歴代総理の1人「山本権兵衛」は ”日本海軍の父” と呼ばれるほど、明治海軍の重要人物だった!

晩年の山本権兵衛の肖像写真(出典:<a href="https://www.ndl.go.jp/portrait/" target="_blank">国立国会図書館「近代日本人の肖像」</a>)
晩年の山本権兵衛の肖像写真(出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」
山本権兵衛(やまもと ごんべえ / ごんのひょうえ)。この名前は、日本近代史を語る上で外せない名前と言っていいでしょう。とはいえ、この名前を聞いて「ああ、あの人か」とすぐピンとくる人は、歴史ファンでもないかぎり、なかなかいないのではないでしょうか。

そもそも「読み方がわからない」という問題があります。これは冗談で言っているワケでなく、本当に彼の名前は「やまもとごんべえ」だという説と「やまもとごんのひょうえ」だという説とが平行しているのです。

名前の問題は後で詳しく触れるとして、まずは山本権兵衛という人物を簡潔に説明すれば以下の2点でしょうか。
  • 日露戦争を描いた映画やドラマで、東郷平八郎の上司としてしばしば登場する、明治海軍の重要人物
  • 大正時代の大汚職事件であるシーメンス事件で、辞職においこまれた総理大臣

特にいわゆる大正デモクラシーを扱った物語の中では後者の立場で登場しますので、「世論によって倒された政治家」という印象のほうがやや強いかもしれません。

ところがこの人物、知られざる前者の功績のほうが遥かに華やかです。もしかしたら東郷平八郎以上の、日露戦争での海軍勝利の立役者なのです。そのあたりの事情に詳しい海軍研究者や軍事専門家からは、「日本海軍の父」とまで絶賛されています。

どういうことなのでしょうか?この稿では、山本権兵衛の日露戦争勝利への貢献度を、その生涯を追いながら浮き彫りにしたいと思います。

名前の読み方の謎

最初に、名前の問題を解決しておきましょう。

一体「ごんべえ」なのか「ごんのひょうえ」なのか。なんとこの問題、山本権兵衛が存命の時から、周囲の人々の間で問題になっていたようです。

ある時、彼の側近が意を決して、「閣下の名前の読み方はけっきょくどちらなのですか?」と聞いたら、「名前などどうでもよい」と怒られてしまったそうで、ますます謎が深まったとか。

この問題への見解ですが、私自身は、「ごんべえ」だったとみなしています。根拠としては、「本人が外交文書にはゴンベエとサインしていた」という証言があります。外交文書への署名ですから、たぶんこちらが本人の意識の中でも、正式名だったのではないかと。

また、いっぽうの「ごんのひょうえ」という読み方については、これが出てくるのは神社で戦勝祈願等の祝詞を上げてもらっていた時である、という証言があります。たしかに、祝詞の中で「ごんべえ」と出てくるのは締まらない印象もあり。神主には格調高い「ごんのひょうえ」と読むようにわざわざ指示していたのではないか、と伺わせるエピソードです。

というわけで、決定打というわけではありませんが、彼の名前については「やまもとごんべえ」と仮説して、以下、彼の生涯についての話もみていきましょう。

薩摩出身の依怙地な軍人として

山本権兵衛は、嘉永5年(1852)、つまりペリー来航の1年前に、現在の鹿児島市に生まれました。

幕末の動乱の時代には、まだ子供、ないし少年時代だったことになります。そんな少年ながらも、薩英戦争の時には弾薬の運搬に駆り出されていたということで、初陣はとても早かったことになります。

明治維新が成ると、山本権兵衛は東京に出て、新設された日本海軍に入りたがりました。まずは西郷隆盛に紹介状を書いてもらい、それを持って、当時の明治海軍を取り仕切っていた勝海舟の元を訪れたそうです。

このとき、理由は不明ながら、勝海舟は山本権兵衛を新説海軍に入隊させることを渋ったそうです。とはいえ、権兵衛は三日連続で勝海舟を訪問し、ついに根を上げさせて海軍に入隊したとか。この際に限らず、山本権兵衛には「一度これと決めたら意地でも」な依怙地さがあったと伝えられます。

この勝海舟との逸話も、まさにそんな彼の性格を窺わせますね。その依怙地さで、たいへんな偉業を成し遂げることもあれば、他人と衝突を起こしてしまうことも多々あったそうなのですが。

西郷隆盛を追って帰郷した際のエピソード

彼の人生のひとつの転換点となったのは、明治10年(1877)の西南戦争の直前のことでした。

西郷隆盛が新政府の方針に反対し、職をなげうって故郷の薩摩に帰ってしまうと、それを追ってたくさんの薩摩出身の若者が、東京から薩摩に帰ってしまいます。この時、西郷隆盛を追って帰郷してしまった若者たちの多くが、西南戦争勃発の際には反乱の徒に加わり、戦死することになるのですが…。

この時、山本権兵衛もまた、せっかく入隊した海軍での学業を放棄して、勝手に薩摩に帰郷したことがありました。しかし、面会に応じてくれた西郷隆盛に「お前は日本の未来のために東京で海軍の勉強を続けるべきだ」と説諭され、また東京に戻って上官に詫び、海軍への復帰を赦された、というエピソードがあります。

もし西郷隆盛が山本権兵衛を追い返さなければ、後の「日本海軍の父」の運命は、反乱軍と共に戦死することで途切れてしまっていたかもしれません。そう考えると、この時の西郷隆盛の対応は日本史にとって運命的だったと思います。

もっとも伝えられるところによると、この時の山本権兵衛と西郷隆盛の面会、真夜中の十二時半まで続いたとのことでしたから、さしもの西郷隆盛をもってしても、依怙地者で知られた山本権兵衛を説得するのは一筋縄ではなかったのかもしれません。

異例の抜擢で海軍の事務方に

海軍での日々を送っていた山本権兵衛ですが、西郷隆盛の弟である西郷従道に才能を認められ、その下で若くして異例の昇進を繰り返します。(以下参考)

  • 明治10年(1877):海軍少尉に就く
  • 明治22年(1889):海軍大佐に就く
  • 明治24年(1891):海軍省大臣官房主事(のちの海軍省主事)に就く
  • 明治28年(1895):海軍少将、海軍省軍務局長に就く
  • 明治31年(1898):海軍中将、第二次山県有朋内閣の海軍大臣に就く

やがて彼が配属されたのは、海軍事務局でした。海軍の実戦部隊ではなく、海軍を経営する事務方の幹部としてのキャリアを歩むことになったのです。そしてこのポジションで、今でいう「経営企画」担当としての山本権兵衛の才能が、大きく花開くことになります。

明治10(1877)年、海軍少尉任官当時の山本権兵衛(wikipediaより)
明治10(1877)年、海軍少尉任官当時の山本権兵衛(wikipediaより)

この時代に山本権兵衛が実施したことは、以下のようなことでした。

  • 海軍の要職についているベテランたちの中で、実戦経験の少ないものを一時降格させて、船に乗せて経験を積ませなおした
  • それでも最新の海軍技術について来られない、幕末明治初期の名残で要職についていたオオモノの将軍やベテラン将校あわせて100人を解雇した(つまり大リストラ)
  • 伝統的に「海軍は陸軍の戦略に従う」とされていた原則を見直し、海軍は海軍で独立して戦略戦術を企画運用できるよう、指揮命令系統を変更した

どれも海軍を強力にするうえで多大な意味がありましたが、特に、まだ新設の軍隊において100人もの要職を追い出してしまうというのは、世界の歴史でもなかなか類例をみない、恐るべき改革断行力と言えます。

日露戦争の勝利は権兵衛がお膳立て?

このようにして日本海軍を強靭な組織に作り替えていった山本権兵衛。日露戦争の気運が迫ると、さらに決定的な仕事をします。

ロシア海軍の戦力を分析し、特にロシアの主力艦隊であるバルチック艦隊との対決を想定して、「戦艦六隻・巡洋艦六隻の増強が、最低でも必要」と算出。財政的に弱小だった時代の日本政府を動かして莫大な予算を取り付け、急ピッチに戦艦・巡洋艦の買い占めを行います。

これをもって明治37年(1904)の日露戦争の開戦に間に合わせた、ということも剛腕なのですが、この仕事にはもうひとつ、とても大事な意味がありました。

当時の世界最先端の造船技術をもっていたイギリスに働きかけ、ロシア海軍が購入しようとしていた最新軍艦を、直前で買い取ってしまったり等、ロシアの海軍増強計画を邪魔する意図もあったのです。

このようにして揃えた戦艦や巡洋艦のフルセットが、東郷平八郎の指揮下のもと、日本海海戦でバルチック艦隊を撃破するわけです。武器一式を揃え、かつ、敵には最新の武器が回らないように仕向けていたということで、山本権兵衛こそが日露戦争の海軍勝利の立役者という声が玄人筋からは多々あがるのも、納得感があります。

日露戦争の日本海海戦で連合艦隊旗艦を務めた軍艦「三笠」(wikipediaより)
日露戦争の日本海海戦で連合艦隊旗艦を務めた軍艦「三笠」(wikipediaより)

晩年の苦悩、総理大臣時代

日露戦争が終わった後、山本権兵衛は第一線からは離れ、数年にわたって閑職に回ったり皇族の外国視察旅行に随伴したり、悠々とした日々を送ります。おそらく、この頃は本人としても、海軍での仕事にいちおうの目途をつけ、このまま隠居生活に入ることを目指していたのかもしれません。

ですが政局のほうが、日露戦争の功労者である彼の実績を放っておきませんでした。政界再編の動きがあるたびに、一種のダークホースとして「山本に総理大臣をやらせてみるのはどうか?」という声が多々上がるようになっていたのです。

そして大正2年(1913)、第一次世界大戦の暗雲が迫る情勢下で、ついに山本権兵衛は首相に任命されました。ところが、この内閣は翌年には、思わぬ事情で総辞職に追い込まれてしまいます。シーメンス事件です。これはドイツの電機会社シーメンス社から日本海軍が物品を購入する際に、担当の海軍将校が賄賂を受け取っていたことが発覚したというものでした。

山本権兵衛自身が、この贈賄事件に何か関係があったのかは、今でも不明なままです。しかし、山本権兵衛自身が知っていた話かどうかに関わりなく、「海軍出身の総理大臣」の下で起きた海軍の腐敗事件ということで、山本権兵衛の責任を追及する声が激しく世論から沸き上がりました。

政治情勢の不穏化を受けて翌大正3年(1914)、山本権兵衛は総理大臣を辞任。晩年に起きたこの不祥事のせいで、山本権兵衛といえば海軍の立役者というよりも、汚職事件で辞任に追い込まれた総理大臣という印象が強くなってしまったところがあるのは、冒頭にも述べた通りです。

なお、大正12年(1923)、関東大震災の渦中には、再び総理大臣の座に就きますが、震災の復興に忙殺される中、同年12月の虎の門事件(皇太子・摂政宮裕仁親王(のちの昭和天皇)が難波大助から狙撃を受けた暗殺未遂事件)によって引責辞職しています。

おわりに

山本権兵衛の生涯を追ってみると、このように、日本海軍を作り上げて日露戦争の勝利を演出した名経営者としての華やかさと、総理大臣に担ぎ上げられるも不祥事で短命政権に終わってしまった面との、二側面のコントラストが際立っている人物と思います。

ただし、前半生での海軍創設者としての顔は、軍事好き以外にはなかなか知られていない顔ではないかと、ここでは「海軍の父」としての彼の顔に特にフォーカスしてみました。

最後に、山本権兵衛が晩年に総理大臣になった際に言ったとされる言葉をひとつ、紹介しておきましょう。

「私は海軍時代から、とにかく、子分をつくるということを避けてきた」
「そのように自分の子分をつくることを嫌っていた私が、何か野心があって総理大臣になり、手飼いの子分をかわいがっているように批判されているのは心外である」

確かに、山本権兵衛は、どちらかといえば孤立を恐れずにどんどん改革を断行する独立独歩タイプの人物に見えます。上述の言葉は、シーメンス事件に対しての言い訳のようにも見えますが、「そもそも派閥やら政争やらがうるさい政治家の世界に入りたくなかった」という気持ちが、もしかしたら隠れているのでは、とも解釈できる言葉です。

山本権兵衛という、世間の評価が大きく分かれてしまった人物の「本音」に迫れるかもしれない言葉ではないかと思い、最後に紹介させていただきました。


【主な参考文献】
  • 『機密日露戦史』(谷寿夫、原書房、2004年)
  • 『山本権兵衛と海軍』(海軍省編、原書房、1966年)
  • 『海軍の父 山本権兵衛』(生出寿、光人社、1994年)
  • 『海軍経営者山本権兵衛』(千早正隆、プレジデント社、2009年)

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  この記事を書いた人
瀬戸内ざむらい さん
現在は完全な東京人ですが、先祖を辿ると、いちおう、幕末の時に「やられた」側の、瀬戸内地方の某藩の藩士(ただし私自身は薩長土肥の皆様に何の恨みもありません!先祖の気持ちは不明ですが)。出自上、明治時代以降の近現代史に深い関心を持っております。WEBライターとして歴史系サイトに寄稿多数。近現代史の他、中 ...

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