「安達景盛」頼家に妻を取られて憤慨!安達氏発展の基礎を築いた豪腕政治家
- 2022/10/13
源頼朝の流人時代からの側近として有名な「藤九郎盛長」こと安達盛長。彼を祖とする安達氏の当主は、代々「城介」を名乗りました。この城介に最初に任じられ、安達氏発展の基礎を築いたのが、盛長の息子・安達景盛(あだち かげもり)です。
同時期の御家人らと比べて地味な印象のある景盛ですが、源氏(将軍)と北条氏の両方と緊密な関係を築いていました。特に北条氏にとって、景盛をはじめとした安達氏は、最大の協力者ともいえます。
同時期の御家人らと比べて地味な印象のある景盛ですが、源氏(将軍)と北条氏の両方と緊密な関係を築いていました。特に北条氏にとって、景盛をはじめとした安達氏は、最大の協力者ともいえます。
出生と青年期
安達盛長の長子として誕生
景盛は安達盛長の長男として誕生します。生年は不明ですが、母は比企尼の娘・丹後内侍とされています。丹後内侍は、昔京都で二条院に仕えていたこともある女性で、関東に下向後、盛長の妻となりました。また、その母・比企尼は頼朝の乳母(めのと、養育係のこと)で、流人生活を送る頼朝を支えた人物です。そのため、父・盛長は比企氏との婚姻関係をきっかけに、頼朝に仕えるようになったと考えられています。
父・盛長について
最古参の御家人として有名な盛長ですが、実は謎の多い人物です。盛長は京都の政界と通じており、貴族とのコネも多分に持っていたようで、京都の情報を頼朝に伝える橋渡し役にもなっていました。しかしその一方、最後まで無位無官のままでした。出自については諸説ありますが、上記のような京との関係を踏まえれば、しかるべき官途に就いていてもおかしくありません。
頼家とのトラブル
話を景盛に戻します。若いころの景盛にまつわるエピソードで有名なものは、妻を将軍・頼家に奪われたあげく、殺されそうになったことでしょう。頼朝が死に、その跡を継いだ頼家には気になる女性がいました。その女性は京下りの人物で景盛の妻(大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では「ゆう」という名前)でした。頼家は何度も手を出そうとしていたものの、彼女は全くなびかなかったといいます。
建久10(1199)年8月、情動が抑えきれなくなった頼家は、景盛が鎌倉を留守にした隙を突き、彼女を御所内に拉致してしまいます。
景盛が鎌倉に戻った数日後、頼家の耳には「景盛が頼家に恨みを抱いている」という情報が入ります。景盛の憤りはもっともですが、それを聞いた頼家はなんと景盛の暗殺を企てます。あわや大惨事となるところでしたが、機転を利かせた政子がこれに介入、両者の間を取り持ったことで、この一件は無事収まりました。しかし、頼家の景盛に対する恨みは深く、後に頼家が伊豆・修善寺に幽閉された際にも、政子に対し景盛の処罰を要求するほどでした。
安達氏と北条氏
盛長と頼朝のように、安達氏は将軍と緊密な関係にありましたが、一方で北条氏とも深い関係を築いていました。盛長と景盛は共に政子からの信頼厚く、後に執権となる義時・泰時親子とも良好な関係だったようです。事実景盛の娘は泰時の子・時氏の妻となり、後に執権となる経時・時頼の2人を産んでいます。頼家とのトラブルの際に政子が助け舟を出してくれたのも、北条氏からの信頼の顕れなのかもしれません。頼家とは溝があった景盛も、その弟・実朝からは厚い信頼を置かれていました。
鎌倉幕府の主要御家人として活躍
有能ぶりを発揮しはじめる景盛
実朝の代になると、景盛は幕府内の有力者として活躍の場を広げます。実朝の鶴岡八幡宮参拝への伺候、出先での宴の準備、御所修繕の手配など、各方面でその有能ぶりを発揮しました。また、建暦3(1213)年に勃発した和田合戦には義時勢として参戦し、同年の北条時政追放、宇都宮頼綱の謀反疑惑を評議する席にも、義時と共に名を連ねています。有力御家人が次々と失脚する中、景盛は将軍や北条氏と手を携え、幕府内での存在感を増していきました。
秋田城介任官
景盛は幕政において着実に業績を上げ続けました。実朝との関係も、盛長と頼朝のように良好でした。それもあってか、建保6(1218)年に実朝が右近衛少将に任じられると、景盛は秋田城介(あきたじょうのすけ)に任じられます。秋田城介は出羽国守の次官で、国府が秋田城にあったことに由来します。『吾妻鏡』には、長らく空白になっていたこの職に景盛が任じられたのは大変名誉なことだと記されています。
当時それなりの官職を得るには、実力はもちろん朝廷に口利きをするための人脈も必要でした。景盛周辺の人物の、京との繋がりがうかがえます。
秋田城介の任官以降、景盛は元々基盤としていた武蔵に加え、上野や出羽方面にも基盤を拡大しました。また、以降の安達氏当主はこの職に由来する「城介」を名乗るようになります。
実朝の暗殺と承久の乱
建保7(1219年)年正月、実朝が甥の公暁により暗殺されるという衝撃的な事件が発生します。この事件は幕府外にも大きな影響を与え、徐々に幕府への不信感を増した後鳥羽上皇はついに討幕の兵を挙げます(承久の乱)。幕府と朝廷のどちらに付くか悩む御家人らを前に、政子は「頼朝の御恩」を説いて幕府からの離反を防ぎ、結果戦いは幕府方の勝利で終結します。これは「政子の演説」として有名ですが、御家人らに政子の言葉を伝えたのは実は景盛なのです。
『吾妻鏡』によれば、後鳥羽の挙兵を知った政子は御家人らを御簾の前に招き、景盛を通してその意を伝えたといいます。政子の信頼厚く、その意を的確に代弁できる景盛だからこその抜擢だったのでしょう。
出家と高野山入り
出家
景盛は承久3(1221)年頃にはすでに出家しており、やがて高野山へと入って実朝の菩提を弔うため、金剛三昧院を建立しました。これには政子の後援もあったようです。景盛と高野山との関係は、彼が鎌倉にいたころからあったようで、高野山と他所の寺院間でトラブルが生じた際には、その解決に景盛が関与したこともあったとか。高野山側からしても、幕府の有力者である景盛の存在は心強いものだったと考えられます。
高野山にいながら幕政へ関与
大蓮房覚智と名乗り、高野入道と称された景盛は本格的な密教僧となり、次第に僧としても高野山を代表する1人として認識されるようになります。一方で高野山にいながら幕政への関与は続けていました。上述したように、執権となった泰時とは緊密な関係で、時折幕府からの諮問にも応じていたといいます。
僧としても政治家としても依然頼りがいのある存在であった景盛。自らの娘が生んだ泰時の子、経時・時頼が共に執権になっていたこともあり、幕府内での権威が衰えることはありませんでした。
宝治合戦と最後
高野山にいた景盛でしたが、宝治元(1247)年に急に鎌倉の時頼邸へとやってきます。このとき幕府では、執権時頼と有力御家人三浦氏の対立が激化していました。事態の行方を気にしての下向でしょう。この機に政敵を排除したい景盛は、三浦氏打倒を強烈に主張しますが、事態を穏便に済ませたい時頼は消極的でした。業を煮やした景盛は、時頼を支える息子の義景、孫の泰盛の不甲斐なさを叱りつけたといいます。半ば八つ当たりです。
景盛の檄が効いたのか、結局この政争は武力衝突にまで発展し、三浦氏は排除されました(宝治合戦)。望み通り政敵の排除に成功し、息子たちの政権の安定を見届けた景盛は翌年5月に没します。
【主な参考文献】
- 福島金治『安達泰盛と鎌倉幕府 霜月騒動とその周辺』(有隣新書、2006年)
- 高橋慎一朗『北条時頼』(吉川弘文館、2013年)
- 野口実編著『図説 鎌倉北条氏 鎌倉幕府を主導した一族の全歴史』(戎光祥出版、2021年)
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