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「臼井城の戦い(1566年)」謙信最大の敗北!?寡兵で上杉軍を撃退した、臼井城の勇将・智将

帯刀コロク
 2020/12/02

臼井城跡(千葉県佐倉市)
臼井城跡(千葉県佐倉市)

「軍略の天才」とも呼ばれる越後の上杉謙信ですが、そのすべての戦に勝利したわけではありません。 精強な各国諸勢力には多くの猛者がひしめいており、謙信を相手に一歩も引かないどころかむしろ追い詰めるほどの将兵も存在しました。

なかでも謙信最大の敗北ともいわれるのが、下総(現在の千葉県北部・東京都東部の一部・茨城県南西部・埼玉県東部の一部)で1566年(永禄9年)に起こった「臼井城の戦い」です。

謙信を退けたという臼井城の将兵たちとは、いかなる剛の者たちだったのか。 その中心人物たちにも焦点を当てつつ、戦いの概要を見てみましょう!

  • 上杉謙信は時代とともに様々に名を変えていますが、本コラムでは混乱を避けるため「謙信」で統一します。
  • 相模・小田原の勢力は混乱を避けるため「後北条」で統一します。

合戦の背景

継続する上杉vs後北条の対立

朝廷と幕府の意を受けた謙信による永禄3(1560)年の関東出兵以来、相模の後北条を中心とする勢力と上杉との対立が続いていました。

関東諸勢力は謙信への合力と離反を繰り返しながら戦局をうかがい、その状況は常に不安定な状態でした。 そして下総の大名「千葉氏」は後北条の与力であり、この勢力の制圧も謙信にとって重要課題のひとつだったのです。

戦に至る経緯

永禄9(1566)年1月末、謙信は下野(しもつけ:現在の栃木県あたり)の佐野に向けて進軍、そののち常陸(ひたち:現在の茨城県あたり)の小田城(現在の茨城県つくば市)を攻略します。

直後には下総の西北部へと兵を進め、同年3月には江戸湾の海上交通の要港がある船橋(現在の千葉県船橋市)を掌握しました。 これは物流の拠点を手中にすることで、軍事行動における補給物資等の調達を企図したものと考えられています。

そして同3月20日、後北条与力の千葉氏家臣「原胤貞」の守る下総・臼井城へと進攻したのです。

合戦の経過・結果

上杉有利を覆した、臼井城兵の大反撃

謙信は1万5,000の兵で臼井城を包囲、対して城兵は2,000ばかりという圧倒的戦力差がありました。

原胤貞は旧主である千葉氏や後北条氏に援軍を要請しますが、並行して行われていた戦闘のためわずかな増援しか差し向けられませんでした。

上杉軍の攻撃を受けた臼井城は、3月20日時点で最後の濠を残すばかりという落城寸前の窮地に陥ります。

しかし、臼井城に在陣していた千葉氏家臣の名軍師「白井入道浄三」の巧みな戦術、そして「赤鬼」の異名で知られた後北条家臣「松田肥後守康郷」らの捨て身の奮戦により、謙信は生涯最大ともいわれる敗北を喫することになります。

臼井城の戦いの要所マップ。色塗部分は下総国

以下に上記二人の臼井城方将を紹介しつつ、その視点で戦闘の経過を概観してみることにしましょう。

臼井城方の中心人物

軍師・白井入道浄三

臼井城の戦いにおいて城主・原胤貞より指揮権を委ねられた白井入道浄三は、出自は不明ながらも千葉氏三代に仕えたとも伝えられる武将です。

現代でいうところの作戦参謀としても優秀であり、占術的な知識をもとにした戦での吉凶理論を巧みに操り、城兵の士気を大いに鼓舞しました。

また、次に述べる松田康郷らの突貫攻撃を最適なタイミングで指示し、その次には城の間際まで上杉兵をおびき寄せ、城壁を崩して一網打尽にするなどの智略を駆使して謙信を撃退しました。

また、敗北を悟って撤退していく上杉軍を追撃し、大きな痛手を負わせるなど目覚ましい指揮能力を発揮して臼井城を守りました。

赤鬼・松田肥後守康郷

後北条家臣の松田肥後守康郷は、その他の増援とともに臼井城に着陣しましたが総勢でわずか250騎ばかりだったといいます。

しかし3月26日の上杉軍総攻撃に際し、臼井城も城門を全開して同じく総力で迎撃。三隊が次々に突貫を敢行し、第三陣の康郷は上杉軍本陣に肉薄するという奮戦ぶりでした。

『北条記』ではこの時の康郷の出で立ちを「朱具足」と記しており、「赤鬼」の二つ名を鮮烈に印象付けることになりました。

戦の結果

この大反撃により上杉軍は一時撤退、翌日には臼井城方の再攻撃を待ち構えていましたが、占術における凶日にあたるという理由からか臼井城は沈黙したままでした。

業を煮やして先に動いたのは上杉軍で、浄三の策により城間際までおびき寄せた上杉兵を、崩した城壁で撃退したのは先に述べた通りです。

こうして兵力で圧倒的に上回ったはずの上杉軍は大きな犠牲を払いながら臼井城から完全撤退し、謙信の大敗北という結果で戦闘が終結したのでした。

戦後

臼井城攻略に失敗したことから、謙信のもとについていた関東諸勢力が次々に離反するという事態を招きました。

謙信の関東攻めはその後も継続しますがその失地は回復できぬまま転戦し、当地における優位性は大きく損なわれる結果となったのでした。

まとめ

軍神とまで呼ばれた武将である上杉謙信を、寡兵をもって撃退した臼井城。智・勇・機を見事なまでに捉えた奮戦ぶりに、敵ながら称賛と畏敬の念を抱いたように思えてなりませんね。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
  • 『日本歴史地名体系』(ジャパンナレッジ版) 平凡社
  • 『歴史群像シリーズ 50 戦国合戦大全 上巻 下剋上の奔流と群雄の戦い』 1997 学習研究社
  • 「関八州古戦録」『史籍集覧.第5冊』 近藤瓶城 編 1925 近藤出版部
  • 千葉県佐倉市HP 臼井城址公園

  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術に ...


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