「御成敗式目(貞永式目)」とは?最初の武家法の成立背景と内容をわかりやすく解説!

御成敗式目のイメージイラスト
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御成敗式目(ごせいばいしきもく)とは、鎌倉幕府第三代執権・北条泰時を中心に編纂された、武家に関する法律です。

貞永式目(じょうえいしきもく)ともいい、日本史上初めて武家が独自に定めたものと言われています。歴史の教科書にも必ず登場しているので、周知のとおりですが、制定の背景や、具体的な内容、その効力については、ピンとこない方が多いのではないでしょうか。

事実、現代と鎌倉時代では「法」に対する考え方も全く異なります。そこで今回は御成敗式目の制定背景と内容、さらには他の法律との兼ね合い等も解説しつつ、その実態に迫ります。

「御成敗式目」制定の背景

御成敗式目の制定は、源頼朝が征夷大将軍になってから40年も後のこと。鎌倉幕府設立当初ならまだしも、どうしてこの時期に武士の基本法ができたのでしょうか?

式目の制定を進めたのは、当時の執権・北条泰時と、評定衆の三善康連(みよしやすつら)です。三善氏は代々御家人の訴訟を扱う職にいた法曹官僚の家柄でした。『吾妻鏡』によると、貞永元(1232)年5月14日から2人が中心となり、編纂が始まったそうです。

将軍が関与していない理由は、この当時の将軍は源氏の将軍ではなかったからです。既に源頼朝の子孫は絶え、京都の摂関家から迎えられた九条頼経が将軍職にありました。しかもまだ14歳。そのため、政治は北条氏や有力御家人が担っていました。その筆頭が北条泰時だったので、彼が法律を制定しても何ら不思議はないのです。

北条泰時は、京都にいる弟・重時に、制定の背景を説明した手紙を送っています。それによると、制定の趣旨は「鎌倉幕府が公正な裁判をする上で、根拠になるものが必要」だと考えたから、だそうです。泰時に言わせると、京都には公家の法律(律令)があるものの、難しくて御家人たちには理解ができない。そこで平仮名しか読めない者でも理解できるように、世の中の道理を明文化したのが「御成敗式目」だとか。

泰時の言う「公正な裁判」とは、主に土地の権利に関する裁判です。鎌倉時代、御家人たちの給料は現金給付ではなく、「ある土地から年貢をとる権利」という形でした。そのため、土地の支配権や境界がはっきりしない状態は、家族や郎党の生活が脅威にさらされている状態なのです。

かつて、土地の問題は京都の朝廷が裁いていました。公家も天皇家も大地主だったので、朝廷にもその関係を扱う部署があったのです。公家の法律は御家人には難しく、さらに御家人たちの慣習とも異なることから、不利な裁定が下ることも多々あり、それでも鎌倉幕府は泣き寝入りするしかありませんでした。

それが変わったのが、承久3(1221)年の承久の乱です。後鳥羽上皇に勝利した鎌倉幕府は、全国的に影響力を持つようになりました。裁判権も御家人たちが関わる内容は幕府で裁判ができるようになったのです。
幕府独自の裁判ができるようになったので、御家人たちにふさわしい法律を整備する必要がでてきました。そこで北条泰時らは、御家人たちの間にあった慣習法を明文化し、「御成敗式目」としてまとめた、というわけです。

けっこういい加減?「御成敗式目」の内容

「御成敗式目」は、全51条からなります。その内容は、

  • 祭祀・仏事に関する規定
  • 守護・地頭に対する禁制
  • 刑事法に関する規範
  • 所領相論(所領の境界を巡る紛争)などに関する規範
  • 幕府の裁判秩序・身分秩序に関する規範
  • 財物に関する規範

などに分かれます。

条文は具体的な事例や事件を想定したものが多く、特に所領に関する事では具体的なトラブルの事例を挙げています。

たとえば第18条。

「所領を女子に讓り与へたる後、不和の儀あるによつて、その親悔い還すや否やの事」

これは「自分の所領を娘に譲った後に、娘と不仲になったため、譲った所領を取り返す(悔い還す)ことができるかどうか」といった具体的事例が条文となっています。一般的な内容を並べたというよりも、実際にこのような事例が鎌倉幕府に持ち込まれたために追加されたのでは、とも想像されるような例です。

他にも、実効支配していることを根拠に他人の年貢を奪うことの禁止(第43条)や、罪に問われた御家人の所領を、その罪が確定する前に奪おうとすることの禁止(第44条)、所有者が変わる土地の年貢等はどちらのものか(第46条)など、個別具体的な事件があったと思われる条文が続きます。

その一方で、相続や所領問題の原理原則にあたるような内容はほとんど書かれていません。たとえば第18条に関連して、所領を女子に譲れるか・生前に譲ることができるか・どのような手続きで譲るのか・一度譲った所領を取り戻すことができるのか、といった点に関する条文は、「御成敗式目」中には見られません。これは他の条文でも同様です。

例外ケースの対処法はたくさん列挙するのに、そもそもの原則が書かれていないのは、内容の構成としては異色のものです。もちろん原則は存在していましたが、鎌倉時代の人にとっては、原則はいわば「一般常識」なので成文化するまでもない物と判断した、ということでしょう。

実はずっと使われていた?鎌倉時代以降の「御成敗式目」

「御成敗式目」は、鎌倉時代以降も活躍しています。室町幕府にとっても「御成敗式目」は基本法典でした。内容を改変することはなく、時代の変化に合わせて追加法を出すことで運用を続けていました。

戦国時代になると、各地の戦国大名の中には独自の分国法を定める家もありました。分国法の条文の中には、「御成敗式目」の影響がみられるものや、伊達稙宗の「塵芥集」のように条文をそのまま引用しているものもあります。

江戸時代になると「御成敗式目」は寺子屋の手習いの手本になり、内容が広く庶民に知れ渡ることになります。

おわりに

「御成敗式目」は武家政権が最初に定めた基本法典だと言われています。しかし現在の法典とは大きく異なり、鎌倉幕府が定めたルールで公家を裁くことは基本的にできません。同じ空間で生活していても、必ずしも全員が同じルールで規定されない状況は、現代では稀な特有の現象でしょう。

また「御成敗式目」自体も、法律というよりむしろ「公平な裁判をするための判例集」の性質を色濃く残すものでした。法を制定した鎌倉御家人たちの間には、土地や所領に関する基本的なルールが共有されており、「御成敗式目」はそのルールでも判断がつかない事例を判断するために制定したもののようです。

そうであるからむしろ、「御成敗式目」を通して、鎌倉時代の御家人たちが直面したトラブルを知ることができますし、その解決策を通して彼らの「道理」を学ぶこともできます。法典という面では確かに不完全ですが、その不完全さがあるからこそ「御成敗式目」は史料としての価値を持てたのかもしれません。



【主な参考文献】
  • 長又高夫『御成敗式目編纂の基礎的研究』(汲古書院、2017年)
  • 村上一博ほか編『新版史料で読む日本法史』(法律文化社、2016年)
  • 佐藤進一『日本中世史論集』(岩波書店、2007年)

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  この記事を書いた人
桜ぴょん吉 さん
東京大学大学院出身、在野の日本中世史研究者。文化史、特に公家の有職故実や公武関係にくわしい。 公家日記や故実書、絵巻物を見てきたことをいかし、『戦国ヒストリー』では主に室町・戦国期の暮らしや文化に関する項目を担当。 好きな人物は近衛前久。日本美術刀剣保存協会会員。

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