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【やさしい歴史用語解説】「武家官位」
- 2023/07/13
「武家官位」とは武士が名乗った官位・官職のことですが、よく見ていくと歴史の縮図が隠されています。
日本の官位はもともと律令制に基づくものでしたが、平安時代に入って律令制が崩壊していくと、官位の持つ権威だけが残るようになりました。実際に官職に基づく仕事はしないけれど、いわゆる箔付けのために用いられたわけですね。
鎌倉時代に武家政権が樹立されると、源頼朝の許可なしに官位を得ることが禁じられました。もし許しなく官位をもらおうものなら大変です。頼朝の弟・源義経は勝手に検非違使に任じられたことで処罰されています。やがて頼朝が亡くなると、北条氏や足利氏などトップクラスの有力者は高い官位を得ることができましたが、ほとんどの御家人たちは無位無官で過ごしたようです。
鎌倉幕府が滅び、南北朝時代が始まると状況は一変します。北朝・南朝ともに少しでも味方を増やす必要性から、全国の武士に官位・官職を乱発しました。また恩賞の代わりに官位を与えるという慣習も続いていたようです。しかし官位・官職の乱発は、整合性のなさを生み出していきました、そして貞治5年(1366)に伊予守へ任官した上杉顕定を最後に途絶えることになります。
戦国時代に入ると、またしても官位・官職は安売りされることになりました。戦乱が打ち続いたことで朝廷や幕府が経済的に困窮し、献金をおこなった大名に官位が与えられたからです。また朝廷が与えてもいないのに勝手に官位を自称する者までが現れました。
例えば織田信長は若い頃、上総守と名乗っています。とはいえ上総国は親王が国守に任じられる親王任国ですから、そもそも上総守という官職などあり得ません。おそらく信長は知らなかったものと見え、すぐに上総介と改めています。
ちなみに飛騨の戦国大名・三木自綱もせっせと朝廷へ献金しては官位を得ていましたが、さすがに田舎大名ですと高い官位は叶わなかったようです。本人は大納言就任を希望していたものの「さすがにそれは無理」と断られています。それでも諦めきれなかった自綱は大納言を自称していたとも。
また、大名だけでなく家臣や下級武士に至るまで、「玄蕃」や「内匠」「大学」といった官職名を用いることが流行しました。当時は「信長」「秀吉」といった諱(いみな)で呼ぶことは憚られていましたから、あえて官職名を通称としていたのでしょう。
ところで官位をもっとも有効活用していたのが豊臣秀吉でしょうか。秀吉は関白に就任すると、摂家・親王・門跡のあとに清華家を加えました。そして徳川家康や前田利家など名だたる大名を清華成として列に加えたのです。
高い家格を与えることで統制力を強め、さらに豊臣氏による新しい秩序を築こうとしました。とはいえ有力大名を清華家としつつも秀吉自身は摂家と同格ですから、ことさらに差別化を図りつつ上下関係を明らかにしたのでしょう。その結果、豊臣政権内には内大臣をはじめ大納言や中納言といった高位の大名が生まれました。
さて、江戸時代になると幕府は官位・官職に関する方針を一変させます。武家の官位は公家のものとは別という定義を打ち出し、官位叙任についてのルールを取り決めました。すなわち武家官位の任命者は将軍であり、朝廷から推挙を受けた場合でも将軍の許しが必要となったのです。
江戸時代における武家官位は「従五位下諸大夫」以上の格付けを指しますが、将軍が大名に与えるだけではありません。直臣である旗本や奉行、さらにはごく一部の大名家臣も対象となっていました。
ちなみに加賀前田家は将軍と近しい間柄ですが、加賀八家のひとつ前田土佐守家では10人いた当主のうち、実に6人が将軍から直々に官位を与えられています。その理由は土佐守家の血筋が藩主と非常に近いからだそうです。
このように江戸時代には、血筋あるいは家の事績などにより、たとえ陪臣であっても優先的に官位が与えられました。とはいえ全ての大名に武家官位があったわけではありません。江戸時代前期まで無位無官だった者もいて、ようやく全ての大名に官位が行き渡るのは18世紀を待たねばなりませんでした。
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