「米内光正」海軍大臣、総理大臣(第37代)を歴任 日本に平和をもたらした無為自然の境地
- 2024/06/11
陸軍では、陸軍大臣の阿南惟畿大将が内部の暴走を抑えるために必死だったのに、海軍では何故そんな必要はなかったのか? それは実は海軍の中に「実質的に海軍を掌握している人物」の存在があったからなのです。そして、その人物とは米内海軍大臣、その人でした。
米内光正(よない みつまさ)氏は海軍大臣を何回もやらされ、挙句の果てに総理大臣までやらされるという目に会うのですが、何故、そんなことになってしまったのでしょうか? その理由こそが「海軍善玉論」の大きな根拠となっています。つまり、米内光正氏という人物を知ることが当時の海軍を知ることなのです。
あまり有名とは言えない米内氏ですが、歴代総理の一人(第37代)として、その名を連ねています。彼の果たした役割もまた、鈴木総理や阿南陸軍大臣と同じ位に日本にとって重要なものでした。今回はそんな米内光正氏の人物像に迫っていきます。
幼少期から海軍兵学校に入るまで
米内光正氏は1880年(明治13年)3月2日に 岩手県盛岡市に生まれました。その後、尋常小学校、小学校、中学校を盛岡の学校で過ごし、18歳で海軍兵学校に入学します。海軍兵学校に入学した米内氏は決して優秀な成績ではなく、周囲からは「グズ正」と呼ばれてしまいます。にも関わらず、教師であった藤田尚徳氏は、米内氏を叱ることはありませんでした。むしろ成績優秀ではない米内氏を庇い、目をかけていたようです。のちに呉鎮守府司令長官・谷口尚真が尋ねた際、藤田氏は迷うことなく答えています。
それなのに何故、「グズ正」と呼ばれるほどに成績不振だったかというと、それは彼の勉強法にありました。当時の兵学校では「とにかく知識を詰め込む」方針で生徒を教えていましたが、米内氏は自分が納得するまで、問題について色々な角度から考え、非常に時間をかけていたからです。このため、米内氏のノートはびっしりと書き込まれ、分厚いものになっていました。1つの問題を自分が納得するまで徹底的に追及していたら、どんどん進んでいく授業についていけません。その結果、成績不振という結果になっていたのです。
それでも教師の藤田氏は米内氏を買っていました。成績など気にせず、自分が納得するまで、とことん問題を追及していく米内氏の姿勢に一目置いていた、といった方が正しいかもしれません。米内氏の成績があまりに悪いために卒業も危ぶまれましたが、藤田教師はあれこれと手を尽くして米内氏を無事に卒業させました。海軍兵学校で藤田尚徳氏を教師に持った米内氏は幸運だった、と言えるでしょう。
海軍での軍歴
何とか海軍兵学校を卒業した米内氏は海軍少尉候補生として任官。1905年(明治38年)には日露戦争に従軍し日本海海戦に参加し、それなりの功績を挙げ功五級金鵄勲章を授与されます。そして32歳にして海軍大学校に進み、3年後に無事に卒業します。ここから57歳までの22年間、米内氏は実に沢山の役職を経験させられることになるのです。以下、ざっと列挙してみましょう。
- 大正4年(1915) ロシア駐在武官
- 大正6年(1917) 佐世保鎮守府参謀
- 大正7年(1918) 4月:海軍軍令部出仕(ロシア出張)、8月:浦塩派遣軍司令部付。
- 大正8年(1919) 9月:海防艦「富士」副長。12月:海軍軍令部参謀。
- 大正9年(1920) 海軍軍令部出仕・欧州出張
- 大正11年(1922) 装甲巡洋艦「春日」艦長。
- 大正12年(1923) 装甲巡洋艦「磐手」艦長。
- 大正13年(1924) 7月:戦艦「扶桑」艦長、11月:戦艦「陸奥」艦長。
- 大正14年(1925) 第二艦隊参謀長。
- 大正15年(1926) 軍令部第三班長。
- 昭和3年(1928) 第一遣外艦隊司令官。
- 昭和5年(1930) 海軍中将に進級・鎮海要港部司令官。
- 昭和7年(1932) 第三艦隊司令長官
- 昭和8年(1933) 9月:軍令部出仕。11月:佐世保鎮守府司令長官に親補される。
- 昭和9年(1934) 第二艦隊司令長官
- 昭和10年(1935) 横須賀鎮守府司令
- 昭和11年(1936) 連合艦隊司令長官 兼 第一艦隊司令長官
これを見ると1年から2年で移動となり、実に色々な職務につかされていることが分かります。米内氏は海軍大学校に入学する前から砲術に長けており、あちこちで砲術に関する教官や責任者も務めています。それも列挙してみましょう。
- 明治40年(1907) 戦艦「新高」砲術長
- 明治41年(1908) 海軍砲術学校教官
- 明治42年(1909) 戦艦「敷島」分隊長
- 明治43年(1910) 戦艦「薩摩」砲術長
- 明治44年(1911) 1月:防護巡洋艦「利根」砲術長、12月:海軍砲術学校教官
1年ごとに場所を変えて砲術を教えまくっていたことが分かります。これだけ頻繁に所属部署を次々と移動させられた海軍軍人というのは、米内光正氏くらいのものではないでしょうか。
しかし、これだけ頻繁に所属部署を移動したとなると、それだけ現場の海軍兵、海軍士官、海軍将官とは、いやでも面識が多くなります。ましてや最後には連合艦隊の司令長官まで務めていますので、海軍内で米内光正氏を知らぬ者はいない、といっても良いでしょう。
実際、米内光正という人物と触れ合う機会があったであろう海軍軍人は、それこそ「ほぼ全員」と言っても良い位だったのではないでしょうか。尉官、佐官、将官ともなれば、いやでもどこかで米内氏と一緒に軍務についた経験を持っていたのです。
政治の世界へ 海軍大臣、総理大臣に担がれる
リーダーの資質というのは、西洋と東洋では異なります。西洋におけるリーダーとは「強く、屈せず、危険をものともせず、むしろ自分が進んでリスクを引き受けるような人物」がリーダーシップを取ることができます。しかし東洋では西郷隆盛に代表されるように、人物の大きさ、度量の広さ、無私無欲、など、人物的な魅力に優れている人物がリーダーシップを取ることが多いのです。
そして米内光正氏は典型的な東洋型のリーダーシップを備えている人でした。中国文学者の守屋洋氏は「老子」を解説した著書の中で米内氏の名前を挙げ、
「暗愚に見えて実は智を内に秘めている。しかし智を表面に見せずあくまで暗愚に装う」
「熟慮や智謀を超越し、その果てに達した無為自然の境地を持った人物」
と、東洋的リーダーの典型であると評しています。
米内氏と一緒に軍務を経験した人は、皆、米内光正という人物の大きさと、その魅力に圧倒されてしまうのです。そうなると海軍の代表である海軍大臣は「米内さんしかいない!」となります。
こうして米内氏は昭和11年(1936)の連合艦隊司令長官の次のキャリアとして、海軍大臣を任されます。昭和12年(1937)2月2日に発足した林銑十郎内閣で初の海軍大臣を勤め、続く第1次近衛文麿内閣、平沼騏一郎内閣でも留任、昭和14年(1939)8月30日まで海軍大臣を務めました。
そして平沼内閣が総辞職して ”やれやれ” と思っていたであろう昭和15年(1940)1月。今度は昭和天皇から大命が下り、驚くことに内閣総理大臣を任されることになってしまうのです。
先代の阿部信行総理大臣は陸軍出身の軍人でしたが、その阿部内閣はわずか4か月半しか持ちませんでした。米内氏が海軍の良識派として知られ、その温厚な人柄とも相まって人望が厚かったとはいえ、天皇陛下が自ら候補者を指名するというのは異例のことでした。
しかし米内氏は親英米派であり、日独伊三国同盟反対論者だったことと、当時、支配力を強めていた陸軍が海軍出身の総理大臣に反発したこともあり、米内内閣は最初から倒閣運動に晒されることになります。しかも折悪く、当時はドイツ軍が優勢でフランスを降伏させ、パリを支配していた時期でもあり、枢軸国側が勢いを持っていた時でした。
陸軍首脳部は「陸軍の総意」として陸軍大臣に辞職勧告を行い、畑俊六陸軍大臣はこれを受け入れて辞職。米内総理は陸軍に後任の大臣を求めましたが、これを拒否されたため、内閣は半年で総辞職となりました。
別になりたくて総理大臣になった訳ではない米内氏は、ある意味「やっと解放された」という安堵感も覚えたようです。
またも海軍大臣
しかし戦況は日を追うごとに悪化していき、もはや日本の敗戦を避けられないという状況になってきた昭和19年(1944)の小磯國昭内閣において、またも海軍大臣をやらさることになりました。 「勝てない戦争など早く止めるべきだ」と終戦を主張する米内氏は、強硬論を主張する陸軍大臣と真っ向から争いますが、閣議での論争とは関係なく状況はどんどん悪化していき、昭和天皇は憂慮されます。そして戦況悪化の責任を取って小磯國昭内閣が総辞職となると、昭和天皇は最後の望みを侍従長である鈴木貫太郎氏に託しました。
これまた「無私無欲の人」である鈴木貫太郎氏は陸軍大臣に盟友である阿南惟畿氏をお願いし、米内氏には留任を求めます。鈴木侍従長が総理大臣を引き受けたのは、ひとえに「戦争を終わらせたい」という昭和天皇のご希望を実現するためでした。
平和論者であり、海軍の全軍的信頼を得ている米内氏に海軍大臣になってもらうのは「終戦にもっていくための必須条件」だったのです。
阿南陸軍大臣との論争
米内氏は既に海軍から全軍的な信頼と尊敬を得ており、海軍内には米内氏を信頼しないものは、ほとんどいませんでした。ですので米内海軍大臣は鈴木内閣でも強硬に和平を主張します。一方、陸軍代表である阿南陸軍大臣も「この内閣が終戦を目的にしたものである」ことは、しっかりと理解していましたが、不本意ながら反論して強硬論を唱えざるを得ませんでした。
というのも、いつ青年将校達がクーデターを起こすか分からないというような状態の陸軍にも、なぜか閣議の内容が筒抜けになっていたからです。下手な事を言えば、青年将校達は何をするか分かりませんでした。つまり、阿南大臣は必死に演技を続けていたということです。
ただ、米内海軍大臣はそんな事情を知らないので、両者は閣議のたびに激しい論争を交わし続けました。
鈴木内閣の真意を悟る
遂に連合国軍側からポツダム宣言が出されました。しかし、それに対する対応を誤った鈴木貫太郎総理は議会で揉めてしまい、それを見ていた米内氏も、さすがに鈴木総理の政治力の無さに「もう海軍大臣は辞めようか」と考え始めます。その気配を察した阿南陸軍大臣は、米内氏の辞意にストップをかけます。
そして阿南陸軍大臣と鈴木首相の真意を知った米内氏は二人の必死の演技に付き合うほかありません。しかし急に態度を変えたら、陸軍の青年将校達に感づかれる恐れがあるので、閣議のたびに阿南大臣と争うことを止めることはありませんでした。
真意を知ってからの米内氏は、鈴木総理を補佐し、アドバイス等もしたようで、鈴木総理も政治力の無さを露呈することはありませんでした。いかに米内氏の補佐が効果的であったかが伺われます。
遂に終戦
鈴木貫太郎総理と阿南惟畿陸軍大臣のシナリオに沿って「陛下によるご聖断」により終戦が決まるまで、米内氏は二人の必死の演技に付き合い続けました。そして、やっとご聖断が下り、昭和20年(1945)8月15日の玉音放送を迎えます。玉音放送を聞き終えた米内氏は「よかった」と言い、横にいた豊田総長に握手を求め、大臣室へ引き上げていきました。しかし海軍の中には米内氏の方針に異を唱えるものも少数ながら存在しました。そういった人達が大臣室に来ると、米内氏は「すでにご聖断が下った以上、絶対であって、いかなる困難があっても思し召しにそうよう努力すべきである」と強い口調で延べ、退けてしまいました。
阿南陸軍大臣は陸軍全軍に「ポツダム宣言を受諾せよ」との意思を表明するため、玉音放送の日に自決しましたが、もちろん、米内氏はそれに習うことはしませんでした。むしろ「陛下をお一人にはできない」と生き残る決意をし、その後の東久邇宮内閣、幣原喜重郎内閣でも海軍大臣を務め、日本海軍の後始末を行います。
結局、米内氏は海軍大臣を7回もやる、という記録を残してしまうのですが、全ては米内光正という人物の優れた人格と魅力がなせる結果でした。
酒が非常に強く、「酒が米内か、米内が酒か」と言われるほどの酒豪で、料亭などで飲む際には二升・三升は当たり前という米内氏でしたが、さすがにそんなに飲んだら体を壊してしまいます。いつの間にか高血圧に陥っており、気づいた時には、もはや対処不可能なレベルだったそうです。
最後は肺炎に命を奪われました。享年68歳、終戦から3年目の4月20日のことでした。
おわりに
米内氏の良識ある見識と行動は、歴史家に「海軍は良識的である」というイメージを残す結果となりました。それは現在の自衛隊にも引き継がれており、海上自衛隊は自由に「言いたいことが言える」のですが、陸上自衛隊は太平洋戦争での前科の意識からか「自分たちの意見はなるべく控えめにする」という自虐的な雰囲気を残すことになったのです。これまで太平洋戦争における海軍の思想関係はあまり語られることがありませんでした。それは実は「語るべきものがない」からなのです。そして、それは米内光正という一人の傑出した人物がいてくれたからなのです。
【主な参考文献】
- 前坂俊之『ドキュメント 日本帝国最後の日』「米内海相、不退転の平和説得」(新人物往来社、1995年)
- 中山定義『一海軍士官の回想―開戦前夜から終戦まで―』(毎日新聞社、1981年)
- 緒方竹虎『一軍人の生涯 提督・米内光政』(光和堂、1983年)
- 守屋洋『老荘入門 逆境を乗り切る本』(徳間書店、1975年)
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