これは押さえておきたい!鎌倉時代と室町時代の違いとは

鎌倉、室町、江戸時代はいずれも武士が幕府を開き、実質的な政治を行なった「武士の時代」という点で共通しています。ただ、それぞれの時代の特徴は異なるところがありますよね。

平安時代は『源氏物語』『枕草子』などから、貴族の様子がわかりますし、戦国時代(安土桃山時代)なら大河ドラマや小説、漫画などで頻繁に題材とされることで、馴染みがあるかと思います。また、江戸時代も歌舞伎や落語など、現代も親しまれる芸能の中で触れられます。

一方、鎌倉時代と室町時代に関してはいかがでしょうか。戦国や江戸に比べるとマイナー感が否めないし、なんか幕府体制も似ていて特徴の違いというのも、よくわからないのではないでしょうか。鎌倉と室町の違いといえば「首都が鎌倉 or 京都」程度にしか一般に伝わっていないような気もします。

そこで今回は鎌倉時代と室町時代の違いについて、とりわけ後の時代に大きな影響を与えた「朝廷との付き合い方」と「家臣統制」の2点にフォーカスしたいと思います。

おさらい:鎌倉時代と室町時代の概要

まずは、鎌倉時代と室町時代のはじまりを振り返ってみましょう。

鎌倉時代は12世紀末から14世紀半ばを指します。12世紀に上皇が政治をとる「院政」が始まり、護衛として源氏・平家ら武士が力をつけ、平清盛は公家にもなりました。平氏政権に反対する源頼朝らの挙兵(いわゆる源平合戦)が成功し、朝廷から遠く離れた鎌倉の地において、独自政権をたてたのが鎌倉時代の始まりです。

鎌倉時代、武士のトップは征夷大将軍でした。しかし初代将軍である源頼朝以降においては、執権・北条氏が実権を握り、将軍職は京都から皇族や摂関家子弟を迎えて繋いでいるような状態でした。

一方、室町時代は14世紀半ばから16世紀末、室町幕府が存在した時期を指します。初期は朝廷が南北に分かれて争っていたため「南北朝時代」と呼ぶこともあります。

将軍は足利家で、当初は北朝から征夷大将軍に任命されました。三代目の足利義満が南北朝を合一し、京都室町に豪邸をかまえて太政大臣に登ったため「室町幕府」と名付けられています。

鎌倉時代と異なり、室町時代の将軍は代々足利家で継ぐことができました。政治は主に三管領家(細川・斯波・畠山)・四職家(山名・赤松・一色・京極)など、有力守護大名との合議で進めました。

鎌倉と室町の違い1:朝廷との付き合い方

大雑把に言うと、鎌倉幕府は朝廷嫌いで、室町幕府は朝廷好きと分類できます。

朝廷から独立政権をつくった鎌倉時代

鎌倉幕府は、基本的に朝廷と距離を置いています。物理的には関東に本拠地を置き、天皇や公家と必要以上に交わろうとしません。政権としても、確かに天皇家や摂関家から将軍を迎えているものの、実権は北条氏ら御家人の手にあり、あくまでも「武士のため」の政権であることを貫きました。

歴史的にも、後鳥羽上皇が反鎌倉幕府の院宣をかかげて挙兵した「承久の乱」が起こり、幕府滅亡も後醍醐天皇の挙兵がきっかけなので、幕府と朝廷の関係はあまり良くなかったと言えるでしょう。

朝廷の制度を吸収合併した室町時代

室町幕府は逆に、当初から朝廷と運命共同体でした。足利家は清和源氏であるものの、誰もが認める嫡流ではありません。ライバルは多く、血筋からいえば新田をはじめ、細川・斯波・畠山なども清和源氏です。たまたま尊氏が武功をたてただけで、機会があれば他の有力者たちが足利家の立場にとってかわることも可能でした。そこで、足利家の天下を盤石なものにすべく、足利家は天皇と急接近しました。

幸いにも、初代将軍の実弟・足利直義は公家の礼儀作法に詳しく、何度も参内して天皇と個人的に親しくなりました。この伝統は二代目義詮・三代目義満に引き継がれ、室町幕府の将軍は代々天皇の友人として公私ともに支えるポジションを確立しました。

このように朝廷を利用し統治をしていた足利将軍家は、当然のことながら、朝廷の権威が落ちるとその立場も危うくなります。世の中が実力主義になると、あっという間に崩壊の路をたどりました。

鎌倉と室町の違い2:家臣の統制

鎌倉時代と室町時代では、幕臣の生活にも違いがありました。

長期出張「大番役」があった鎌倉時代

鎌倉幕府に仕える御家人たちは、基本的に各人の所領にいました。鎌倉時代の御家人は、先祖代々伝えてきた土地を守り、平時はそこにある館で家臣たちと武芸鍛錬をして暮らしていました。そして、有事の際は「いざ鎌倉」と鎌倉にはせ参じ、幕府の命令のもとに役目を果たす、という生活でした。

江戸時代の江戸は各大名の屋敷が随所にありましたが、鎌倉時代の場合はむしろ鎌倉居住の御家人や、鎌倉に屋敷がある御家人は多くなかったようです。

一方で、御家人の中には長期出張を命ぜられる人もいました。この仕事は「大番役」と呼ばれ、京都御所や鎌倉の警備をつとめました。蒙古襲来後は九州の沿岸警備の任務もあり、守護や将軍の命令を受け各地から派遣されました。

「大番役」は重要な仕事で、輪番でつとめ、期間は数か月から半年でした。しかし私費で務めなければならず、交通費や宿泊費など膨大な費用を捻出するために、領地の年貢がどんどん上がりました。そのため、御家人たちや庶民が困窮し、幕府に不満を持つきっかけになったそうです。

単身赴任だった室町時代

室町幕府に仕える守護たちは、鎌倉時代とは逆で、基本的に京都に住んでいました。彼らは今でいうところの国務大臣や国会議員のように、将軍のもとで天下の政務に関わっていました。守護たち本人は所領の経営ができないため、現地には「守護代」という家臣を派遣して統治させていました。守護たちにとっては、何度も領地と京都とを往復しなくて済むので楽でした。

守護が自国に帰るタイミングは、有事が起こった時です。具体的には、将軍の命令で誰かを討伐するときや、あるいは将軍に対して腹に据えかねることがあり、武力行使も辞さない勢いで抗議する時です。そのような折に、京都にいる守護大名はいったん京都から領地に帰ります。領地に帰り、守護代が管理している軍勢と合流して、改めて軍事行動を起こしました。

これも例外があり、甲斐や駿河など鎌倉周辺の数か国は京都から遠いことと、将軍の親戚が代々つとめている鎌倉公方を監視する役目から、守護が所領にいて良いとされていました。これらの国の守護は、用事がない限り上洛せず、自ら領国経営をしていました。

戦国時代になり、朝倉や長尾、織田といった有力な守護代が、守護を追放して国の実権を握ります。守護代のほうが実力を持っていたのは、そもそも守護が国に帰っていなかったから。地元にたいする影響力は、ちょっとしか戻ってこないトップよりも、常にいるナンバー2のほうが大きかったのです。一方で、武田や今川など守護から戦国大名になった人々は、もともと京都に行かなくていい国だったところがほとんどです。戦国時代の伏線はすでに室町時代に仕込まれていました。

おわりに

一見同じように見える鎌倉時代と室町時代ですが、それぞれの政権が目指した方向性には大きな違いがありました。その方向性をつかんでおくと、時代の流れや隣接する時代への影響なども理解しやすいと思いますし、より理解が深まる側面もあると思います。

個々の人物や出来事に注目するのも歴史の楽しみ方の一つですが、それぞれの時代やその前後の時代にも関心を広げてみると、また違った側面から人物や出来事を理解できるかもしれません。


【主な参考文献】
  • 伊藤一美『新知見!武士の都鎌倉の謎を解く』(戎光祥出版、2021年)
  • 石原比伊呂『室町時代の将軍家と天皇家』(勉誠出版、2015年)
  • 五味克夫『鎌倉幕府の御家人制と南九州』(戎光祥出版、2016年)

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
桜ぴょん吉 さん
東京大学大学院出身、在野の日本中世史研究者。文化史、特に公家の有職故実や公武関係にくわしい。 公家日記や故実書、絵巻物を見てきたことをいかし、『戦国ヒストリー』では主に室町・戦国期の暮らしや文化に関する項目を担当。 好きな人物は近衛前久。日本美術刀剣保存協会会員。

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。