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【やさしい歴史用語解説】「藩」

長州藩や薩摩藩と呼ぶように、江戸時代における地方の行政区分は「藩」という単位でした。これに対して幕府直轄地を「天領」と呼んでいます。

ところが当時、「藩」という呼び名は一般的ではありません。明治元年(1868年)になって新政府が旧大名領に「藩」の名称を付けたに過ぎないからです。

もし江戸時代に「貴殿は長州藩の出身でござるか?」と聞いても、相手はきっとチンプンカンプンでしょう。では元々、藩はどのように呼ばれていたのでしょうか?

単純に国名と大名家を組み合わせていたはずです。たとえば武蔵なら武州、薩摩なら薩州といったふうに。そこに大名家の名が加わります。「武州岩槻永井家」「薩州島津家」といった感じですね。

ちなみに水戸藩は常陸国にありますが、実際は水戸周辺の領地しか持っていません。ですから「常州徳川家」と呼ばずに「水戸徳川家」となるわけです。

※水戸藩小石川邸と後楽園(wikipediaより)
※水戸藩小石川邸と後楽園(wikipediaより)

藩いわば大名の数は江戸時代を通じて260前後にのぼり、地方行政を担う存在でした。

よく「藩 = 領地」と誤認されやすいのですが、少々意味合いが違います。統治機構+土地+人民という図式が藩となり、それを統括するのが藩主ということになります。

藩は徳川家との縁故の度合いによって親藩・譜代・外様に分けられ、親藩は御三家 (尾張、紀伊、水戸) 、さらに時代が下ると家門や連枝に分けられました。おおむね1万石以上の武士が藩となったようです。

細かく分けるとキリがありませんが、「国単位で藩を持っているか?」または「城を持っているか?」「石高の違い」といったところで大名の格式も決まっていました。

※1783年の日本地図(wikipediaより)
※1783年の日本地図(wikipediaより)

また、藩領は藩主の所領ではないことに注目です。あくまで大名の領地は預かったものであり、大切に統治し運営することが求められました。そこには江戸幕府が積極的に導入した儒学の考え方があったようです。上下関係や規律を重視し、徳川家に絶対的な忠誠を誓わせることが目的ですから、規律(武家諸法度)を破れば厳罰すら辞さない構えでした。

上下関係を説く以上、筋目を重んじる必要もあります。幕府が定義づけたのは「天皇」の存在でした。日本国は天皇が統治する国であり、幕府は政権を委任されているに過ぎないということ。また各藩の大名たちも地方行政を任せられた政務代行者だという点です。

ですから藩の行政がうまくいかなかったり、藩内でゴタゴタがあれば、「この家では無理だ」と烙印が押されます。そうなると改易となり、その後に別の大名家が転封してきたり、そのまま天領になったりするわけですね。

しかし江戸時代前期は幕府の厳しすぎる政策もあり、取り潰しに遭う藩が相次ぎました。また多くの改易に伴って浪人の数も爆発的に増え、大きな社会不安を呼び起こしたといいます。

こうした中、末期養子の禁の緩和などによって徐々に改易事例は少なくなり、ようやく安定した幕府運営が実現しました。

※廃藩置県-明治4年7月14日(wikipediaより)
※廃藩置県-明治4年7月14日(wikipediaより)

明治4 念(1871年)、 廃藩置県によって藩は消滅しますが、現代でも会津や長州など、独特の士風が色濃く残っている地域もありますね。

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  この記事を書いた人
明石則実 さん
幼い頃からお城の絵ばかり描いていたという戦国好き・お城好きな歴史ライター。web記事の他にyoutube歴史動画のシナリオを書いたりなど、幅広く活動中。 愛犬と城郭や史跡を巡ったり、気の合う仲間たちとお城めぐりをしながら、「あーだこーだ」と議論することが好き。 座右の銘は「明日は明日の風が吹く」 ...

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