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あまりに残酷だった島原の乱の結末
- 2022/03/18
島原の乱は、江戸時代初期に起こった一揆で、幕府のキリシタン弾圧に対する反乱でした。日本歴史上最大規模となる一揆で、幕末以前では最後の本格的な内戦となります。
島原藩主松倉勝家は、過酷な年貢の取り立てを行っていました。そして、年貢が払えない農民や改宗を拒んだキリシタンに対して、あまりにひどい拷問や処刑を続けたことに対する反発から発生したのです。
島原藩主松倉勝家は、過酷な年貢の取り立てを行っていました。そして、年貢が払えない農民や改宗を拒んだキリシタンに対して、あまりにひどい拷問や処刑を続けたことに対する反発から発生したのです。
島原の乱
島原の乱とは、寛永14年(1637年)に起こったキリシタン農民による一揆を言います。島原・天草の乱、若しくは島原・天草一揆とも呼ばれていて、悪辣極まる悪性を敢行した天草や島原の領主に対して、反発し立ち上がった農民たちが、当時廃城となっていた原城を本拠地として抵抗を続けたのでした。
参加農民は3万8,000人とされていますが、幕府が動員した武士の数はなんと12万人と言われています。この兵力の大差にもかかわらず、挙兵してから原城を落城させるまでに半年を要したのです。江戸時代に頻発した揆の中でも、最大規模の一揆となりました。
島原藩での禁教政策
1613年に、キリスト教禁止令が発令された時の島原藩藩主は、有馬晴信から家督を継いだばかりの有馬直純でした。キリシタン大名だった父有馬晴信の嫡男として生まれた直純は、自分自身もキリスト教信者となり洗礼名ミゲルを賜っていたのです。しかし、キリスト教禁止令が出たことで棄教。領民にもキリスト教を諦めるように説得したのですが、領民のみならず家臣までもが棄教を拒みます。その結果、棄教を拒んだ三人の重臣は家族ともども火あぶりにされてしまったのです。
その後、藩主が松倉重政に変わると、キリシタンの弾圧はより過酷さを増していきます。松倉重政は、原城を廃城にして新たな島原城を築城するため、城普請の予算確保を目的に、領民たちに通常の倍の年貢を課したのです。
さらに、キリシタンへのきびしい弾圧も継続しています。この時、島原藩だけではなく、天草藩の領民たちもまた同じように苦しめられていたのです。
キリシタン農民蜂起の訳
上記で説明したように、島原のキリシタン農民たちが蜂起した理由は、悪徳領主たちによる厳しい年貢の取り立てと徹底した禁教政策にあったのです。日本でのキリスト教の歴史は、1549年に来日したフランシスコザビエルよって始まります。当時の日本ではキリスト教を布教しても問題なく、全国に広まっていくのですが、特に西日本が中心となったようです。
民衆が洗礼するだけでなく、外国との貿易を活性化させたい大名たちもキリスト教を保護しました。そして、自らがキリシタンになった大名もいました。
代表的なキリシタン大名は、大友宗麟に大友純忠、そして有馬晴信らが知られていますね。島原藩領主有馬晴信がキリシタン大名になったのが1579年。それから、有馬晴信に続けと4,000人以上の領民が洗礼を受けたと言われています。
幕府軍の被害
島原の乱制圧に、幕府軍は4回の総攻撃をかけています。しかし、3回までは幕府軍の敗北となりました。攻撃を受けた農民たちだけでなく、幕府軍も甚大なる被害を受けたのです。その上、幕府側で九州の大名を指揮していた板倉重昌は、総攻撃の際に死亡しています。島原藩の悪性名高い藩主松倉重政は、一揆の責任を負わされて、鎮圧後に斬首されたそうです。島原の乱における幕府側の被害は、死傷者合せて1万数千人であったとか。
乱の後には、一揆に参加した女や子供までが惨殺され、島原領と天草領には領民がいなくなってしまいます。そこで、強制移民令が発令佐されて、各地から移民がやってくることになったのです。
豊臣秀頼は生きていた?
ところで何故幕府は、こんなに必死になって、一揆を起こした農民や加勢に駆けつけた浪人たちを殲滅したのでしょうか。実は、一揆軍の首領となった天草四朗が、豊臣秀吉の孫だったという説が流れているのです。ということは、大阪夏の陣で死んだはずの豊臣秀頼は生きていたということになりますね。ならば、幕府が完全に豊臣の息の根を止めるため、なりふり構わずに躍起になって農民に襲い掛かったというのも納得できるでしょう。
慶長19年(1614年)、明らかに家康の策略だといえる「方広寺鐘銘事件」が起こり、豊臣と家康との対立が決定的になります。そして「大坂の陣」が勃発。史実によって定番になっている話が、慶長20年(1615年)に徳川軍に攻められた豊臣軍は、母の淀殿とともに秀頼も自害したとされているのです。
ところがです。自害したとされているだけで、秀頼や淀殿の最期を見届けた者がいないんですよ。そして、死体も発見されていません。そんなことから、自害はせずに大阪城を脱出し、島津氏の元に逃げたという話が語られているのです。
当時の京都において「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きも退いたよ鹿児島へ」という童謡が流行していたといいます。
天草四郎は秀頼の子だったのか
なぜ天草四郎は、秀吉の孫と思われたのでしょうか。秀吉の孫、つまり秀頼の子だとする説は、秀頼生存説といくつかの事実が重なり合って生まれました。そのひとつが四郎の馬印が、豊臣秀吉と同じ瓢箪だったこと。しかし、四朗の父が豊臣秀吉についた小西行長の家臣であったため、当然だとする考える方が主流のようです。関ケ原の戦いに敗れて斬首された小西行長。その家臣である益田好次の嫡男として誕生したのが四郎でした。幼少時代からカリスマ性が強く、優しく聡明な子供だったそうです。裕福だったが上に、幼少の頃から学問に接し、高い教養を持ち合わせていました。
これが、天草四郎の表向きのプロフィールとなります。しかしちょっと疑問が湧いてきます。益田家は小西家の滅亡によって、浪人や百姓をして暮らしていました。何ゆえに裕福な暮らしが可能だったのでしょうか?
小西行長は豊臣秀吉に仕えた武将、ということは家臣の益田家も豊臣家に仕えていたことになります。なんだか、怪しい感じがしてきますよね。
さらには、天草四郎は豊臣秀頼のご落胤だという伝説も伝わっているのです。ご落胤とは、父親に認知されていない子供のこと。もし秀頼の子供ならば、秀吉にとっては孫にあたる人物となります。
その根拠となり得る事実は3つあります。
一つ目は、「千成瓢箪」を馬印として使っていたということ。これは既に定説を述べましたが、豊臣家と同じ馬印など、当時簡単に使えるものではなかったはずです。
そして二つ目が、四郎は「豊臣秀綱」という名を名乗っていたという資料が鹿児島に残っているのです。資料が正しければ、豊臣家に縁がある人物だと証明できますよね。
最後が、江戸幕府が保管した「島原の乱」に関する文章の中に、天草四郎は秀頼の子だという記述が残されているのです。幕府の資料に書かれているとなると、かなり信憑性が出てくるのではないでしょうか。
大阪の陣が終結した頃から、秀頼生存の噂は絶えなかったようです。真田幸村が秀頼をつれて薩摩へ逃げたという話が、真田家の本拠地である信濃・松代まで聞こえていた、と『幸村君伝記』にも書かれているのですよ。
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2023/08/19 10:53