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エルトゥールル号の救助に尽くした村民の真心に、時を越えての恩返し
- 2022/03/14
状況が緊迫化していくイラン・イラク戦争の最中、ついにイラクのサダム・フセイン大統領が、イラン上空を飛ぶ飛行機については、これから48時間以降すべて撃墜する、と声明を出しました。
しかし、イラクには215人の日本人が取り残されていました。なのに日本政府は、救援機を出さないと決定。残された日本人を絶望の淵に落とし込んでしまいます。その時、果敢にもトルコ政府の救援機が日本人の救出に向かったのです。
何故、トルコ政府がそんなことをしたのでしょうか。それは、1890年に和歌山県串本沖でおきた、トルコ軍艦エルトゥールル号の海難事故が関係していたのです。
しかし、イラクには215人の日本人が取り残されていました。なのに日本政府は、救援機を出さないと決定。残された日本人を絶望の淵に落とし込んでしまいます。その時、果敢にもトルコ政府の救援機が日本人の救出に向かったのです。
何故、トルコ政府がそんなことをしたのでしょうか。それは、1890年に和歌山県串本沖でおきた、トルコ軍艦エルトゥールル号の海難事故が関係していたのです。
エルトゥールル号座礁
明治20年にオスマン・トルコを訪問した小松宮彰仁親王殿下の返礼として、皇帝アブドゥルハミト2世が、親善使節団の派遣を計画します。そして、エミン・オスマン海軍少将が親善使節団の特使に任命され、フリゲート艦エルトゥールル号に乗船して日本に向かうことになります。エルトゥールル号は、明治23年6月7日に横浜港に到着。オスマン海軍少将をはじめとした一行は、明治天皇に謁見し、トルコ最高勲章などのアブドゥルハミト2世皇帝から託された数々の贈り物を天皇に捧呈し、両国の修好という皇帝の意を天皇に伝えたのでした。
その後、明治天皇から使節に勲章が贈られ、饗宴も開かれます。使節団一行は、東京に3か月滞在した後、帰国のため明治23年9月15日に横浜港を出港したのです。
日本で9月といえば台風の季節。エルトゥールル号が建造後26年の木造船だったこともあり、日本側は出発する前に修理をした方が良いと進言します。しかし、帰途の遅れを無くすため、予定通りに出港したエルトゥールル号は翌日の9月16日、和歌山県の串本町大島樫野崎沖を航海中に台風に遭遇するのです。
強烈な高波と強風のために樫野崎に押し寄せられ、昔から危険地帯として知られる船甲羅岩礁にぶつかってしまいます。破損したところから流れ込んだ海水が機関の爆発を誘因、オスマン海軍少将を含めた乗員587名が亡くなり、生存できたのは僅か69名という大事故になりました。
村民による救出
和歌山県串本町大島村付近で座礁したエルトゥールル号は、水蒸気爆発を起こして沈没しました。この時の爆発音は、大島村の人たちにも聞こえたとか。当初何の音か分かりませんでしたが、すぐに船の爆発音だと村人も知ることとなります。
海に投げ出された乗組員は、樫野崎灯台の光だけをたよりにして泳ぎ着き、必死で崖を登って灯台の職員に助けを求めました。
嵐の夜に血まみれの外国人が突然現れた時は、当時宿直していた職員も、さぞかし驚いたことでしょう。急いで応援を呼んで応急手当をするのですが、なんせ言葉が通じません。そこで、世界中の国旗が並んだ本を見せてどこの国かを確かめます。
怪我をした船員がトルコの旗を指さしたことから、国賓として訪れていたエルトゥールル号の乗組員だと推測。その頃、灯台近くの海岸にも乗組員たちが流れ着き、全村民をあげての大救出劇の幕が開きます。
村民の皆さんは家にあるもの全てを持ち寄り、献身的な救助活動をしました。大島は、3つの村だけの小さな離島でした。現在でこそ串本大橋が架かって行き来も便利ですが、当時は巡航船の運行もされておらず物資も不十分。更に悪いことに、台風続きで漁もできず日々の食料にも困っていた時でした。それでも大島の人たちは、家に蓄えてあった、米・卵・サツマイモなどだけでなく、非常用の鶏すらも持ちより、献身的に遭難者の救護にあたったのです。
救護場所となったのが2つのお寺、そこにありったけのふとんや着物が集められました。暴風雨の海から、血まみれの外国人を次々と村へ運びます。想像を絶する作業になりましたが、驚き怖がるひまもなかったことでしょう。そして、生存者の救済をする最中も、海にいる遭難者の捜索が行われました。海岸には、200体以上の遺体や体の一部などが打ち上げられ、目を覆わんばかりのすさまじい光景だったそうです。
その中から息のある人を探し出し、救護所となったお寺に運びます。捜索は夜が明けてからも続けられ、656人の乗組員のうち、助かったのは69人で、収容できた遺体は239名でした。見つけられなかった348人の方々は、今でもエルトゥールル号とともに、串本の海に眠っておられるのです。
帰国を援助
遭難の翌朝、大事故のことが樫野区長から大島村長に伝えられます。その後、付近を航行していた船に大島に来てもらい、比較的軽傷だった生存者2名が神戸に。たまたま神戸港に停泊していたドイツ海軍の砲艦「ウォルフ」も救助に参加して大島に向かい、生存できた乗組員を神戸の和田岬消毒所へ搬送したのです。村長は、県を通じて政府に通報、報告を聞いた明治天皇は政府にできる限りの援助を行うよう指示します。そして各新聞が衝撃的なニュースとして報道し、義捐金や弔慰金も寄せられました。
大島の村民の手厚い救助により助かった69名の生存者は、神戸で治療を受けた後、遭難事故の20日後となる10月5日、日本海軍のコルベット艦である比叡・金剛の2隻に分乗して帰国の途につきました。翌明治24年1月2日に無事イスタンブールに入港、トルコ国民による心からの感謝に迎えられたのです。
エルトゥールル号の恩返し
話は変わって、イラン・イラク戦争が深刻な問題となっていた1985年3月17日。フセイン大統領が、突然声明を発表します。それは今から48時間後にイランの上空を飛行する航空機は無差別に攻撃する、というもの。この発表により、イラン在住の日本人が大急ぎでテヘラン空港からの出国を目指します。ところが、どの飛行機も満席で搭乗できません。
世界の国々は救助機を送り、自国民救出の行動を開始しますが、当時の中曽根内閣は航空機の安全が確保できないと言って邦人の救助を否定し、残っている215人を見捨てたのです。
この時、空港で救助を待っていた日本人の皆さんは地獄に突き落とされた気持ちだったことでしょう。しかしその時、トルコ共和国の救助機が彼らの前に現れます。そして、215人全員を乗せて国外に。無差別攻撃が開始される1時間前のきわどい救出劇でした。まさに感動的な救出劇となったのです。
日本の皆さんが救出されていた頃、テヘランに在住するトルコ人の皆さんもまだ大勢いたのです。航空機を日本人に提供し、自分たちは陸路で避難をされたとか。感謝をしてもしきれませんね。
当時、救助に向かった航空機がどうしてトルコだったのか、日本政府もマスコミも理解ができていませんでした。救助後に駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏が語ったのは「私たちはエルトゥールル号の借りを返しただけです」という言葉。
詳しくは、「エルトゥールル号の海難事故の際、日本人の皆さんの献身的な救助活動を、トルコの国民は決して忘れません。歴史の教科書でも学ぶので、子どもたちでさえエルトゥールル号の事を知っています。そのために、テヘランで途方に暮れている日本人を助けるため、トルコの航空機が飛んだのです。」ということでした。
知らぬは日本人ばかりなり、少しは見習わないといけませんね。
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2022/09/12 17:09