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JR中央本線の駅前にある、もう1つの武田信玄像

甲府のシンボルといえば武田信玄像がよく知られているが、この像はJR甲府駅南口に建っている。1969(昭和44)年に完成した甲府駅前の信玄像は、陣中で軍配を持ち甲冑兜を付けた姿だ。

これは川中島の戦いの様子を模したもので、右手に軍配、左手に数珠を持ち、戦局を見据えるかのように床几にどっかりと座っている。この像は、甲府駅前の整備に伴い1985(昭和60)年に現在の駅前広場に移されたものだ。

甲府の街は、甲府駅の北口から北に向かって真っすぐに武田通りが伸びており、その先に武田神社がある。この武田神社は武田氏が本拠地とした躑躅ヶ崎館跡に建っている。

武田信虎が石和から躑躅ヶ崎に館を移し、城下町づくりに着手したのは1519(永正16)年のこと。翌年には館の北側の要害山に山城を造り、緊急時に立てこもるための詰城とした。この要害城で1521(大永元)年に武田信玄(晴信)は産まれた。つまり、甲府は信玄の生まれた場所であり本拠地であったことから、信玄像が建っているということになる。

では、JR中央本線の駅でもう1つの武田信玄像が建っているのはどこだろうか。実は、JR塩山駅北口にも武田信玄像がある。こちらはふっくらとした坐像で、甲府駅前の像とはかなり雰囲気が異なっている。

塩山駅の像は1988(昭和63)年に建てられたもので、信玄公の寿像(生前の肖像画)として知られる長谷川等伯筆「武田信玄画像」(高野山成慶院所蔵)を参考資料として制作したものだという。

塩山は、武田信玄の菩提寺である恵林寺の最寄り駅だ。恵林寺へは、南口からバスに乗るとたどり着くことができる。武田勝頼が天目山で自刃した翌月、恵林寺は織田軍の焼き討ちに遭った。住職の快川紹喜国師をはじめ、寺に身を寄せていた僧俗約100人が三門に封じ込められ、火が放たれたという。

この時、快川国師が言ったのが、

「安禅必ずしも山水を須(もち)いず 心頭滅却すれば火も自(おのずか)ら涼し」
 (安らかに禅行をするために 静かな場所が必要なのではない 心を整え、無に徹すれば、火さえも涼しい)
という言葉であり、もとは6世紀の中国の詩人・杜筍鶴の詩の中の句で、碧巌録に収録されているものだ。

現在の恵林寺三門は、恵林寺山の近くにあったものを恵林寺再建の際に徳川家康が移設したものとされる。この兵火によって墓も失われたことから、現在の信玄の墓は、百年忌である1672(寛文12)年に再建されたものだといわれる。

夢窓国師が手掛けた庭や信玄をモデルに作らせた武田不動尊など、みどころも多い恵林寺。五代将軍綱吉に仕え、甲府藩主にもなった柳沢吉保の墓もここにある。

● 参考文献
・甲府市ホームページ「武田信玄公の銅像」
・乾徳山恵林寺ホームページ

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  この記事を書いた人
KOBAYASHI Sayaka さん
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