本来は単なる臨時職だった「征夷大将軍」。なぜ武士のトップを指す言葉になったのか?

日本史において、「征夷大将軍」という役職は武士のトップ、あるいは現代でいう内閣総理大臣のような立場というイメージがありますよね? 源頼朝、足利尊氏、徳川家康らは朝廷から征夷大将軍に任命されることで幕府を開き、朝廷にかわって武士が中心の政治を行いました。

彼ら全員が清和源氏という一族出身だと称しているので、「征夷大将軍=武士のトップ=清和源氏」という図式が成り立つと考えがちです。しかし、たとえば坂上田村麻呂は古代の征夷大将軍ですが、源氏ではありません。いつからこうした図式ができ上がったのでしょうか?今回は古代における征夷大将軍からお話をしたいと思います。

もともとは単に「東北方面軍司令官」

そもそも「征夷大将軍」という役職はどのように誕生したのでしょうか。日本史の教科書ではじめて征夷大将軍が出てくるのは、鎌倉時代ではなく平安時代初期です。平安京に遷都した頃から、大和朝廷は彼らに従わない勢力の討伐を進めていました。そのうち現在の関東北部から北海道にかけて居住する蝦夷(えみし)の討伐を任されたのが征夷大将軍です。征夷の「夷」は蝦夷であり、つまり「蝦夷を征伐する将軍」という職でした。

征夷大将軍は軍事行動がある時のみ任命されました。記録の上では、延暦13(794)年に大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)が任命されたのが初見です。有名なのは、延暦20(801)年に阿弖流為(あてるい)を捕らえ、蝦夷討伐を完了した坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)です。彼は清水寺を建立した一人で、現在も境内に阿弖流為の慰霊碑があります。

実はたくさんあった「将軍」職

大和朝廷が軍を派遣したのは東北だけにとどまりません。当然、「〇〇将軍」という役職は征夷大将軍だけではありません。その一部を紹介します。

鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)

蝦夷討伐に伴い、蝦夷との前線に置かれた駐屯地「鎮守府」の長官です。鎌倉時代までは、この職が武官にとって最高に栄誉ある職でした。

任官された有名人としては、歌人でもある大伴家持、源義家、奥州藤原氏の藤原清衡・秀衡もこの職にありました。南北朝期には北畠顕家がこの職にあり東国・北国に軍をすすめています。また徳川家康は江戸時代になってから、先祖としている新田義重にこの職を贈っています。

征東(大)将軍(せいとうしょうぐん)

平安時代に、蝦夷討伐のために設けられました。しかしだんだん関東一般の兵乱をおさめるための役職になりました。こちらも必要がある時だけ任命する臨時のポストです。

平将門が反乱を起こしたとき、討伐軍を率いた藤原忠文がこの役職につきました。また南北朝期に関東で中先代の乱が起こった際、討伐軍を率いた足利尊氏が後醍醐天皇からこの役職に任命されています。

征西(大)将軍(せいせいしょうぐん)

平安時代に、中国・四国・九州地方の反乱を平定するために設置された役職です。こちらも必要がある時だけ任命する臨時のポストです。

藤原純友が反乱を起こした時に、藤原忠文が任命されています。また南北朝期には南朝の懐良親王が西国に兵を進めるにあたり後醍醐天皇から任命をうけています。

このように、征夷大将軍は本来東北方面軍司令官のポストであり、その役職についたからと言って全国の武士のトップということを意味するものではありません。加えて、「〇〇将軍」という役職も複数存在しました。加えて、役職が作られた当初は血筋の制限はなく、清和源氏以外でも征夷大将軍になっていたことは歴史上明らかです。

「征夷大将軍=武士のトップ=清和源氏」はいつからか?

それでは、なぜ征夷大将軍が武士のトップを意味するようなポストになったか、またなぜ清和源氏がその職と結びついたかを考えてみましょう。

奥州藤原氏が手本?頼朝の構想

建久3(1192)年、源頼朝は征夷大将軍になり、軍の指揮権を得ることになりました。

もちろん、当時は蝦夷討伐などなく、頼朝が実際に「征夷」をすることは想定していません。彼の目的は朝廷から軍事指揮権(つまり御家人たちの指揮権)を得ることだった、と言われています。その体裁をとることで、頼朝は制度上、朝廷から干渉されない独自政権を持つことができました。

同じ構造を持っていたのは奥州藤原氏です。奥州藤原氏は朝廷と強い繋がりを持ちつつも、鎮守府将軍に就き、奥州に莫大な兵や財貨を蓄えつつ独自の政治を行っていました。結果的に、彼らは源頼朝に滅ぼされてしまいますが、「将軍」がつく役職についていたこと・独自政権をたてていたことは、「将軍」がつく役職の活用法として頼朝に何らかのヒントを与えていたかもしれません。

たまたま清和源氏だった…

清和源氏は、清和天皇の子孫のうち、「源」の姓を賜り臣籍にくだった一族です。源頼朝はたまたまその血を引く、良家のお坊ちゃまでした。

頼朝はカリスマ性を持ったリーダーで、御家人をよくまとめました。頼朝の子孫が絶えて、摂関家や皇族から将軍(鎌倉軍事政権のリーダー)を迎える際に、御家人たちは「頼朝の後継者は源氏であってほしい」と騒ぎました。それをうけて、第七代将軍になる惟康親王は、わざわざ臣籍降下して「源惟康(みなもとのこれやす)」と源氏になったほどです。

カリスマ・源頼朝により、御家人たちの間には「征夷大将軍=軍事政権のリーダー」、そして将軍に就く者は、清和源氏か、すくなくとも源氏が就くべき、という意識が生まれたのです。

政権確立に頼朝を利用した足利尊氏

こうした構図を利用したのが、足利尊氏です。偶然ですが、彼もまた清和源氏。源頼朝とは遠縁の親戚でした。彼が南北朝期に独自政権をたてるとき、利用したのは、やはり「源頼朝の後継者」かつ「清和源氏である」というイメージでした。尊氏自身が征夷大将軍になることで、敵味方に上記のイメージを宣伝し、自身の権力の正当性を主張しました。

しかし当時はまだ同じ清和源氏の新田氏ほか様々な勢力がありました。そこで尊氏らは、実力で他勢力をねじ伏せると同時に、「足利氏こそが清和源氏の嫡流だ」と称しはじめます。足利家の家宝である鎧「御小袖」が、源頼朝の祖先でもある八幡太郎義家の遺品だと主張し、それを相伝する足利氏こそが、頼朝の後継者にふさわしい家だと称しました。

最終的に足利氏が全ての戦いに勝利し、それに伴い、勝者・足利家の上記の主張も、半ば強制的に受け入れられました。

こうして、室町時代にかけて「征夷大将軍=清和源氏=武士のトップ」の構図が強化されたのです。

コラム:実は立場が違う?鎌倉の将軍と室町・江戸の将軍

同じ「将軍」であっても、鎌倉時代の将軍と室町時代・江戸時代の将軍では立場が微妙に異なります。具体的には、室町時代・江戸時代の将軍のほうが、「源氏長者」を兼ねた点で、鎌倉時代の将軍より地位が高いのです。

「源氏長者」とは、公家武家すべての「源さん」のトップ、という意味です。源氏だけではなく、藤原氏にも「藤氏長者」という地位があります。

源氏長者は源氏の祭祀をするとともに、源氏は元皇族に与えられる姓なので、皇族・元皇族向けの高等教育機関である淳和院・奨学院の別当(学長のようなもの)もつとめました。今でいうと学習院の院長のような立場です。そのため、室町幕府の将軍の一部と、江戸幕府の将軍は「征夷大将軍右近衛大将右馬寮御監淳和奨学両院別当源氏長者」という長ったらしい称号を持ちました。

源頼朝の頃、源氏長者は清華家の久我一族(村上源氏)がつとめていました。それが室町時代以降力を失います。かわりに室町将軍が摂関家に次ぐ扱いをされるようになります。戦国時代は一時的に久我家が源氏長者となりますが、江戸時代は徳川将軍家が源氏長者を独占しました。

おわりに

単なる「東北方面軍司令官」だった征夷大将軍が、いつの間にか武士のトップ・清和源氏しかなれない役職になったのは、新たな世の中を作ろうとするリーダーたちの深謀遠慮によるものでした。

既にあるポストをフル活用して新たな世を作った彼らの着眼点からは、まだまだ学ぶことは多いかもしれません。


【主な参考文献】
  • 岡野友彦『源氏長者』(吉川弘文館、2018年)
  • 石原比伊呂『足利将軍と室町幕府』(戎光祥出版、2018年)
  • 桃崎有一郎『武士の起源を解き明かす』(ちくま新書、2018年)

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  この記事を書いた人
桜ぴょん吉 さん
東京大学大学院出身、在野の日本中世史研究者。文化史、特に公家の有職故実や公武関係にくわしい。 公家日記や故実書、絵巻物を見てきたことをいかし、『戦国ヒストリー』では主に室町・戦国期の暮らしや文化に関する項目を担当。 好きな人物は近衛前久。日本美術刀剣保存協会会員。

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