「足利尊氏」戦乱に生きた室町幕府初代将軍は、戦上手でも情緒は不安定だった?

足利尊氏の像(浄土寺蔵、出典:wikipedia)
足利尊氏の像(浄土寺蔵、出典:wikipedia)
足利尊氏(あしかが たかうじ)は周知のように室町幕府の初代将軍として有名ですが、尊氏は本来、足利家の家督とは縁薄い人でした。偶然家を継いだタイミングと、朝廷と幕府の対立が表面化したタイミングが一致したことで、混乱に巻き込まれてしまうのです。

源頼朝や徳川家康と比べると、その活躍はあまり知られていないようにも思えます。今回はそんな足利尊氏の生涯についてみていきたいと思います。

文中の人名は、特に断りがない限り最も有名なもので統一しています。足利尊氏も当初は「高氏」で途中から「尊氏」と名乗っていますが、本文では当初から全て「尊氏」で統一します。

尊氏の生まれと家族

足利尊氏は嘉元3年(1305)、鎌倉幕府の有力御家人・足利貞氏の次男として生まれました。

足利家は清和源氏で、先祖は鎌倉幕府草創期に源頼朝と共に戦いました。鎌倉幕府においては「御門葉」と呼ばれる将軍家一門の扱いで、執権・北条氏一族に次ぐ待遇を与えられた有力御家人の家柄でした。

尊氏の母親は側室の上杉清子で、当時としては高齢の35歳での出産でした。出生地は諸説ありますが、元服の頃には鎌倉にいたと思われます。同母弟に足利直義(あしかがただよし)がいます。

足利家の嫡男は、尊氏異母兄の足利高義で、尊氏より8歳年上です。高義はのちに家督を継ぎますが、文保元年(1317)に病死。高義の男児が幼かったため、前当主・貞氏が政務に復帰しました。

足利尊氏の略系図
足利尊氏の略系図

尊氏は元応元年(1319)に元服を果たし、最初は執権・北条高時から一文字を貰い「高氏」と名乗りました。婚姻に関しては、尊氏は10代で足利家庶流の娘との間に長男を儲けています。彼女を正室に、という話も模索していたようですが、足利家の娘との婚姻は白紙になりました。

というのも、尊氏の家督継承の頃に北条家の一族・赤橋守時の妹である登子との婚姻が決まったからです。足利家当主は代々北条家と血縁がありましたが、尊氏は側室の子なので直接の血縁はありません。そのため、この婚姻が鎌倉幕府内での地位を固めるためには必須でした。

ちなみに足利家の家督は高義の息子に渡されるはずでしたが、貞氏も病弱で元弘元年(1331)に亡くなり、他に適任もいなかったため、次男の尊氏が足利家の後継者となったのです。このとき尊氏は26歳でした。

鎌倉幕府を見限る(元弘の乱)

尊氏の運命は、家督を継いだとたんに暗転します。元弘元年(1331)、後醍醐天皇が笠置山(現在の京都府相良郡)で挙兵し、全国に鎌倉幕府打倒を呼びかけました。かねてより北条家の専横に不満を持っていた武士が呼応し、反幕府軍は侮れない勢力になりました。

そこで鎌倉幕府は、足利尊氏に討伐を命じます。尊氏は父の喪中でありましたが要請を断れずに、鎌倉から京都へしぶしぶ遠征します。尊氏は戦上手なので、やる気ナシでも笠置山を2日であっさり攻略しました。捕縛された後醍醐天皇は廃位となって隠岐に流され、あらたに光厳天皇が即位しました。

騒動はこれで終わりません。正慶2年(1333)、尊氏が病気療養中の折、後醍醐天皇が隠岐を脱出し再度挙兵したとの急報が届きます。後醍醐天皇は船上山(現在の鳥取県東伯郡)に立てこもり、再び全国に反・鎌倉幕府の檄を飛ばしました。

鎌倉幕府は再び尊氏に討伐の命令を下します。鎌倉から遠征した尊氏ですが、三河国八橋まで来たところで側近に謀反の意を打ち明け、使者を後醍醐帝に送りました。その後、丹波国にある足利領の篠村八幡宮まで進軍したところで、ついに反幕府の挙兵を宣言。翌月には京都に押し寄せ、鎌倉幕府の京都支所・六波羅探題を攻め落とすのです。尊氏28歳のことでした。

尊氏が謀反を起こした原因として、『太平記』では無理に2度も遠征させたことによる怨恨だとしています。ある説では、尊氏は北条家と直接血縁がなかったので、家中の反北条家勢力に担がれたのでは、という見方もあります。加えて、母の一族・上杉氏は京都の情勢に詳しく、彼らから得た情報で幕府の不利を悟った可能性もあります。

尊氏と同時に、関東でも新田義貞(にったよしさだ)が反幕府の挙兵をし、鎌倉を攻め落としました。執権・北条高時らは自害し、ここに鎌倉幕府は滅亡となります。

鎌倉には、足利尊氏の家族もいました。尊氏の長男・竹若は、鎌倉を脱出したものの、道中で鎌倉幕府方に発見されて殺されてしまいます。正室の登子と彼女の息子(3歳、後の二代将軍・足利義詮)は家臣の護衛で鎌倉を脱出し、新田義貞軍に合流して無事でした。

建武政権での尊氏

鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇は、足利尊氏にとても感謝しました。足利尊氏の「尊」は、この時に後醍醐天皇から貰った字です。彼はそれまで北条高時から一文字貰って「高氏」と名乗っていましたが、以降は後醍醐天皇の諱「尊治(たかはる)」から貰い「尊氏」と名乗ります。

加えて、後醍醐天皇は彼に「鎮守府将軍」を与えました。名誉職でしたが、古代では最も格の高い将軍とされ、奥州藤原氏などが歴任しています。

さて、後醍醐天皇が開いた新しい政治体制(建武の新政)ですが、尊氏の弟の直義や、側近・高師直(こうのもろなお)らに役職が与えられたものの、尊氏自身には与えられていません。

従来では、この状況を「尊氏を冷遇・警戒した」と評価し、のちの尊氏謀反の原因を求めることもありました。しかし近年では、むしろ逆に「尊氏を厚遇したかったから役職に就かせなかった」と見なされています。尊氏は新政権において、人望が厚く、既に「武士のトップは尊氏!」という雰囲気があったようです。後醍醐天皇もそれを知っており、敢えて、具体的な仕事を伴う役職に尊氏を任命しなかった、というのが近年の解釈のようです。

中先代の乱

尊氏が再び動き出したのは、建武2年(1335)、30歳のときです。この年、北条時行ら北条家の残党が鎌倉を襲撃しました。鎌倉には建武政権の出張所があり、尊氏の弟・直義が居ました。直義はあっけなく負けて鎌倉で包囲されます。弟からのSOSを受け取った尊氏は、後醍醐天皇の許可も待たずに、4万の大軍で京都から鎌倉に駆けつけ、あっという間に鎌倉を奪還しました。(中先代の乱)

反乱の鎮圧後、鎌倉に入った尊氏は、従軍した人たちに恩賞を与えました。武士であれば、大将が戦場で恩賞を与えるのは普通のことですが、これを聞いた後醍醐天皇は「自分の許可も得ずに勝手に恩賞を出すのか!」と激怒します。天皇にとっては、全国の支配者である自分に無断で所領を与える行為は、建武政権の否定に等しいと映ったようです。後醍醐天皇は尊氏に謀反の意ありとして、追討の兵を差し向けました。

後醍醐天皇との決別、室町幕府樹立

後醍醐天皇に賊軍認定されたと聞いて、尊氏は大いに慌てます。天皇に背く意図など無かったため、隠居を宣言し、断髪して恭順の意を示しました。

建武の乱

しかし尊氏討伐の兵は続々と鎌倉に向かってきます。京都からは新田義貞、奥州からは北畠顕家が兵を進めました。周囲はしきりに出陣を促しますが、戦う意思のない尊氏は「降伏する、自害する」と言ってふさぎ込んでいたようです。代わりに足利直義や側近の高師直らが防戦。最終的に直義は箱根で新田義貞軍に囲まれて食料も尽き、絶体絶命の窮地に追い込まれてしまいます。

その後「弟を死なせるわけにはいかない」と尊氏がようやく出陣。鎌倉から箱根に駆けつけたとたん、あっと言う間に新田軍に勝利し、そのまま快進撃を続けて京都に迫ります。道中の敵を蹴散らして、建武3年(1336)正月には京都に入ります。

後醍醐天皇を比叡山に追いやった尊氏ですが、その後まもなく奥州からやってきた北畠顕家に攻め込まれて敗戦。同年2月には京都を放棄して九州へ落ち延びることになり、そこでもまた尊氏が「死にたい」と騒いだのを、弟や高師直が必死でなだめたとか…。

何とか尊氏を奮い立たせ、九州勢の協力も得て、足利勢は再度京都を目指します。湊川の合戦で新田義貞・楠木正成に勝ち、6月に京都奪還に成功しました。そして11月、尊氏と後醍醐天皇は講和を結びました。

室町幕府の樹立

このとき、皇位には光明天皇が就いていました。後醍醐天皇が隠岐に流された後、光厳天皇が即位しましたが、後醍醐天皇の復活で光厳天皇は位を退きます。そして再び後醍醐天皇が比叡山に逃げたことで、光厳天皇の弟・光明天皇が天皇となっていました。この光明天皇の皇統を「北朝」と呼びます。

一方、後醍醐天皇は吉野に逃れ、建武4年(1337)に自らの皇位の正当を主張しました。この後醍醐天皇の流れを「南朝」と呼びます。

※参考:持明院統と大覚寺統の略系図
※参考:持明院統と大覚寺統の略系図

この二つの皇統がある時代を特に「南北朝時代」とも呼びます。そして尊氏は、暦応元年(1338)、北朝の光明天皇から征夷大将軍に任命されました。後に室町幕府と呼ばれる政治体制が、この頃から本格的に始まるのです。

最愛の弟・直義との死闘

室町幕府初期は、会社でいうと「社長・足利直義、会長・足利尊氏」という運営でした。政務のほぼ全てを弟・足利直義が管理し、尊氏は恩賞を与えるなど重要ないくつかの職務がある、という状態でした。戦に強く人望もあるが気分にムラがある尊氏と、戦には弱いが冷静沈着で公家受けもいい直義という、仲の良い兄弟の適材適所の配置は、当初はとても上手くいっていました。

しかし、10年ほど経ち、京都周辺も平穏になってくると、今度は尊氏派と直義派の間で対立が生じてきました。兄弟でも二人のキャラはかなり違います。それぞれを慕って集まってきた家臣たちの個性もそれぞれで、大雑把に言えば、尊氏の側には高師直ら荒くれ者が多いのに対し、直義の側は官僚タイプが多くいました。

幕府設立後から、尊氏派の荒くれたちが乱暴狼藉を働き、それを直義らが有無を言わさずに厳罰に処す(たいてい斬首)状況が何度か続いて、お互いに怨恨を抱え込み、10年もたつと、もういつ爆発してもおかしくない状況にまで対立が深まっていました。そんな時、正平4年(1349)の夏、足利直冬(あしかがただふゆ)が、任地の九州で反尊氏を宣言して挙兵します。

足利直冬は尊氏と越前局との間の子です。尊氏にとっては想定外の子だったようで、直冬が父子としての面会を求めても、拒否し続けました。それを見かねた直義が、ちょうど実子がいなかったため、手元に引き取り、後継ぎとして養育します。

そのような経緯なので、直冬自身も複雑な立場にあった中でのことでした。尊氏はさすがに見過ごせず、直冬討伐で京都を離れます。その機に乗じて、直義は京都を逃げ出し、あろうことか吉野の南朝と反尊氏連合を組んで、京都を占領しました。

陣中でこの報せを知った尊氏はショックを受け、数日行方不明になったそうです。尊氏は直義と和睦交渉を行ない、高師直兄弟の出家(間もなく斬首される)を条件に京都に戻りました。

京都は再び静謐になったように見えましたが、今回ばかりは尊氏は容赦しませんでした。観応2年(1351)、直義派を一気に捕まえようと、息子・義詮をはじめ、信頼できる家臣たちと示し合わせて、嘘の名目で兵を集めました。それに気づいた直義は京都から逃亡、再び吉野の南朝を頼ろうとしましたが、すでに尊氏の兵に行く手をふさがれていました。捕縛された直義は鎌倉で幽閉され、後に毒殺されます。

直義派を粛清した後も、南朝側らの襲撃も断続的に続きました。政権の安定を見ないまま、尊氏は延文3年(1358)、57歳で亡くなります。死因は背中の腫物の悪化でした。

おわりに

足利尊氏は確かに合戦には強いですが、かなり情緒不安定なところがあり、自殺未遂も何度かしています。『太平記』などを読むと、討幕も、後醍醐天皇への謀反も、自ら望んだことではなく、結果的にそうなってしまった感がひしひしと伝わってきます。

歴史上の偉人としては珍しく、情けなく人間臭い武将・尊氏。その彼が自ら動いた戦が、長年彼を身近で支えてきた弟・足利直義を討つ戦だったというのも複雑な思いがします。彼と直義が作った幕府は、足利義詮を経て、孫の義満の代で完成するのです。


【主な参考文献】
  • 森茂暁『足利尊氏』(角川選書、2017年)
  • 山家浩樹『足利尊氏と足利直義』(山川出版社、2018年)
  • 清水克之『足利尊氏と関東』(吉川弘文館、2013年)
  • 亀田俊和『観応の擾乱』(中公新書、2017年)

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  この記事を書いた人
桜ぴょん吉 さん
東京大学大学院出身、在野の日本中世史研究者。文化史、特に公家の有職故実や公武関係にくわしい。 公家日記や故実書、絵巻物を見てきたことをいかし、『戦国ヒストリー』では主に室町・戦国期の暮らしや文化に関する項目を担当。 好きな人物は近衛前久。日本美術刀剣保存協会会員。

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