丁寧に歴史を追求した "本格派" 戦国Webマガジン

「サン=フェリペ号事件(1596年)」スペインによる日本侵略の危機!?秀吉の国防意識を動かした、航海長の威嚇発言

帯刀コロク
 2015/08/10

スペインのガレオン船

日本にキリスト教が伝来した当時は比較的柔軟に受容され、戦国大名のうちでも改宗して「キリシタン」となる者が出現しました。 織田信長も外国宣教師によるキリスト教布教には理解を示し、続々とポルトガルやスペインなどから日本に向けて宣教師が派遣されてきました。

信長の覇業を継承した秀吉も布教活動には一定の理解を示していましたが、その状況は1587年(天正15年)の「伴天連追放令」が画期となって大きく変化しました。これは、当時の九州において日本人奴隷の海外向けマーケットが隆盛しており、その活動に海外宣教師たちが関与していたことも起因しています。

この追放令は宣教師たちにごく短期間で国外退去を命じる厳しいものでしたが、諸国との交易とキリスト教信仰そのものを禁止したわけではありませんでした。いわば緩衝地帯となるグレーな部分をあえて設け、経済活動や信仰そのものへの弾圧を避ける配慮がうかがえます。

しかし、ある事件をきっかけに豊臣政権は、キリスト教そのものへの態度を硬化させます。 それが1596年(文禄5年)に起こった「サン=フェリペ号事件」で、漂着したスペイン船クルーの一人が発した威圧的な言動の内容が、豊臣政権の防衛意識に深刻な危機感をもたらす結果となったものです。

今回は、秀吉がキリスト教弾圧へと方針転換をした契機のひとつともされる、サン=フェリペ号事件のあらましについてみてみましょう。

事件の背景

サン=フェリペ号とは

当時世界有数の海洋国家であったスペインのガレオン船「サン=フェリペ号」は、新暦1596年7月12日にルソン島のカビラを出港しました。

ガレオン船とは後の戦列艦へと連なる系譜の巨大帆船で、快速で積載量も大きいため商船あるいは武装船として大いに用いられた船種です。サン=フェリペ号は排水量700トンあるいは1,000トンと伝えられ、乗組員は233名という大規模な船でした。

船長は「ドン=マチアス=デ=ランデーチョ」、航海長は「フランシスコ=デ=サンダ」、ほかフランシスコ会・ドミニコ会・アウグスティノ会それぞれの会員からなる7名の宣教師も同乗していました。

サン=フェリペ号(以下、フェリペ号)は現在のメキシコに向けて航海の途中、東シナ海上で台風に巻き込まれます。非常に危険な状態となり、暴風の影響を避けるためメインマストを切断し、転覆を避けるため400個にもおよぶ積荷を投棄したといいます。

自然風による十分な操船が不可能となったフェリペ号は、同年10月19日(旧暦:文禄5年8月28日)日本の土佐沖に漂着しました。

これを検知した「長曾我部元親」の指示により、土佐の浦戸湾へと曳航。フェリペ号クルーたちは長浜(現在の高知県高知市長浜)の町にその身柄を留め置かれることになりました。

クルーの浦戸勾留

フェリペ号クルー一同は協議の末、船体修理と乗員保護の許可を得るため贈物を持参して大坂の秀吉のもとに使者を派遣します。

ところが秀吉への謁見は叶わず、帰還した使者の一人は船の積荷が没収されたこと、そして自分たちは処刑される可能性があることなどを知らせます。

先んじて行われた秀吉のスペイン提督に対する談話では、外国漂流船などの遭難者は救助するという方針を示していたといいます。クルーたちはこの処遇に大いに憤慨しました。

秀吉への直訴はできなかったものの、代わりに五奉行第三席の「増田長盛」が浦戸へと派遣されてきます。

クルーの威圧発言と豊臣政権の態度硬化

浦戸へと実地検分に訪れた奉行の増田長盛は、船員名簿を作成しすべての船荷・所持品の提出を求めました。 クルーの持っていた所持金計2万5,000ペソも没収され、それらはすべて大坂へと回送されたといいます。

さらに秀吉からの書状の内容として、スペイン船の漂着は武力制圧の先鋒としての測量を目的としたものであり、日本の植民地化を意図したものであるとの疑義を投げかけます。

これらの処遇に憤慨した航海長のデ=サンダは世界地図を示し、スペインの広大な領土と日本列島を比較することでその国力の圧倒的な差を威嚇的に述べたといいます。

また、スペインは宣教師を世界中に派遣して布教とともに征服をも行っていること、キリスト教信徒を増やして武力併合のために内応させていること等の発言をしました。

この内容はスペイン人商人の「ベルネルディーノ=デ=アビラ=ヒロン」が著した『日本王国記』の記述にイエズス会士であった「モレホン」が注釈を加えたものとされ、ほぼ事実通りであると考えられています。

この発言が秀吉の耳に届き、スペインおよび宣教師たちの活動が日本の植民地化を視野に入れたものであるとの疑いを強くした豊臣政権は、以降キリスト教への態度をより硬化させました。

他の説としては、ポルトガル系の宣教師らがスペイン系宣教団の日本での活動阻害のため意図的に秀吉へと讒言を行ったというもので、いずれにせよ両国の日本での権益闘争が根底にあったといえるでしょう。

事件の影響

以上の事柄を増田長盛は大坂の秀吉に報告。これを受けて豊臣政権は同年12月8日、天正の頃よりも苛烈な禁教令を布告しました。

このことによって京都・大坂で活動していたフランシスコ会およびイエズス会の修道士・教徒ら26名が捕らえられ、1597年2月5日(慶長元年12月19日)に長崎西坂にて処刑されました。

サン=フェリペ号船長のデ=ランデーチョは船体修繕の許可を秀吉に直接交渉すべく、長曾我部元親の許可を得て同年12月に上坂しました。

デ=ランデーチョは殉教者一行の足跡を追って長崎へと至り、マニラに帰還します。

また、サン=フェリペ号クルーは秀吉から船体修繕の許可を取り付け、修復完了後にマニラへと戻ることに成功しました。マニラ政庁は事の次第を精査し、デ=ランデーチョらは証人喚問を受けます。

その後、日本へと派遣されたスペイン使節はサン=フェリペ号の没収貨物と、殉教者たちの遺物の引き渡しを豊臣政権に要求しました。しかし秀吉は殉教者遺物の返還には応じたものの、サン=フェリペ号の積荷を引き渡すことは拒否しています。

秀吉が行ったこのキリスト教徒弾圧の背景にはさまざまな国際情勢も絡んでおり、その真相はいまだ究明の途上にある状態を脱していません。

事件後

秀吉の統治時代に処刑を伴う苛烈なキリスト教徒弾圧が行われたのは、上記の「日本二十六聖人殉教」のみとされています。

京都を拠点としていたフランシスコ会への弾圧は行われたものの、キリスト教徒の強制改宗などは行われず、名目上は禁教としたもののいまだグレーな部分を残すという処遇だったことがうかがえます。

秀吉は対外交易がもたらす経済効果を熟知しており、日本の植民地化を阻止しながらも諸外国との物流は維持する方針をもっていたともいえるでしょう。

しかし一連の事件により、以後は国内においても外国が一括りの「南蛮」ではなく、たとえばポルトガルとスペインの対立構造に代表される「各国」という意識を芽生えさせることになったという指摘もなされています。

まとめ

スペインの一船の、一人のクルーの発言が豊臣政権の国防意識に影響したとさえいわれるサン=フェリペ号事件。 実際の背景はそれだけではなく、さらに複雑な国内・国外情勢が絡んでいたことは想像に難くありません。

しかし宣教を通じた外国勢力の静かな侵略という可能性は、具体的な脅威として秀吉に危機感をもたらしたといえるでしょう。 真相の解明は、今後の大きな研究課題のひとつでもありますね。


【主な参考文献】
  • 『日本歴史地名体系』(ジャパンナレッジ版) 平凡社
  • 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
  • 『歴史群像シリーズ 45 豊臣秀吉 天下平定への智と謀』 1996 学習研究社
  • 「長崎におけるキリシタン弾圧と被差別部落」『法制史研究 1990巻 40号』 藤原有和 1990 法制史学会
  • 「本院所蔵キリシタン史料について(補修篇)」『日本學士院紀要 31巻 3号』 大類伸 1973 日本学士院
  • 高知市立浦戸小学校HP 浦戸の歴史と伝統 サン=フェリペ号事件の概要

  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術に ...


  • このエントリーをはてなブックマークに追加

おすすめの記事


 PAGE TOP