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徳川軍を翻弄した?「真田の抜け穴」!今も残る秘密の道の謎

「真田の抜け穴」といわれているものは、大阪市内でもいくつか存在します。
一心寺(天王寺区)と三光神社(天王寺区)が有名ですが、その中でも今回は三光神社の「抜け穴」について調べました。

三光神社がある場所は宰相山、または真田山と言われ、かつて「真田丸」が置かれた場所です。

真田丸とは?

大坂冬の陣が勃発した時、真田信繁(幸村)が築いた要塞が「真田丸」。ここは大阪城からみて南の丘陵にあたりますが、ここは地理的に見て大阪城の「弱点」とされていた場所です。

真田軍はそこに砦を築き、様々な罠を仕掛けたり神出鬼没の戦い方をして、「徳川軍を散々翻弄した」と言われています。結局、徳川軍は真田丸を落とすことができず、また他方向からも大阪城を攻略することができなかったため、和睦に持ち込み大阪城の堀を埋めさせた後、大坂夏の陣で豊臣氏を滅亡させたと言われています。

その「真田丸」が置かれた場所・三光神社には「抜け穴」があります。この穴が “真田の抜け穴” といわれ、様々な逸話が残る謎の穴なのです。

抜け穴の構造とその目的とは?

このように、真田丸とは大坂夏の陣に真田信繁(幸村)が築いた要塞であることには間違いがないですが、その場所にある「真田の抜け穴」に関しては、真田信繁が作ったという説と、徳川方(真田丸を攻めていた前田軍)が作ったという説があり、はっきりしたことはわかっていません。

真田信繁が作った説としては、大坂冬の陣の際に地下道を掘り、大阪城との連絡用に使ったというもの、またこの穴を通って敵に攻撃し、また穴に隠れる…という戦法として使ったという説です。

現在、人一人が通れるかどうかという大きさの穴であり、戦いの中で大人数の移動には適していない通路であったと考えられます。また、大阪城まで地下道を掘るには技術と時間が必要であったはずです。当時それが可能だったのか?という点も疑問が残る部分です。

真田の抜け穴の実物を訪れる

実際に、真田の抜け穴とはどんなものでしょうか?
実は三光神社に、「史跡・真田の抜け穴跡」という碑が建てられており、大アピール中。隣には真田信繁像もあり、歴史好きの方が多く訪れる観光スポットになっています。
境内には真田の六文銭をモチーフにしたグッズや御守りも販売されていました。

三光神社があるのは丘陵地帯となっており、神社自体が高台にあります。「抜け穴」は神社の少し横、崖のようになっている丘の斜面にあり、現在では鉄の柵がされています。

そのため入ることはできませんが、実は入ってもすぐ行き止まりになっており、現代では実際に大阪城につながっているわけではなさそうです。

<アクセス>
〒543-0013  大阪府大阪市天王寺区玉造本町14-90 三光神社内
・JR環状線 玉造駅から徒歩5分
・地下鉄長堀鶴見緑地線 2番出口から徒歩2分

三光神社は高台にあり、階段を上った先に見えてきます。
三光神社は高台にあり、階段を上った先に見えてきます。
真田の抜け穴 実物。「史跡」として碑までたっています
真田の抜け穴 実物。「史跡」として碑までたっています

今も残る真田の抜け穴伝説の謎

この「真田の抜け穴」に関しては、真田信繁がつくったというものだけでなく、「この穴を通って信繁と豊臣秀頼が脱出した」という噂まであります。

脱出したのは真田信繁でなくその息子の大助という説や、秀頼とともにその息子の国松も脱出したという説、様々ですが、こういった逸話も「伝説」として広まっています。

果たしてそういった話には信ぴょう性はあるのでしょうか?検証してみました。

大阪府誌

正式な文章である『大阪府誌』(1903)によると、

「大坂城の出城の在りし処にして、慶長元和の大阪合戦の頃(1614・15)真田幸村茲に陣し、本城より此処に至るまで地下に暗道を設けたりなどと言ひ伝へ、今尚其の痕跡の如きものを三光宮鎮座の階下に止むるより、世俗に真田山の三光と称するに至れり。」
という記載があり、この穴は信繁が大坂冬の陣で真田丸を築いた際、地下から大坂城に通じる穴を掘ったものであるという記述が実在します。ただし、この地下道が使用されたことは、当時の確実な史料では裏付けられていません。

わらべうたの流行

当時、

「花のようなる秀頼さまを 鬼のようなる真田がつれて 退(の)きも退いたよ加護島へ」
引用:川口素生著『戦国武将 逸話の謎と真相』
というわらべうたが流行したというものです。

大阪城は徳川方に包囲されていたため通常のルートでの脱出は不可能であるため、もし本当に真田が秀頼を連れ出すことが可能だったとしたら「真田の抜け穴」を使ったことも考えられます。

鹿児島に残る言い伝え

鹿児島には、一子相伝(親から子へ、文章ではなく言い伝えのみで語り継がれていく話)で

「豊臣秀頼と国松と真田大助があらかじめ掘った抜け穴を通って逃げ、島津藩の船で薩摩へ落ち延びたと伝わっている」
引用:前川和彦著『秀頼脱出 豊臣秀頼は九州で生存した』
という伝説が残り、実際に信繁の墓と言われるものが存在しているらしいです。あらかじめ掘った抜け穴 というのがこの「真田の抜け穴」では?と考察する人もいます。

まとめ

このように「真田の抜け穴」には様々な伝説・逸話が残っています。

決定的な事実はありませんが、このような伝説が数多く残る裏には真田信繁や豊臣秀頼にはどこかで生きていてほしいという思いがある人々が多かったことは間違いなさそうです。

「真田の抜け穴」は大阪市内、気軽に訪れることができる場所にあるので、歴史好きの方はぜひ一度訪れて当時に思いをはせてみてはいかがでしょうか。

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  この記事を書いた人
ゆかた さん

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