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徳川家康の人民統治政策が日本にもたらしたもの

一昨年の6月に麻生太郎財務相が「日本で新型コロナウイルスによる死者が欧米より少ない原因」として「国民の民度が違うから」と答弁して物議を醸したことがありました。物議を醸したと言っても、むしろ世論としては、それを肯定する風潮であり、注目はされましたが反対意見はあまり出なかったのは、つまり「その通り」とメディアも感じたからでしょうか。

またアメリカのCNNニュースで阪神大震災が起きた時に「日本では災害時に略奪を行う人がいない」ことが話題になってもいました。アメリカでは災害が起きると、ここぞとばかりに電気店からテレビ等を盗んでいく連中が沢山いるからです。

この違いは何故、起きるのでしょうか? 私達、日本人は学校で何か特別な思想教育でも受けたのでしょうか?少なくとも私には、そんな記憶はありません。

戦国時代の考え方は現代と違うらしい

明智光秀が山崎の合戦に敗れたあと、いわゆる「落ち武者狩り」をしていた百姓の竹槍で殺されたのは、よく知られている話です。つまり戦国時代の百姓は、どさくさに紛れて金目の物を盗むことを何とも思っていなかったらしい、ということです。

こういった行為は「災害に紛れて略奪を行う」のと、ほぼ同じではないでしょうか?そもそも下克上という行為は「主を殺して自分がその地位を奪う」ことです。現代に生きる私達の常識感覚で見た場合、そういう行為は「それはまずいんじゃないか?」と思われないでしょうか?しかし戦国時代には、それが罪悪である、とは全く思われていなかったらしいのです。

一体、私達はいつから、こういった「善悪の概念」を身につけたのでしょうか? それを探ってみたいと思います。

支配者が怖れるものは何か?

どこの国でも、その国の支配者となった人物が怖れるものが、いくつかあります。

1:民衆による反乱
2:敵対する勢力による攻撃
3:体制内部にいる裏切者による反乱

多くの独裁政権者が、これらが発生することを恐れ、いわゆる恐怖政治を行ってきました。要は「俺に逆らったら殺すぞ」という恐怖で支配することにより、上記の問題が発生することを抑え込もうとしたのです。
しかし、結果的に恐怖で支配する政治は逆に敵対者を作り出すことになります。

多くの独裁政権者が民衆の反乱や敵対勢力の国々や軍部という体制内部の存在のクーデターにより滅ぼされてきたのは、ルーマニアのチャウシェスク大統領、イラクのフセイン大統領、リビアのカダフィ大佐等、枚挙にいとまがない位です。

つまり、恐怖で支配する、という方法は決して有効ではないのです。では、どうすれば良いのでしょうか? 

徳川家康という存在

実は日本には、これらの問題に対し、実に巧妙に対処した人物がいるのです。それは徳川家康です。

天下人となり、幕府を開いた家康は徳川家の治世が長く続けられるよう、色々な手を打ちました。家康が鎖国をしたのは海外の、より進んだ文化や武器が、敵対勢力となり得る各藩に渡らないようにするためであったことは、良く知られています。

鎖国することによって日本の情報が外部に漏れないようにし、海外に敵対勢力が発生しないようすることも目的の1つであったようにも思われます。

また、危険性の高い藩の取り潰しは三代家光の時代まで徹底して行われ、排除されます。そうでない藩に対しても参勤交代を始めとする各種の「弱小化政策」が行われたことも、よく知られていることです。

天皇家を中心とする貴族、公家も危険な存在でしたが、これは法度を設けることで抑え込めました。元々、彼らの戦闘能力は高くないので、法度で十分だったのです。

これで上記2の「敵対勢力による攻撃」の危険は、ほぼ除去することが出来ました。残る危険性は、上記1と3ですが、この危険性の排除にも家康は実に巧妙な方法を選んだのです。

家康の危険回避方法その1:価値観の植え付け

「百姓は生かさず殺さずが良きそうろう」という徳川家康の言葉は有名ですが「生かさず、殺さず」とはどういう意味でしょうか?これを「自由にはさぜず、かといって恐怖を与えることもしない」という意味に捉えられないでしょうか?

恐怖を与えなければ敵対心は生まれにくくなります。つまり反乱を抑える効果があるのです。そして自由を与えなければ、さらに反乱を抑える効果は高まります。しかし、どうすればそれが実現できるのでしょうか?

徳川家康が下した判断は「儒学の普及」でした。儒学は孔子を始祖とする儒教の教えを行動規範として体系化したもので東アジアでは非常に広く広まっていたものです。

内容としては「目上の人に失礼があってはならない」「他の人に迷惑をかけてはならない」「親には孝行を尽くさねばならない」という具合に非常に具体的に各種の行為の善悪を規定したものです。つまり儒学というものを武士を含む全国民に浸透させることにより「善悪とはこういうことだ」という価値観を植え付けたのです。

また、それがより効果的になるよう「五人組」という連帯責任制度を作り、「自分が悪いことをすると他の人に迷惑がかかる」という具体的な状況設定を行い、教え込んだ価値観の有効性を高め、より深く信じ込ませる施策も行いました。

この施策は武士に対しても徹底して行われました。「君に忠」「親に孝」が善であると信じ込ませれば、裏切者が出て来る可能性はほとんど無くなります。林羅山を中心とする儒学者が色々な場面で「どちらが善で、どちらが悪か」を判定し、悪とされた方が処罰されました。そういった場面を何度も見せられれば、いやでも儒学の価値観を受け入れざるを得ません。

こうして武士にも儒学の価値観を浸透させていったのです。また、武士に対しては儒学による「恩恵」も与えられました。それは「身分制度の徹底」という恩恵です。

家康の危険回避方法その2:身分制度の確立と徹底

江戸時代に士農工商という身分制度があったことは有名です。ですが、士農工商は実質的に「武士は一番偉い存在」であることを示すもので農工商は「おまけ」でした。身分制度を徹底し武士階級を一般民衆の上に置けば、「目上の存在」とする事が出来、「一目置かれる存在」とすることが出来たのです。

武士にしてみれば、これは気持ちの良い物であることは間違いありません。いわば「ムチと飴」の飴です。こうしておけば武士にも儒学の教えが、より受け入れやすくなるのは当然のことでした。

また、武士には「切り捨て御免」という、武士に対し失礼なことをした町民や百姓を切り捨てても構わないという特権を与えました。「切り捨て御免」は名ばかりで実際にはあまり行われなかったとも言われますが、江戸時代の町民にとって武士は、やはり相当に怖い存在であったようです。

「八笑人」という戯作では、間違って武士に失礼なことをしてしまった町民が泣いて謝る、という場面が出てきます。また井原西鶴の物語にも商店の小僧に間違って打ち水をかけられた町民が「私だからよかったようなものの、お武家様だったら大変なことになるところだったのだぞ」と小僧を叱る場面が出てきます。

こうして「武士は目上であり怖い存在」という社会的な認識が確立していったのです。

これで、当初に述べた「支配者が怖れるもの」の1と3が起こる可能性は、ほとんど無くなったのです。しかし家康は慎重でした。武士を目上とすることで百姓、町民にストレスが貯まることが無いように、町民、百姓の下に更に「エタ、非人」という階級をもうけて百姓、町民が一番下という訳ではないのだぞ、という形にしたのです。この「エタ、非人」という階級を設けたことが、後の部落差別問題につながっていくのですが、家康にとっては、百姓、町民にストレスが貯まらなければ、それで良かったのです。

また「徳川将軍が日本の最高位ではないのだぞ」という形を見せるために、あくまでも将軍家は天皇陛下のご命令に従っているのであって、最も偉いのは天皇陛下である、という形にもしました。

もちろん当時の天皇家には江戸幕府に対抗する力はありませんが「徳川将軍が日本で一番偉い、という訳ではない」という形が見せられれば、それで良かったのです。そうしておけば「徳川将軍を打倒しても天皇陛下がいる限り日本を支配したことにはならない」からです。これで徳川家に対し反乱を起こすモチベーションを持たせにくくしたのです。

この辺りが「日本人とユダヤ人」で有名なイザヤ・ベンダサンをして「政治的天才」と言わしめる由縁です。

そして300年が経ち、更に現代へ

こういった家康の打った手は見事に効果を発揮し、日本は江戸時代300年という年月の間に、反乱や戦争というものが、ほとんど起きなかったのです。僅かに「島原の乱」があるくらいです。

世界史上でも300年間、内戦も含む戦争が全く無かった国というのは日本くらいのものなのです。いかに家康の打った手が有効なものであったかが、この点でも分かります。儒学の価値観というものが完全に常識化した結果である、と言って良いと思います。しかし始まりがあれば、必ず終わりがあります。遂に幕末を迎え明治政府というものが徳川将軍に取って変わります。

明治になってから日本における「お上」は政府になりました。そして軍隊が創設されました。そして西南戦争、日清戦争、日露戦戦争、第一次世界大戦、太平洋戦争と次々に戦争が起こります。一体、江戸時代の平和はなんだったんだ、という位に日本は好戦的な国となったのでです。

しかし太平洋戦争が敗戦に終わったことで陸軍、海軍はなくなり徴兵制度もなくなりました。太平洋戦争前には男子は20歳になると「徴兵検査」というものを受ける義務があり、召集令状が来たら、いやでも軍隊に入らなければならなかったのです。

そして今、再び日本は平和を取り戻しています。それはきっと政府内から好戦的な人物が消え、軍隊もなくなったからでしょう。家康の統治政策は見事な物でしたが、「目上」に立つ人により、その効果は平和を守ることもできる一方、悪用すれば簡単に戦争を起こすことにも利用できる、ということが分かったのです。

徳川家康という、戦国大名の中でも最も平和を望んだ人物が勝ち残ってくれたことに江戸時代の人々は感謝すべきなのでしょう。既に「儒学」という言葉は半ば忘れられた存在となっていますが、その価値観は未だに私達、現代に生きる日本人の中にも、しっかりと根付いていると考えるべきです。何故なら「儒学の価値観に取って変わる価値観」が現れなかったからです。よく、親に言われませんでしたか? 「人に迷惑をかけることだけはするな」と。

また、日本の会社組織は「目上の存在」である管轄の中央官庁からの叱責を最も怖れます。つまり現代に生きる私達の中にも、まだ家康の統治政策は「生きている」のです。だから今の日本の平和があるのかもしれません。

それは「目立つことは避けたい」「お上に逆らってはいけない」という自分自身の価値観よりも世間に協調することを優先させる文化を作り上げたかもしれません。そして「常に自分が周りからどういう風に見られているか」を人一倍、気にする性質を日本人に与えたかも知れません。しかし、戦争の無い平和な時代の中で暮らしている、というだけで十分に満足すべきではないでしょうか? 

アメリカは朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガニスタン戦争、イラク戦争と立て続けに戦争を起こし続けていますが、その戦争で実に多くの命が奪われ、かろうじて生き残り帰還できた人も社会的な差別やPTSD、貧困問題などを抱えています。

帰還兵はPTSDなどを抱えていることが多いので、ほとんどの会社で門前払いされてしまうのです。掃除夫にもなれずホームレスとなる例が物凄く多い、という事実は知っておいて損はありません。

あまり知られていませんがベトナム戦争では戦場で死んだ米軍兵士の数よりも帰国してから自殺した米軍兵士の数の方が多いのです。いかに戦争というものが人の人生を破壊してしまうものかを如実に物語っていると思います。

きっと家康も数々の戦争を経験をしたからこそ平和であることの重要性を知ったのだと思います。戦争を知らない人は戦争を華々しい物と考えることがあります。しかし実際に戦争に行った人達の口から、そんな言葉は全く出てこないのです。

徳川家康という平和を願う「政治的天才」がいたおかげで、今の日本は平和に暮らしていられる、といっても過言では無いかも知れません。それはきっと日本独自の文化であり、世界にも類を見ない優れた要素を持った文化とも言えそうです。

しかし、それは国民が作り上げたものではなく、一人の人物が作り上げてくれたものなのです。つまり私達は、ただ単に「現代日本という恵まれた時代と場所に偶然、生まれた運の良い存在」というだけなのかもしれません。

そして運の良い私達は「私達の信じている価値観は日本だけの特有なもの」ということは意識しておく必要があると思います。つまり、他の文化の価値観を日本基準で考えてはいけない、ということです。なぜなら徳川家康がいてくれたのは日本だけなのですから。

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  この記事を書いた人
なのはなや さん
趣味で歴史を調べています。主に江戸時代~現代が中心です。記事はできるだけ信頼のおける資料に沿って調べてから投稿しておりますが、「もう確かめようがない」ことも沢山あり、推測するしかない部分もあります。その辺りは、そう記述するように心がけておりますのでご意見があればお寄せ下さい。

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