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系図から見たサラブレッドイケメン本多忠刻

本多忠刻(ほんだ ただとき)は、徳川千姫の婿として有名です。本多忠政の嫡男で、徳川四天王のひとり、家康に仕えた平八郎忠勝の孫に当たります。
それだけでもすごいのですが、忠刻の女系をみるともっとすごいんです。早世したのが残念なくらいの忠刻について、詳しくご紹介しますね。

1、忠刻は本多家の後継ぎだった

本多忠刻は、慶長元年(1596年)4月14日に生まれました。

当時、祖父本多忠勝は家康の関東移封で、上総国夷隅郡大多喜に10万石をもらっていたので、ここが誕生地ではないでしょうか。そして、関ヶ原合戦後、祖父の忠勝は、伊勢桑名15万石に移封加増されたので、忠刻も父忠政らと共に桑名に移ったのです。

忠刻は、19歳のとき、父忠政と大坂夏に出陣、道明寺の戦いで敵の首級を挙げたということです。
そして、元和2年(1616年)9月、将軍秀忠の長女で豊臣秀頼の正室だった千姫と結婚、父忠政が播磨姫路藩に転封となったため、千姫と共に姫路城西ノ丸に居住、千姫の化粧料10万石もゲットしました。

ふたりの間には勝姫と幸千代が生まれましたが、幸千代は3歳で夭折、忠刻も31歳で死去。千姫は勝姫を連れて江戸へ帰り、竹橋御殿を建ててもらって余生を過ごしました。

2、忠刻の系図を詳しく見ると…

1で挙げたのが、一般的な歴史ファンが知る「本多忠刻」のプロフィールです。

本多家の後継ぎだが、相続前に若死にした千姫の夫という程度に思われているでしょう。ところが忠刻の母、父忠政の正室熊姫は家康の孫、しかも長男信康と正室徳姫の次女なんですよね。
そう、岡崎信康の正室は、織田信長の長女なので、なんと忠刻は母方からみると「家康と信長の曽孫」というものすごいサラブレッドなんです。

個人的に、本多平八郎忠勝の孫で、真田信之の正室小松姫の甥というだけでもすごいのですが、忠刻は、当時の人が振り返ってみるほどの美形だったというのも、単なる美形じゃなくて、「美形ぞろいの織田家の血をひいていた」からだと思えてしまいます。

3、忠刻と千姫との結婚のなれそめ

そういうわけで、大坂城から救出された18歳の千姫は、従姉の息子で一つ年上の忠刻と結婚したのですが、このなれそめがどうだったか、色々な説があります。

ひとつは、大坂から江戸へ帰る千姫が、桑名の七里渡しの船中で忠刻を見初め、家康に頼んだ説、または、家康が政略結婚の犠牲となった千姫に、年頃もちょうどよく将来有望な曽孫の忠刻を世話した説、それに、忠刻の母で家康孫の熊姫が、祖父家康に息子の嫁に千姫をと懇願した説があるということです。

こう言っては何ですが、忠刻のことを本多家の後継ぎというだけでは、千姫は再婚だから家来筋との格落ちの結婚か、と思われるかもしれないです。しかし、華麗な系図とイケメンで将来有望だったという忠刻の詳しい情報を見る限り、千姫は、将軍の娘として片意地張ることもない恵まれた身内同士の結婚だったのではと思います。

なお、忠刻は、剣術修行もやっていて、あの宮本武蔵を迎えて師事し、家中の侍たちにも武蔵に学ばせたし、武蔵の養子三木之助を側近としていたくらいで、忠刻が結核で亡くなったとき、三木之助は殉死しています。

まとめ

本多忠刻は、本多忠勝の孫で、徳川千姫の婿でしたが、残念ながら後を継ぐ前に早世しました。
しかし、男系でいけば、家康の孫で2代将軍秀忠の娘と結婚した譜代大名の跡取り息子ですが、女系も考慮すると、家康と信長の曽孫という事実はもっと大きく取り上げるべきでしょう。

千姫も母方から浅井長政とお市の方の孫、忠刻と千姫は美男美女のカップルで、千姫も短いが幸せな結婚生活だったと言われています。

そういうわけで、特に姫路城西ノ丸の化粧櫓の説明版の、簡単すぎる本多忠刻の系図も何とかしてほしい。忠刻の母方の系図もそろそろしっかり明示するべきではないでしょうか。

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  この記事を書いた人
angelica さん
子供の頃からの歴史好きです。 特に、女性史と外国人から見た日本史に興味を持っています。 最近は、ネット検索でどこまでも系図をたどったり、 再評価された人物とか、新しい発見とかを見つけて 学び直すなど、改めて歴史を楽しんでいます。

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