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夢殿にある救世観音像は聖徳太子の化身? 藤原氏が恐れた太子のたたりとは
- 2022/02/04
時は明治17年8月16日、東洋美術に造詣の深いアーネスト・フェノロサは、明治政府の依頼を受け法隆寺を訪れていました。その目的は、法隆寺東伽藍に建つ夢殿に安置されている救世観音を調査するためです。
しかしいかに説得しても、僧侶たちは観音像が納められている厨子の開帳を拒み続けます。その理由は聖徳太子の祟りを恐れてのことでした。
実は太子の祟りを恐れたのは僧侶だけではありません。大いに栄華を誇った時の権力者・藤原氏も太子の祟りに恐れおののいていたのです。
しかしいかに説得しても、僧侶たちは観音像が納められている厨子の開帳を拒み続けます。その理由は聖徳太子の祟りを恐れてのことでした。
実は太子の祟りを恐れたのは僧侶だけではありません。大いに栄華を誇った時の権力者・藤原氏も太子の祟りに恐れおののいていたのです。
秘仏救世観音菩薩立像
聖徳太子(厩戸皇子)の等身像とされる救世観音菩薩立像、秘仏として法隆寺の夢殿に本尊として安置されてきました。日本に現存する最古の木造彫刻の一つである救世観音菩薩立像。約1400年前に造立されたとされていますが、実のところ正確な年代はわかっていません。しかし、日本に現存する最古の木造彫刻の一つであることには間違いないありませんね。
当時、等身像を造るのは、その人物が亡くなった時になっていました。救世観音菩薩立像が太子の等身像として造られたのなら、太子が亡くなった、推古30年(622)となりますね。
夢殿の建立は奈良時代、救世観音菩薩立像はその本尊とされたのですが、平安時代末期以降は、法隆寺の僧侶でさえ、厨子の扉を開けることは禁じられてきました。まさに秘仏とされる由縁です。
夢殿に安置された意味
法隆寺は、推古天皇の摂政を務めた聖徳太子が、推古15年(607)に建立した西院伽藍と、天平11年(739)年に聖徳太子の住居跡に建てられた東院伽藍からなっています。救世観音菩薩立像が安置された夢殿は、その東院伽藍の中心にある八角堂です。八角堂と呼ばれる八角形の建物は通常は供養塔、もしくは仏塔などとして建てられる建築物となります。それを考えると、救世観音菩薩立像は、供養のために祀られた仏像ということになりますね。何の供養か気になるところではありますが…。
なぜ藤原氏は聖徳太子の祟りを恐れたのか
天平9年(737)、当時の都であった平城京で天然痘が大流行します。この時代、権力を手中にしていたのが栄華を誇っていた藤原氏です。しかし天然痘により、政治の中枢にいた藤原四兄弟も相次いで亡くなり、藤原一族は大きな打撃を受けることになりました。
当時、疫病の原因は、荒振る神・疫神・疫鬼・怨霊などの仕業と思われていたそうです。ということで、平城京の天然痘が聖徳太子の怨霊の仕業だと思い込んだ藤原一族は、さぞ太子の祟りの大きさに恐怖したことでしょう。そこで藤原氏は、太子没後100年以上も経っているにも関わらず、聖徳太子の住居後に夢殿を建てて太子の供養をします。
それにしても、なぜ藤原一族は太子の祟りを恐れたのでしょうか。
中臣御食子・中臣鎌足親子の陰謀
大化の改新で有名な中臣鎌足は、藤原一族の祖となる人物であり、中大兄皇子を引き込んで見事なクーデターをやり遂げた人物です。中臣鎌足とタッグを組んだ中大兄皇子。実は聖徳太子とは親戚の関係です。系譜は違いますが、欽明天皇の孫が聖徳太子となり、ひ孫が中大兄皇子なんです。
聖徳太子は蘇我稲目のひ孫でもあり、稲目からみれば入鹿も同じひ孫にあたります。いわば、聖徳太子・中大兄皇子、さらには蘇我氏も含めてファミリーとなるのですね。
ですが、聖徳太子は暗殺され、蘇我蝦夷は太子が残した家族を殲滅してしまいます。さらに蘇我蝦夷の息子となる入鹿を倒したのが中大兄皇子。本来ならファミリーとして意を同じくする関係が、血で血を争うことになったのは、裏で工作する人物がいたから。
中臣氏は宮廷の祭祀を担当する氏族で、神事に供する家柄ということで、人を操ることはたやすかったことでしょう。
一つ一つ検証していくと長くなるので控えますが、聖徳太子の暗殺からはじまり、太子一家、及び蘇我氏の殲滅、そして後に藤原氏となる中臣鎌足が日本の権力を握るまで、蘇我氏に対立していた中臣御食子・中臣鎌足親子の存在が、常に透けて見えてくるのです。
後に藤原一族が聖徳太子の祟りを恐れたのは、長い年月をかけて野望を実現した中臣鎌足親子が、太子に行なったあまりに非道な行為を知っていたからでしょう。
遂に開帳の時が
明治17年8月16日、アーネスト・フェノロサと岡倉天心が、開帳したら太子の祟りによって大地震によって法隆寺が壊滅すると言い、断固反対する僧侶たちを説得して、ついに厨子の扉が開かれます。すでに太子の怒りは治まっていたようで、大地震は起こりませんでした。逗子の中を見た時、フェノロサは絶句したそうです。そこには、まるで救世観音菩薩立像の身動きができないように、白い木綿によってぐるぐる巻きにされていたのです。
太子の祟りの大きさを恐れたためなのでしょうか。それから140年近く、救世観音菩薩立像は今でも夢殿の奥に安置されています。
聖徳太子と対面したいのなら
もし、聖徳太子の面影に出会ってみたいと思うなら、毎年の春と秋の2回に一般公開がされています。歴史上で最も繁栄した藤原氏を「恐怖のどん底」に陥れた、聖徳太子の化身とされる救世観音菩薩立像。今では、神秘的な微笑みで人々を迎えています。※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
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