍を補佐するという名目で執権政治を始めたのです。

畠山重忠を討つ

時政が次に排除しようとしたのは、「武士の鑑」といわれた畠山重忠です。時政は娘婿の平賀朝雅の留守中、武蔵守である彼の代わりに武蔵国の国務を担っていました。この武蔵国の支配権を得たい時政は、同国内で影響力をもつ畠山氏を排除したいと考えていました。そこに、元久元(1204)年に京都で畠山重忠の子・重保と朝雅が口論した事件で牧の方が重忠に謀反の疑いがあると讒言したことが絡み合い、時政は重忠父子討伐の兵を差し向け、武蔵国二俣川で畠山氏を滅ぼしました。

この件に関しては、当初時政の子・義時や時房は「あの重忠が」謀反を起こすはずがない、と取り合わず、討伐に反対していました。しかし時政と牧の方は頑として譲らず、討伐が実行されることになったのでした。ところが、当の重忠にはやはり叛意は全くなく、無実を訴えながら討たれました。

義時は「やはり重忠謀反は偽りだった」として時政を責め、父子の関係は悪化。その後、牧の方とともに実朝を廃して娘婿の朝雅を将軍にしようとしていることが知られてしまい、とうとう時政は幕府での立場を完全に失ってしまいました。

失脚した時政の晩年

元久2(1205)年閏7月19日、時政の企みを知った政子と義時は時政邸にいた実朝を安全な手元に戻すと、時政と牧の方を出家させて伊豆国北条に幽閉しました。

その後伊豆で隠棲した時政は表舞台に出ることなく、建保3(1215)年正月6日に78歳で没したといいますが、そうではなく依然として政治的な影響力を持っていたという説もあります。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 『世界大百科事典』(平凡社)
  • 野口実編著『図説 鎌倉北条氏 鎌倉幕府を主導した一族の全歴史』(戎光祥出版、2021年)
  • 岡田清一『北条義時 これ運命の縮まるべき端か』(ミネルヴァ書房、2019年)
  • 永井晋『鎌倉幕府の転換点 『吾妻鏡』を読みなおす』(吉川弘文館、2019年)
  • 元木泰雄『源頼朝 武家政治の創始者』(中央公論新社、2019年)
  • 上杉和彦『戦争の日本史6 源平の争乱』(吉川弘文館、2007年)
  • 安田元久『人物叢書 北条義時』(吉川弘文館、1961年)
  • 『国史大系 吾妻鏡(新訂増補 普及版)』(吉川弘文館)※本文中の引用はこれに拠る。

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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