「後醍醐天皇」不屈の精神で超アクティブだった!?逆境を克服した天皇の生きざまとは

桜ぴょん吉
 2023/06/07
後醍醐天皇の肖像(清浄光寺蔵、出典:wikipedia)
後醍醐天皇の肖像(清浄光寺蔵、出典:wikipedia)
日本史はあんまり… という方でも、学生のときに日本史の授業で登場している「後醍醐天皇(ごだいご てんのう)」を知らない方はほぼいないでしょう。

”天皇” と聞くと物静かな人物を想像するかもしれませんが、後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒し、室町幕府と戦った超アクティブな天皇です。しかも、何度も島流しや幽閉の憂き目に遭いつつも、そこから脱出して再度挙兵するという活躍ぶり。

日本史のすべての時代を見渡しても、ここまで不屈の闘志を持つ人はなかなかいません。今回はそんな個性的でアグレッシブな後醍醐天皇の生涯にフォーカスしたいと思います。

なお、後醍醐天皇の表記は在位中か否かを問わず全て「後醍醐天皇」とします。他の人名も分かりやすくするため、最も有名な名で統一しています。

鎌倉幕府に左右されていた皇室

後醍醐天皇は正応元年(1288)11月2日に生まれました。父は後宇田上皇、母は後宇田天皇の女官・五辻忠子です。諱は尊治(たかはる)。異母兄に邦治親王(後二条天皇)、同母兄弟に姉1人、弟2人がいます。

後醍醐天皇が生まれた当時、皇室は今では考えられない状況にありました。実は皇位継承のトラブルで天皇家が2つに分裂し、それぞれから天皇を交互に出していたのです。すなわち、後深草天皇から亀山天皇(弟)へ、そして伏見天皇(後深草の息子)から後宇多天皇(亀山の息子)というように、後深草天皇の子孫(持明院統)と亀山天皇の子孫(大覚寺統)が交互に即位していました。

※参考:持明院統と大覚寺統の略系図
※参考:持明院統と大覚寺統の略系図

そのようになった理由は、鎌倉幕府が皇位継承のトラブルに際し、「それぞれが交互に即位したらいいんじゃね?」と言ったから。加えて、鎌倉幕府は皇太子の人事にも関与していました。

当時の天皇位は終身のものではなく、数年で譲位し上皇として実権を握る方法が好まれていたため、「天皇になること」は通過点のようなものでした。しかし、幕府が関与し、自分が意図する人に皇位を直接譲れない状況は、天皇家としても不満だったようです。

そうした中、後醍醐天皇の兄・後二条天皇が即位するものの、徳治3年(1308)に23歳で亡くなります。皇子として邦良親王がいましたが、病弱のため皇太子とするには心配だとして、とりあえずは後醍醐天皇が、花園天皇の皇太子となりました。

父の後宇多上皇は、後醍醐は邦良親王の中継ぎだとして、「親王が成長し体調が安定したら、ただちに親王に皇位を譲らせる」と、鎌倉幕府に申し送りをしていました。そして後醍醐天皇は、文保2年(1318)2月26日、花園天皇から譲位されて天皇となるのです。

三度目の正直!執念で討幕を果たす

後醍醐天皇はとても真面目で熱心な人でした。自らの政治で世の乱れを正そうと、日夜学問に励んでいましたし、実務の才能もありました。当初は父・後宇多上皇が院政を行っていたものの、父が密教にハマり政治を放置すると、後醍醐はすぐに実務を巻き取って天皇親政を実施しています。

正中の変

そんなやる気に燃える後醍醐天皇ですが、あくまで「一代の主」。元亨4年(1324)、後宇多上皇が死去したことで、鎌倉幕府は申し合わせの通りに後醍醐を上皇とし、邦良親王を天皇にしようと圧力をかけました。後醍醐天皇はそのやり方が君臣の在り方に反するとして、討幕に向けて水面下で動きはじめます。

この最初の討幕計画は「正中の変」と呼ばれます。正中元年(1324)、討幕計画が鎌倉幕府に漏れ、後醍醐天皇が詰められる事件が起きました。このときは側近・日野資朝が罪をかぶり、後醍醐天皇はお咎めなしになりました。

元弘の乱

そして正中3年(1326)、皇太子・邦良親王が病没します。後醍醐天皇は自らの息子を皇太子にしたいと望みましたが、鎌倉幕府は元弘元年(1331)に別の皇子を皇太子に指名します。その使者に接した後醍醐天皇は「臣下がなぜ皇位を決める!」と激怒し、三種の神器を持ち出して京都の笠置山に立てこもりました。

これが2回目の討幕計画「元弘の乱」です。

まもなく、鎌倉から足利尊氏率いる幕府軍が攻めてきて、笠置山はあっという間に陥落。後醍醐天皇は捕縛されて天皇位を剥奪の上、隠岐に流されてしまいます。

隠岐といえば、かつて鎌倉幕府に反抗した後鳥羽上皇らが流された土地。これで後醍醐天皇も政治生命を絶たれただろう、と誰もが思いました。

しかし、後醍醐天皇はへこたれません。隠岐にいる際も見張りの兵士を口説いて味方に引き入れ、虎視眈々と再起を狙っていたのでした。元弘3年(1333)、彼は隠岐から脱出し、伯耆国船上山で挙兵したのです。

後醍醐天皇の復活と同時に、「元弘の乱」で後醍醐天皇に味方した楠木正成や、息子の護良親王らが再び蜂起し、各地で反・幕府の軍事活動を扇動しました。 鎌倉幕府は慌てて追討軍を派遣します。大将は今度も足利尊氏。ですが尊氏は途中で「俺は後醍醐方につく!」と言って京都を襲います。同時期に関東では新田義貞が「俺も後醍醐天皇に味方するぞ!」と鎌倉を襲撃して北条高時を自害に追い込みました。

元弘3年(1333)、鎌倉幕府は滅亡します。後醍醐天皇の執念の反乱は、9年の月日を経て、彼に勝利をもたらしました。後醍醐天皇45歳の時のことでした。

建武の新政、理想と現実

鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇は、自らの理想の政治を行うべく、新しい政治体制を敷きます。これがいわゆる「建武の新政」で、元弘3年(1333)6月~建武3年(1336)12月頃までの約3年続きました。

彼の理想は、簡単に言えば「全部俺(天皇)が決める!」です。鎌倉時代は執権・北条氏が全て牛耳っており、摂関政治のときは天皇の祖父である老政治家が絶大な権力を持っていました。そうではなく、天皇がきちんと決定権を持っている状態が理想だとして、後醍醐天皇は中央集権的な制度を作ってゆきました。

まず、後醍醐天皇自ら国家儀礼を整備します。その書は『建武年中行事』として現在も残っています。そして、土地の権利証文を一本化します。今まで将軍などが発行していた所領安堵の文書は、後醍醐天皇自身が発行したもの以外無効としました。

サポート機関として、所領や年貢関係の裁判にあたる「雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)」、警察機構として「武者所(むしゃどころ)」を置きました。

また奥州と鎌倉は遠方のため、出張所である「将軍府(しょうぐんふ)」を置き、奥州には義良親王と北畠顕家、鎌倉には成良親王と足利直義を派遣しました。このように、後醍醐天皇は精力的に政治に取り組みました。

確かに後醍醐天皇は有能でした。しかし、わずかな計画違いから、彼の理想は破綻しはじめます。

まず、後醍醐天皇が全ての所領安堵をし直すという計画は早々に失敗します。新たな安堵状を貰おうとした全国の権利者が京都に押し寄せ、大変な騒ぎになりました。さすがに処理しきれなくなり、結局対象者を「鎌倉幕府滅亡以降、北条氏の旧領を貰った人のみ」と限定せざるを得ませんでした。

同様に、雑訴決断所もまた規模に対して処理すべき案件が多すぎて、なかなか裁判が回らない状態に。しかも裁判が公家有利になるため、地方の武士たちに不満が溜まりました。当時の混乱ぶりは、「二条河原落書」で「此頃都にはやる物、夜討・強盗・謀(にせ)綸旨」などと滑稽に批判されるほどでした。

更に後醍醐天皇は、建武元年(1334)に権威誇示を目的とした内裏改築を計画し、経費を全国に負担させます。実際に負担をするのは、土地を耕作している庶民や、新政で不利を被っている地方の武士たちです。彼らの不平不満は、やがて「また幕府ができたらいいのに…」という希望になりました。その希望の星こそ、足利尊氏です。

信頼する尊氏との戦い

後醍醐天皇は足利尊氏を信頼し、諱の一文字「尊」を与えるほど厚遇しました。一方で、尊氏の側近・高師直や、弟・足利直義などは、新政で要職に就きながらも、全国的な反・新政の雰囲気を察知していたと思われます。

建武2年(1335)、鎌倉幕府執権・北条氏の残党が関東で蜂起し、鎌倉将軍府を襲います。弟・足利直義の危機に際し、京都の足利尊氏は後醍醐天皇に無断で出陣、4万の大軍を率いてあっという間に反乱を平定します。

その後、尊氏・直義は鎌倉にとどまり、ついて来た家来たちに対し勝手に所領安堵状を発行したのです。建武の新政では、所領安堵は基本的に後醍醐天皇が与える物です。この行為を知った後醍醐天皇は激怒し、彼らを反乱軍として新田義貞と北畠親房に討伐を命令しました。

しかし、尊氏は戦に強い男です。反乱軍を逆に追い返し、最終的に尊氏が京都を武力制圧しました。後醍醐天皇は比叡山延暦寺に逃げていましたが、既に楠木正成は戦死し、他の重臣たちも次々に討たれます。新田義貞は後醍醐天皇とともに延暦寺に居たものの、決定的な勝利をおさめるに至らず、むしろ足利直義の兵糧攻めでじわじわと不利に追い込まれます。最終的に尊氏方との和睦を決意した後醍醐天皇は、比叡山を下り、尊氏に三種の神器を引き渡しました。その後、彼は京都花山院に幽閉されます。

これで後醍醐天皇も政治生命を絶たれただろう、と誰もが思いました。しかし、後醍醐天皇はへこたれません。何と建武3年(1336)12月に花山院を脱出し、大和国吉野で「正式な天皇は俺だ!」と主張したのです。尊氏に渡した三種の神器は偽物で、本物は後醍醐天皇の手元にあると言うのです。

こうして、天皇家は再び2派に分裂しました。南北朝時代の開始です。足利尊氏が擁立している側を「北朝」、吉野にいる後醍醐天皇側の流れを「南朝」と言います。

後醍醐天皇は皇子を各地に派遣して戦わせました。ただ、往時の勢いはなく、尊氏軍に各個撃破される状況です。また、後醍醐天皇とともに吉野へ行った公家も少なく、天皇は孤独を深めました。この頃の和歌に「事問はん人さへ稀になりにけり 我世の末の程そ知らるる」という歌が残っています。

延元4年(1339)、後醍醐天皇は義良親王(後村上天皇)に皇位を譲り、その年に亡くなりました。51歳です。

死に際し、「玉骨はたとひ南山の苔に埋まるといへども、魂魄は常に北闕の天を臨まん」と、たとえ骨は都の南・吉野の山に埋まっても、魂は常に京都に在るという強い思いを遺しています。後醍醐天皇は、右手に剣を、左手に法華経を持ち、座ったまま亡くなったそうで、その姿のまま埋葬されたそうです。

陵墓は奈良県吉野町にあります。

コラム:後醍醐という名

後醍醐天皇は、生前に「後醍醐天皇」と呼ばれることはありません。「〇〇天皇」の「〇〇」部分は諡号(しごう)と呼び、死後に贈られる部分であるからです。存命中は例えば「今上天皇」や「主上」などとして史料に登場します。

一般的には、天皇が自らの諡号を知ることはありません。しかし後醍醐天皇は、諡号を「後醍醐」にするよう強い希望を遺していました。なぜ「後醍醐」という名にこだわったかと言えば、平安時代の明君・醍醐天皇に憧れていたからだと言われています。醍醐天皇は菅原道真や藤原時平など有能な人物を登用して政治を行い、34年にわたって善政を敷いたことで有名でした。後醍醐天皇も彼に倣って、天皇親政のもと善政を行おうとし、「第二の醍醐」ならぬ「後醍醐」という名を希望しました。

ちなみに、醍醐天皇の息子は村上天皇で、彼もまた善政を行ったことで知られていました。そのため後醍醐天皇は、自分の息子の諡号も「後村上」にするよう命じていました。

ちなみに、後醍醐天皇のような波乱万丈の人生だった天皇は、鎮魂の意味も込めて諡号に「徳」の字を使うことが通例でした(保元の乱で敗れて隠岐に流された崇徳天皇、平家とともに壇ノ浦で入水自殺した安徳天皇など)。ただ、後醍醐天皇があまりにこだわりを見せていたため、遺志を尊重して彼に「後醍醐」、次代に「後村上」と諡号したそうです。

おわりに

絶対に権力を持てない立場に生まれた後醍醐天皇ですが、不屈の闘志で逆境を次々と克服し、一時期は自らの理想である政治体制を実現させました。結果として足利尊氏に敗れ、捲土重来は果たせなかったものの、何度くじけても負けない強い精神力は、潔さを美徳とする日本において稀有な存在でしょう。

彼が樹立した南朝は、この後も度々室町幕府を苦しめました。最終的には足利義満の登場によって、皇統は再び統一されます。


【主な参考文献】
  • 兵藤裕己『後醍醐天皇』(岩波新書、2018年)
  • 森茂暁『建武政権』(講談社学術文庫、2012年)
  • 呉座勇一編『南朝研究の最前線』(洋泉社、2016年)

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  この記事を書いた人
桜ぴょん吉 さん
東京大学大学院出身、在野の日本中世史研究者。文化史、特に公家の有職故実や公武関係にくわしい。 公家日記や故実書、絵巻物を見てきたことをいかし、『戦国ヒストリー』では主に室町・戦国期の暮らしや文化に関する項目を担当。 好きな人物は近衛前久。日本美術刀剣保存協会会員。

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