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古代の出雲大社はあまりに壮大だった
- 2022/04/04
出雲の地は、遥か昔から神々の国とされてきました。そして、象徴になっているのが出雲大社です。境内には荘厳な空気に包まれ、数千年という長い歴史を誇る神殿が厳かに建っています。空に向かって伸びていきそうな本殿屋根の千木を見ていると、気持ちはもう壮大な神代の世界にトラップしています。神々が集い、古代より人々から尊ばれてきたのが出雲大社なんですね。
『古事記』に記される古社
縁結びの神・福の神として知られている出雲大社ですが、皆さんは何と呼んでいますか?もちろん、「いづもたいしゃ」ですよね。しかし、正式な読みは「いづもおおやしろ」なんです。日本最古の歴史書『古事記』では、出雲大社が創建された由縁が記されているほどの古社。実は、明治時代初期までは、杵築大社(きづきたいしゃ)とも呼ばれていたんです。出雲大社の主祭神は、だいこく様として日本人には馴染みの深い「大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)」です。因幡の白兎のお話で、傷ついた兎を手当してあげた神様ですね。そして『古事記』には、「国譲り神話」が書かれています。
大国主大神が、高天原に住む天照大神に国を譲ることになります。その際に造営された壮大な宮殿なのが、出雲大社の始まりとされているんですよ。因みに『日本書紀』においては、この壮大な宮殿を「天日隅宮(あめのひすみのみや)」と表記されています。
国家的な大事業
前にも述べましたが、出雲大社の創建に関しては、『古事記』や日本神話などによって伝承が語られています。お話の始まりは「国譲り神話」、大国主神が国譲りに応じる条件としたのが、我が住処となる出雲大社を、太く大きな柱を使って天に近い高所に造り、千木が空高くに届くような立派な宮を造ってください。さすれば、そこに隠れています。と述べたそうです。「古事記」では、この言葉に従って、出雲の「多芸志(たぎし)の浜」に「天之御舎(あめのみあらか)」を造ったとされています。「日本書紀」によると、日本神話に出てくる神様の高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は、国譲りに応じた大己貴命(おおあなむちのみこと)に、あなたの住処となる「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を、千尋という大きな縄を使い高く太い柱の上に、厚く広板を敷いて造り、天穂日命(あめのほひのみこと)に祀らせようと述べました。この大己貴命は、大国主神のことですね。
更には、『出雲国風土記』においても、大国主神の宮となる「天日栖宮(あめのひすみのみや)」、つまりは出雲大社のことが記載されています。その他、様々な古い文書においても、伝承の内容や大社の呼び名は変われど、共通して「天津神(または天皇)」の命によって、大国主神の宮が建てられたということが記載され、出雲大社の創建が、単なる信仰によって鎮座するのではなく、古代における国家的な事業として行われていたものだと想像ができますね。
古代の出雲大社
現在、出雲大社の本殿は延享元年(1744年)に造営されたもので、その高さは約24mです。しかし、出雲大社に代々伝わっている社伝によれば、太古の出雲大社本殿の高さは、現在の4倍となる約96mもあったそうなんです。まさに太く大きな柱を使って、現在の30階クラスの高層ビルと同じ高さの出雲大社を作り上げたということなんですね。本殿の後ろにそびえる八雲山の高さが約100m。ですので、山の頂上付近に屋根の先端となる千木が見えていたと考えると、現代においても圧倒される高さだというのがわかりますね。平安時代中期において貴族の子弟に使われた教科書「口遊(くちずさみ)」によると、「雲太(うんた)」・「和二(わに)」・「京三(きょうさん)」という文字が記されているそうです。これは、当時の建物の高さベスト3を書いているのもらしく、「雲太」とは出雲大社本殿を示し、「和二」は東大寺大仏殿、そして「京三」は京都御所の大極殿のことだとか。当時出雲大社の本殿が、日本一の高さを誇っていた事が明らかです。
この出雲大社高層説は、明治時代から様々な面での研究が行われ、古代の技術ではそれほどの高さの木造建築は不可能だと言われてきました。しかし、なんと2000年のこと、本殿南側において三本の巨大な木を一組にした、とてつもなく大きな柱根が発掘されたのです。古事記などの古文書に書かれている、巨大な神殿の存在を裏付ける発見となったのです。
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