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ふたりの夫を○したメンヘラ池田六姫

※岡山県備前市吉永町にある池田六姫の墓(wikipediaより)
池田六姫は、岡山藩主池田光政の側室腹の6女として生まれました。
14歳の時、岡山藩家老の嫡男と結婚、この嫡男が出奔したため切腹となり、六姫は次いで自分が見初めた相手と再婚し、子供にも恵まれました。
しかし、ここでも事件が起きたのです。いったい何があったのか、六姫についてご紹介しますね。

1、六姫の父は池田光政

六姫の父池田光政は、池田輝政の長男利隆の長男です。父利隆の死後、姫路藩主になりましたが、わずか3歳だったため、鳥取藩に転封となりました。

その後、叔父の忠雄(利隆の弟だが、母が家康の娘)が亡くなり、こちらも後継ぎが幼いために光政が岡山藩に転封となったわけです。

また、光政には、本多忠刻と千姫の娘勝姫が、将軍秀忠の養女という格で正室になっていました。ふたりの間には、1男4女が生まれ、仲睦まじかったということです。

2、六姫の母は和田惟政の孫

そういうわけで、勝姫の出産が終了後、光政は国元岡山に側室を置いたようです。
六姫は、正保2年(1645年)生まれ、母は側室で池田家家臣伝右衛門の3女の「国」です。

国は、光政との間に六姫の他1男4女を産んだのですが、側室とはならず侍女のままだったということで、六姫も母方の祖父母の伝右衛門のもとで養育され、5歳になったときに江戸の藩邸へ迎えられました。
ただ、この「国」は足利義輝に仕え、義昭を奉じてその後信長に仕えた和田惟政の嫡男・惟長の娘としているところもあるのです。

和田惟長は20歳くらいの時、父と共に池田知正、荒木村重らの軍勢と戦ったとき、先陣の父が戦死。それなのに

・後備の惟長は慌てて逃げ帰って諸将の信頼を失った
・なぜか叔父で後見役の惟増を殺害して、自分は信長に忠節の意を示した
・家中で信望を集めた高山友照、右近親子の暗殺のため親子を誘い出したが、はげしい斬り合いの末に重傷を負い、数日後に死去、または生き延びて没落し、最後は徳川氏に仕えた

と、あまり良い評判がなく、曽孫のメンヘラぶりと重なるイメージがあるというと失礼でしょうか。

3、六姫、池田家の家老の嫡男と結婚

六姫は、万治元年(1659年)12月、15歳で池田家の仕置家老の池田出羽由成の嫡男で、25歳の主計由貞と江戸で結婚しました。

この天城池田家は、家老とは言え3万2000石の大名級の知行を持ち、おまけに池田輝政の兄元助の子孫です。六姫も満足していたよう、いやそれが、異常なほど由貞に執着したのです。

4、六姫、メンヘラ発動

六姫は結婚後、かなりの嫉妬深さで、夫の由貞を悩ませたのですね。
由貞が外出するときは、「どこへ行くか、帰りはいつ?」としつこく聞き、約束の時間より遅れて帰れば、必ず部屋の中の何かが壊されていたとか。

由貞の妹の熊姫が、嫁ぎ先の大石家から里帰りして(熊姫はあの赤穂義士の大石内蔵助の母です)、じつの兄の由貞とおしゃべりしているのを見ただけで、目を吊り上げて「たとえ妹でも私の夫とおしゃべりなんて許せないっ」とヒステリーを起こしたとか。

あまりのメンヘラに困っても、六姫は藩主の娘で主筋なので、池田家としては何もできなかったみたい。
由貞は、六姫のために外出を控えて、なるべく六姫の側にいるようにしたのですが、1年もそんな生活をしていると、由貞が参ってしまったのですね。

そしてある日、六姫は、隣の邸から聞こえる琴の音に聞き入る由貞を見て、誰が弾いているのか詰問、その時は答えなかったが、夜中に目を覚ますと六姫が担当を喉元に突き付けて再度詰問したので、妹の友人だと話し、六姫も納得したというのです。

しかしもうこれが限界だったのでしょう、由貞は舅でもある主君光政に、月代を剃って衣装から、刀、脇差の帯などの身なりを改めよと叱られた翌月に江戸屋敷から逐電したのです。

六姫は藩主の邸に引き取られ、由貞は領地の天城に隠れているのを見つかって切腹、結婚わずか2年、27歳でした。

表向きは、病のために蟄居、後に死去と公表され、お家取り潰しとかは免れました。しかし、夫の死を聞いても六姫は「当然じゃ」と言い放ち、涙の一つも見せなかったそうです。

5、六姫、滝川一益の曾孫と再婚

六姫は、由貞死去の2年後、今度は滝川一益の曾孫で、池田家番頭の滝川縫殿の嫡男滝川儀太夫一宗と結婚。この義太夫は、偶然池田屋敷に狩りの獲物を届けに来たとき、六姫が見初めたということでした。

それじゃあ、まだ由貞と結婚中で執着してるときじゃないですかね。でも、2人はむつまじく、4年後、嫡男が生まれましたが、2歳で夭折、次男も夭折しています。

その後、寛文10年(1670年)に吉姫が生まれ、3歳になったときのこと。六姫は、夫に早く寝るように注意しようと夫の部屋を訪れたところ、儀太夫が、登志という女と一緒にいる所を目撃。逆上した六姫は、床の間の刀掛けの小刀で夫を殺害してしまったのです。
(これも浮気じゃなくて、ただ一緒にいただけのような気がするんですけど・・・)

儀太夫の父の縫殿は口封じのため、密かに登志を処分、仕置き家老日置忠明に「嫡男儀太夫は乱心で自害したので、六姫様をお城へお引取り願う」と書き送ったそうです。

六姫は、岡山城に引き取られ、父光政は場内の西ノ丸の東にある石山に屋敷を建ててもらって住むようになりました。六姫は延宝7年(1679年)に40歳で死去。

吉姫は後に、池田家分家の鴨方藩主池田恒能の世子内匠頭政熙と結婚しました。

まとめ

六姫は、ふたりの夫を死に追いやり、ひとりは実際に手を下したのですが、現代と違って刑事罰に問われることのない特権階級でした。そのうえ六姫は、自分が二度目の夫儀太夫を殺したことを、露ほども悪いとは思っていなかったというのは、やはり精神的に問題を抱えていたからでしょう。

父光政は、滝川家に置いてきた吉姫を引き取りたいと言う娘の願いすらかなえてやり、六姫を座敷牢に入れたとか、そういう話は聞きません。しかし、岡山藩の庶民や人々は、嫉妬に狂った六姫のしわざと知っていて、「鬼姫」と呼んだそうです。

メンヘラに会うと現代でも悲惨な目に合うけれど、六姫の犠牲になったふたりの婿は気の毒としか言いようがないですね。

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  この記事を書いた人
angelica さん
子供の頃からの歴史好きです。 特に、女性史と外国人から見た日本史に興味を持っています。 最近は、ネット検索でどこまでも系図をたどったり、 再評価された人物とか、新しい発見とかを見つけて 学び直すなど、改めて歴史を楽しんでいます。

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