「北条泰時」鎌倉幕府の危機を幾度も救い、理想の武家政権を造り上げた名執権

『日本随筆大成』第2期第9巻にある北条泰時(栗原信充 画、出典:wikipedia)
『日本随筆大成』第2期第9巻にある北条泰時(栗原信充 画、出典:wikipedia)
北条義時の長男・北条泰時(ほうじょう やすとき)は、北条氏が執権(しっけん、鎌倉殿の補佐役)として幕府政治を主導する体制、いわゆる「執権政治」を確立した人物です。また、鎌倉幕府の法令ともいえる「御成敗式目」を定めた人物としても知られ、教科書的には父の義時よりも有名なのではないでしょうか。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では坂口健太郎さんが演じられ、今後の展開に注目が集まっています。そんな泰時がどのような生涯を送ったのか、詳しく見ていきましょう。

出生と青年期

北条義時の長男として誕生

泰時は寿永2(1183)年に北条義時の長男として誕生します。母親は阿波局(義時の妹である阿波局とは別人)とされていますが、どのような女性なのかは詳しく分かっていません。


泰時が生まれたとき、世間はちょうど治承・寿永の内乱(源平合戦)の真っ只中でした。平氏追討や御家人間のトラブルなど、様々な苦難に見舞われていた義時にとって、我が子の誕生は数少ない癒しだったのかもしれません。

頼朝からの寵愛

泰時は主君の源頼朝からも目をかけられていたようで、鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』には、それを物語るエピソードも残されています。

建久3(1192)年、金剛(泰時の幼名)の前で失礼な態度を取ったとして、御家人・多賀重行が頼朝に所領を没収される事件が発生します。頼朝は重行に対し「金剛はおまえのような者とは立場が違うのだ」と叱りつけたといいます。経緯を問われた金剛は、重行の非礼を否定し彼をフォローしたので、頼朝はその慈悲深さに感じ入り、褒美に刀を与えました。

また、建久5(1194)年2月に行われた金剛の元服では、頼朝がその烏帽子親を務めました。金剛は頼朝から「頼」の字を賜り、以降頼時と名乗ることになります。

頼朝からの期待の大きさ、頼朝と義時親子の関係の深さがうかがえますが、当の本人は頼朝の死に前後して泰時へと改名しています。

度重なる御家人粛清と実朝の暗殺

頼朝の死後、幕府内で相次いだ御家人の粛清劇では、泰時は父に従い様々な場面で活躍しました。建保6(1218)年には父の後任として侍所別当(長官)に就任し、幕府内でも存在感を増していきました。

翌建保7年に3代将軍実朝が暗殺されると、幕府政治は頼朝の妻・政子が実質的な将軍(鎌倉殿)として主導し、義時は執権としてこれを補佐する形になりました。度重なる幕府の危機に奔走する伯母と父の姿を見て、泰時も身の締まる思いだったのではないでしょうか。
そんな泰時らに、今度は外からの脅威が迫っていました。

承久の乱の勃発

義時追討命令

承久3(1221)年、後鳥羽上皇は義時追討命令を発し、討幕の兵を挙げます。上皇が討幕を企てた理由やその目的には不明確な部分も多いのですが、いずれにせよ現状の幕府体制の否定を目論んでいたことに変わりありません。鎌倉幕府によって武士の組織化が進んでいたとはいえ、治天の君(院政において政務の実権を握った天皇、上皇のこと)である上皇の権力は未だ健在です。上皇の元へは、京周辺や西国に住む武士たちが集いました。

わずかひと月で決着した戦い

公権力から名指しで追討対象にされたことは、義時らにとって一大事です。鎌倉幕府存亡の危機ともいえるこの事件でしたが、義時らの対応は極めて迅速でした。義時追討命令が発出された5月15日からわずか7日後には、幕府軍は京都に向けて出陣しています。上皇の予想に反し、東国武士の多くは幕府側に付いたのです。このとき泰時は東海道の大将軍のひとりとして、軍勢を率いていました。

泰時率いる幕府軍は各地で戦闘を繰り広げながら順調に進軍し、6月14日の夜には京の占領に成功します。後鳥羽上皇の挙兵からわずかひと月ほどの出来事でした。

六波羅探題の設置

戦いに勝利した泰時は、叔父時房と共に戦後処理のため京に留まります。彼らは六波羅の地で、朝廷との交渉や西国支配などの業務にあたりました。六波羅はもともと平氏の本拠地で、平氏滅亡後は鎌倉幕府の京における拠点となっていました。泰時らによる六波羅逗留が、後の鎌倉幕府の西国統治機関「六波羅探題」に繋がるので、泰時は六波羅探題の初代ともいえます。

鎌倉幕府と朝廷の関係

ごく短期間で終結した承久の乱でしたが、幕府と朝廷の関係には大きな変化をもたらしました。代表的なのが、鎌倉幕府の影響力の範囲です。これまで鎌倉幕府の影響力は、東国を中心としたエリアに限定されていましたが、乱の勝利と六波羅探題の設置によって西国への影響力がより強まったのです。

また、幕府は乱の首謀者である後鳥羽上皇をはじめ、王家の関係者を流罪としました。新たに即位した天皇やその周囲の人事には幕府の意向が反映され、以降朝廷は天皇の代替わりのたびに、幕府の見解をうかがう羽目になったのです。

最高権力者である治天の君が島流しになったという事実は、当時の人々に大きな衝撃を与えたことでしょう(武士の天皇観については、研究者の間でも様々な議論がされています)。泰時は歴史の大きな転換点に、最前線で立ち会っていたのです。

3代執権となる

父・義時の死

貞応3(1224)年、京で仕事に勤しむ泰時のもとへ悲報が舞い込みます。父義時が急死したのです。報を聞いた泰時は急いで鎌倉へと戻ります。すでに幕府の要職にいた泰時ですが、義時の後継者とての地位が盤石だったわけではありません。事実、義時の後妻である伊賀の方は、自らの子である政村を立てようとしていました。

しかし、泰時はなんとか義時の跡を継ぎ、執権に就任します。これは当時幕政を主導する立場にあった泰時の伯母政子の裁定によるものです。政子の後押しのおかげで、泰時は無事に義時の後継者の地位に収まることができたのです。

なお、政子は泰時と時房の2人に対して、鎌倉殿の補佐を命じており、時房も泰時と共に執権となっています。時房が就いた2人目の執権がいわゆる「連署(れんしょ)」と呼ばれ、それ以降の執権は2人就くことが常態化します(複数執権制)。

政子の死と次期将軍の擁立

そんな頼れる伯母も、泰時の執権就任から1年後の嘉禄元(1225)年に亡くなってしまいます。偉大な父と伯母の相次ぐ死、度重なる不幸に見舞われた泰時ですが、悲しんでいる暇はありません。泰時は将軍後継として育てられていた三寅(みとら)を元服させ、藤原(九条)頼経と名乗らせると、間もなく頼経は征夷大将軍に任じられ、4代将軍となります。

幕政主導者の不在は幕府存続の危機です。泰時は速やかに新たな将軍を立てることで、幕府権力を存続させようとしたのです。

評定衆の設立

泰時の執権就任、政子ら幕府要人の死、頼経の将軍就任により新しい体制となった鎌倉幕府。ここで泰時は新たな政治体制を試みます。幕府政治を有力御家人らによる合議制とするため、評定衆を任命したのです。

2代将軍頼家の政権期にあった有力御家人13人の合議制をさきがけとするこの体制は、幕府の重要事項決定や訴訟の裁断を、評定衆と執権・連署が共に行うものでした。将軍の政務をみんなで補佐することで、将軍の裁量に左右されない安定した幕府政治を行おうとしたと考えられています。時房らベテランのサポートもあり、泰時の政治は順調な滑り出しをみせました。

御成敗式目の制定

広がる社会不安

源平合戦以前から、武士たちは自分たちの所領を巡る争いを頻繁に起こしていましたが、承久の乱後はそうした紛争がより複雑、かつ頻繁に発生するようになりました。しかも、裁判になると複雑なルールに振り回され不利益を被る地頭や御家人も少なくありませんでした。武士たちの間には不満と不安が溜まっていました。

そんな中、折からの天候不順により、寛喜2(1230)年から翌年にかけて大規模な飢饉が日本を襲います(寛喜の飢饉)。飢饉による荒廃は、上記の紛争に更なる追い打ちをかけました。

泰時はこうした状況を憂いていたのかもしれません。武士たちの不満・不安を解消するため、彼らにも分かりやすい裁判基準の策定に取り掛かります。

公平な裁判を!

貞永元(1232)年、鎌倉幕府は泰時主導のもと、御成敗式目を制定します。これは幕府の基本法典として有名ですが、上記の通りもともとは裁判時の判決基準として制定されたものでした。

式目に、朝廷の法(律令)を改変するような意図はないことを泰時自身も言及しており、式目の適用対象も幕府に属する人間のみでした。泰時は式目の制定により公平な裁判の実現を目指したのです。

式目は社会に徐々に受け入れられ、幕府権力の拡大にともなって様々な場面で活用されました。そしていつしか本来の用途を超え、幕府の基本法典として社会から認知されるようになっていったと考えられます。


晩年と世間からの評価

皇位継承への関与

仁治3(1242)年正月、四条天皇が12歳で急死してしまいます。四条天皇は承久の乱後に幕府が擁立した後堀川天皇の子で、子のいない彼の死は、幕府側の息のかかった皇統の断絶を意味します。次期皇位継承者を誰にするか、幕府と朝廷の間で大きなトラブルとなりました。

朝廷側は、当初承久の乱関係者の皇子を新たな天皇に立てようとしていましたが、その案を泰時は受け入れず、邦仁(くにひと、後の後嵯峨天皇)を擁立します。邦仁は乱に直接関与のなかった土御門院の皇子でした。この政治トラブルによって、天皇の位は11日もの間空いてしまい、大きな問題にもなりました。

最後

皇位継承問題の心労が祟ったのか、仁治3年5月、泰時は病気のため出家します。しかし、病状は回復することなく、翌月15日に60歳でこの世を去りました。泰時の子は、いずれもすでに亡くなっていたので、彼の跡は孫(長子時氏の遺児)の経時が継ぐことになりました。経時はこのとき19歳という若さでしたが、同年には無事4代執権に就任しています。

幕府内外からの称賛

『吾妻鏡』には、泰時の人徳を称えるエピソードが数多く存在します。『吾妻鏡』は北条氏贔屓の曲筆があるとされているので、虚実は不明ですが、幕府内外から泰時を評価する声があったのは事実です(中には悪評もあったようですが)。

時代が下っても泰時の評価は変わらず、鎌倉時代の後期には彼を「救世観音の転身」(「中原政連諫草」)と称える声もあったとか。彼が擁立した後嵯峨天皇の皇統が続いたことも、その評価が後世まで語り継がれた要因だったのかもしれません。


【主な参考文献】
  • 平雅行編『中世の人物 京・鎌倉の時代編 第三巻 公武権力の変容と仏教界』(
    清文堂出版、2014年)
  • 野口実編著『図説 鎌倉北条氏 鎌倉幕府を主導した一族の全歴史』(戎光祥出版、2021年)
  • 田中大喜編著『図説 鎌倉幕府』(戎光祥出版、2021年)

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  この記事を書いた人
篠田生米 さん
歴オタが高じて大学・大学院では日本中世史を学ぶ。 元学芸員。現在はフリーランスでライター、校正者として活動中。 酒好きなのに酒に弱い。

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