「鉄砲伝来」は教科書で習った種子島伝来説だけじゃなかった!?

従来の種子島伝来説

鉄砲伝来といえば、中学校や高校の教科書にも載っているように、天文12年(1543年)に日本に初めて鉄砲が種子島に伝わったというものであろう。このことは、江戸時代に編纂された『鉄炮記』に記載されている。


『鉄炮記』の内容

それによると、同年の9月に鉄砲が積みこまれた南蛮船が種子島に漂着。船には100人余りの乗客がいたが、言葉が通じなかったため、どこの国で何の船かもわからなかったという。そして乗客の一人である明の儒者・五峯によって、商人たちの南蛮船であることが知らされると、領主の種子島時尭と商人の代表者2人が対談することに…。時尭は彼らが手にする鉄砲に注目して試し撃ちをさせたところ、あまりの威力に驚いて2百両でその鉄砲を2挺買い上げたというのである。


その後、時尭は家臣の篠川小四郎に火薬の調合を学ばせ、刀鍛冶らには鉄砲製造を命じた。こうして翌年に種子島で鉄砲製造が行なわれるようになり、やがて本土へも伝わっていった。ちなみに本土への伝播は以下のように3つのルートがあったという。

  • 河内国の津田監物が時尭の買った2挺の鉄砲のうちの一つを持って紀州に戻り、根来寺に鉄砲と火薬製法が伝授された。
  • 境の豪商である橘屋又三郎が種子島に来て鉄砲製造を学び、のちに境に戻って鉄砲生産を始めた。
  • 種子島の家臣・松下五郎三郎という人物が伊豆におり、関東に伝わる。

このようにして鉄砲は日本中に広まったのである。


種子島説は本当に正しいのか?

ただし、この種子島伝来説は有力であるものの、どこまで真実なのかは確証がない。というのも、この説を裏付ける『鉄炮記』は慶長11年(1606年)に成立しており、鉄砲伝来の年から60年以上も経過している。つまり、一級史料ではないから、すべての内容を信用するワケにもいかないのである。


実際、伝来の時期に関して、ポルトガルやスペインなど外国に残る日本への鉄砲伝来に関する記録が残っているが、その時期は1541~1545年の間というように年代にバラつきがあって『鉄炮記』との整合性がとれていない。
結局、後年の歴史家によって様々な内容の検討がされて、はじめて天文12年(1543年)前後が妥当だとした経緯もある。


こうしたことから鉄砲伝来の研究は現在も進められている。近年の研究では種子島以前説もも唱えられているので、次にそれをみていこう。


種子島以前説

実は種子島以前にも鉄砲が伝来していたのではないかという説もある。


東アジア式火器伝来説

まずは中国や朝鮮の原始的な手銃が伝来していたという説。
火縄銃が種子島に伝来する前からアジアには手銃というものがあり、実際に1400年代にオスマントルコ軍がこの手銃を使用して各地で戦っていた。火縄銃に比べると威力は落ちるものの鉄砲の1つに変わりはない。日本人もこの手銃を知っていた可能性があり、実戦では使われることはなかったが、鍛冶職人は製造技術くらいは知っていたのではないかと考えられる。
だからこそ種子島に火縄銃が伝来してすぐにその模造品を作ることができたのではないだろうか。
種子島以前から手砲を製造していたと考えると納得のいくことも多い。


軍記物に登場する鉄砲の記述

次に、史料としての信憑性は高くないが、軍記物にある鉄砲伝来の記述も見逃せない。

『太平記』には文永11年(1274年)の蒙古来襲のとき、元軍が鉄砲を発砲して日本兵の多くを焼き殺した、とある。また、『北条五代記』によると、種子島以前の永正7年(1510年)に鉄砲を入手したと書かれていて、その16年後には甲斐の武田家も鉄砲を手に入れたとされ、大久保忠教の『三河物語』には享禄3年(1530年)に徳川家康の祖父である松平清康が鉄砲を使用した旨が記されている。


結局のところ、鉄砲伝来が種子島のときか、それ以前なのかは定かでない。ただ、近年の研究の流れからは種子島以前に別ルートで伝来した可能性も十分に考えられるだろう。


鉄砲の国内での普及過程は?

いずれの説にせよ、鉄砲が伝来されるとまもなく日本全土に急速に広まった。天文13年(1544年)正月には、種子島氏から薩摩の島津家に贈られた銃が、将軍足利義晴に献上されたといい、まもなく細川晴元が鍛冶に種子島銃の試作を命じたという。
ただし、合戦で普及したのはかなり後のこととみられる。実戦ではじめて使われたのは定かでないが、不発や暴発が多くて最初は実用的でなかったようだ。


山科言継の『言継卿記』には、天文19年(1550年)中尾城の戦いで三好長虎の与力が足利義輝軍の鉄砲によって倒されたという記録がある。島津軍では天文23年(1554年)に岩剣城を攻めた際、家臣の伊集院忠朗の進言により、初めて鉄砲を実戦に投入して本格的に使用したといい、中国の毛利元就は永禄末年頃にようやく鉄砲の存在に注目しはじめたとされる。


鉄砲を主力兵器として使ったのは織田信長である。信長が天文22年(1553年)に美濃の斉藤道三と面会したとき、弓隊と鉄砲隊を合わせて500挺を一緒に連れて行ったというエピソードは有名。その22年後の天正3年(1575年)に武田勝頼と長篠の戦いで戦ったときには鉄砲隊3000挺が導入されたという。


このとき信長は3つのグループで順番にシフトさせていくという「三段撃ち」を発案して、それを実戦して当時最強を誇った武田勝頼の騎馬隊を見事に打ち破って信長軍の圧勝で終わった。この戦いで鉄砲隊が実戦でも十分に用いることができると広く知られるようになったのである。

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  この記事を書いた人
戦ヒス編集部 さん
戦国ヒストリーの編集部アカウントです。編集部でも記事の企画・執筆を行なっています。

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