「北条義時」頼朝の精神を受け継ぎ、幕府最大の危機を乗り越えた執権

北条義時(ほうじょう よしとき)というと、名前だけは有名な人物かもしれません。承久の乱で後鳥羽院を破り、また頼朝が築いた鎌倉幕府の実権を奪った逆臣として。

最近は再評価されているとはいえ、人気がないためか義時単体で注目されることはあまりなく、具体的に何をした人なのかはあまり知られていないのではないでしょうか。頼朝亡き後、姉の北条政子とともに鎌倉幕府を守った義時の生涯を見ていきましょう。

江間小四郎義時

北条義時は、長寛元(1163)年に伊豆国北条を本拠地とする豪族・北条時政の次男として生まれました。母についてははっきりしませんが、前田家本「平氏系図」は伊東入道(祐親)の娘としています。


義時の名が登場するのは、治承4(1180)年のこと。源頼朝が挙兵した際、父の時政、兄の宗時とともに頼朝軍に加わっています。初戦では伊豆目代・山木兼隆を討ったものの、続く石橋山の戦いで頼朝軍は苦戦を強いられ、平家方に大敗を喫しました。

この戦いで兄の宗時が亡くなったため、順当にいけば義時が嫡男になるはず。鎌倉幕府の執権は初代から数えて、時政、義時、泰時(義時の嫡男)……と続くので、義時はこのまますんなりと時政の跡を継いだように見えますが、それは結果的にそうなっただけであって、当初義時は嫡男ではなかったと考えられます(弟・時連/時房の元服は盛大で、この時房が北条の後継者になっていたと思われる。その後、嫡子は時政継室・牧の方所生の政範に移ったか)。

『吾妻鏡』の中で、義時を示す名として特によく登場するのが「江間」姓です。義時が江間を名乗ったのは、江間の地(狩野川を挟んだ北条の対岸の地)を所領とし、分家して北条とは別に「江間」の初代となったからであると考えられています。

養和元(1181)年、義時は頼朝の寝所警護を担う「寝所伺候衆」11人の家人のひとりとなり、平氏追討には頼朝の異母弟・範頼軍の一員として戦っています。

頼朝の時代にはこれといって目立つ武功もなく地味な義時でしたが、義理の弟として目をかけられていたようで、建久3(1192)年9月25日、頼朝は義時が「権威無双の女房」で美しかったという比企朝宗娘・姫の前に執心だと知ると、自らふたりの間を取り持ったため、そのおかげで義時は姫の前を正室に迎えることができました。

頼朝の存命中、義時はその後のような政治的活躍を見せることはありませんでしたが、頼朝の冷静さ、決断の速さなど政治家としての気質は後年の義時とよく似ているようです。真面目な性格は持って生まれたものでしょうが、頼朝から学び、継承した能力もあったと思われます。

頭角をあらわす義時

頼朝の死後、その跡を継いだのは嫡男の頼家でした。このころ、若い将軍を支えるため成立したのがいわゆる「十三人の合議制」で、義時はメンバーのうちでは最年少でした。

頼朝亡き後の鎌倉幕府は内部のごたごたが続きました。梶原景時の排斥に始まり、続いて義時や時政は将軍外戚の立場をめぐって比企氏(頼家嫡男の外戚)と対立し、一族を謀殺しました。またこの後将軍・頼家は幽閉ののちに暗殺されますが、暗殺の首謀者は時政あるいは義時であるといわれています。

ここまでは父・時政と協調していた義時ですが、元久2(1205)年の畠山重忠追討を経て、関係に亀裂が入ります。重忠に叛意があるというので時政に従って追討したものの、義時は当初追討に反対の立場でした。そしてふたを開けてみれば重忠に叛意はなく、無実の罪で討たれたことが明らかになったため、義時は時政を批判しました。

また、この件には時政と継室・牧の方による企み(牧の方所生の娘婿・平賀朝雅を将軍に据える)があることがわかり、義時は政子と協力して幼い将軍・実朝を守り、父を排除することを決断します。この結果、時政は失脚して牧の方ともども出家して伊豆国へ追いやられています。

執権となる

時政が立場を失うと、義時が北条氏を継いで執権となり、幕府の政治の実権を手中に収めたと考えられています。この義時が時政の跡を継ぐ正当性は、『吾妻鏡』で時政の罪とそれを批判する義時の姿を誇張することで示されたようです。

和田合戦

建保元(1213)年5月、義時と和田義盛との戦い(和田合戦)が起こりました。発端は、同年2月、頼家の遺児の千寿を擁立して将軍にし、義時を排除しようとした泉親衡(いずみちかひら)の謀反が発覚したことにありました。

関与した者の中に義盛の子・義直、義重、そして甥の胤長がおり、義盛は赦免を願いますが、胤長だけ許されず配流されてしまいました。これだけでも義盛の面目は丸つぶれでしたが、さらに義時の挑発が続いたため、ついに義盛は義時を打倒するために挙兵したのでした。

2、3日続いた戦いは義時の勝利に終わり、義時は義盛の侍所別当の地位を手にし、幕府内での地位をさらに高めました。

将軍・実朝暗殺

実朝は共通の趣味を通じて後鳥羽院に気に入られていたためか、異様な早さで出世していきました。そのころ義時の官位も徐々に昇進し、建保4(1216)年には従四位下、翌年5月には右京権大夫に、12月には陸奥守を兼任し、この時点で時政の従五位下遠江守を越えています。

将軍実朝は、順調に昇進を重ね、建保6(1218)年末には右大臣に任ぜられました。実朝が兄の遺児・公暁に暗殺されたのは、右大臣拝賀の儀式で鶴岡八幡宮を参詣していた時のことでした。

同時に義時も暗殺する手はずだったようですが、幸いにも義時は病気で御剣奉持の役を中原仲章(なかあきら)に譲ったため難を逃れています(仲章は義時と間違えられて殺されたとされる)。

実朝暗殺のこういった経緯から、その場を離れて命の危機を免れた義時は暗殺計画を事前に知っていたのではないか、あるいは暗殺自体が義時による計画だったのではないかという解釈もありますが、いまだ真相ははっきりしていません。

将軍後継者問題

まだ実子がいなかった実朝が暗殺されたことで、源氏の将軍は三代で途絶えました。実は将軍の後継者がいないことは実朝存命中から案じられており、政子が上洛した際に後鳥羽院の皇子を将軍として鎌倉に下すという話がすでにありました。

義時と政子は後鳥羽院の皇子の六条宮(雅成)か冷泉宮(頼仁)のどちらかを親王将軍として鎌倉へ送ってほしいと求めましたが、後鳥羽院は拒否したため、仕方なく頼朝の遠縁の三寅(九条道家の子で、頼朝の同母妹の曾孫にあたる)を後継に決めました。

のちに第4代将軍となる頼経はまだ2歳の幼子であったため、政子が鎌倉殿(いわゆる「尼将軍」)として政務をとり、義時は執権として補佐することになりました。具体的には、政子の「仰(おおせ)」を受けて執権の義時が署判(署名)する形で幕府の文書が発給されました。

承久の乱

承久3(1221)年5月、承久の乱が起こりました。14日、後鳥羽院は流鏑馬ぞろえと称して機内の兵を1700余騎集め、幕府に近い西園寺公経(きんつね)を捕えると、翌15日には京都守護の伊賀光季(みつすえ)を討ち、諸国の武士に対して北条義時追討の宣旨を下したのです。

上皇が追討宣旨を出すということは、義時が朝敵になったということ。鎌倉幕府が始まって以来最大の危機でした。後鳥羽院の挙兵は倒幕が目的ではなく、義時個人の討伐が目的であるという説もあります。

後鳥羽院は朝敵ともなれば関東の武士たちが義時を討つだろうと期待したかもしれませんが、そううまくは運びませんでした。まず、御家人たちの混乱は政子の有名な演説によって鎮められ、幕府の結束力を強めました。

幕府の軍評定では、後鳥羽院の軍を関東で待ち構えるか、それを待たず上洛して出撃するかのふたつの案に分かれ、義時や泰時は迎え撃つ案を推し、こちらの案が優勢でしたが、もともと朝廷に仕える貴族であった大江広元は守りではなく攻撃に出るべきだと主張しました。同じく公家で都の情勢に明るい三善康信もこの意見に同意し、政子も賛成。幕府軍は京に出撃することに決定しました。

義時は鎌倉に留まり、幕府軍は義時の子・泰時、朝時、弟の時房を大将軍とした総勢19万の軍で、東海道・東山道、北陸道の3つのルートに分かれて京都を目指しました。これに対して後鳥羽院の軍は総勢2万数千程度で、数だけを見ても官軍の劣勢は明らかでした。

結果、承久の乱は幕府軍の圧勝で終わりました。賊軍が官軍を破るというのは、日本の歴史上ほかに例がありません。敗れた後鳥羽院は隠岐国へ、その皇子・順徳院は佐渡国へ、土御門院は土佐国へ配流となりました(土御門院は自ら申し出た)。幕府は仲恭天皇を廃し、後堀川天皇を擁立し、出家していた後鳥羽院の兄・後高倉院を還俗させて「治天の君」としました。

この乱により幕府は朝廷に対する優位性を確立し、今までの朝廷と幕府の関係を大きく変えることになりました。戦後処理のため、泰時・時房は京都に留まり、朝廷の監視のため六波羅探題が置かれたのもこのころです。

急死した義時

乱を経て義時は執権として幕府内での立場を強化しましたが、乱から3年が過ぎた貞応3(1224)年6月13日、義時は急病で倒れ、62歳で亡くなりました。

死因は脚気衝心、つまり脚気による急な心不全であったと考えられていますが、突然だった義時の死は憶測を呼び、継室の伊賀の方が毒殺したという説もあります。

頼朝も志半ばで病に倒れて亡くなりましたが、義時もまた道半ばでした。義時の志は子の泰時に引き継がれ、のちに理想的な武家政権と呼ばれる鎌倉幕府の黄金時代を築くことになります。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 『世界大百科事典』(平凡社)
  • 『日本人名大辞典』(講談社)
  • 野口実編著『図説 鎌倉北条氏 鎌倉幕府を主導した一族の全歴史』(戎光祥出版、2021年)
  • 岡田清一『北条義時 これ運命の縮まるべき端か』(ミネルヴァ書房、2019年)
  • 永井晋『鎌倉幕府の転換点 『吾妻鏡』を読みなおす』(吉川弘文館、2019年)
  • 安田元久『人物叢書 北条義時』(吉川弘文館、1961年)
  • 『国史大系 吾妻鏡(新訂増補 普及版)』(吉川弘文館)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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