参勤交代制度の始まりと終わり。最後はグダグダだった…

『園部藩参勤交代行列図』の一部(南丹市文化博物館蔵、出典:wikipedia)
『園部藩参勤交代行列図』の一部(南丹市文化博物館蔵、出典:wikipedia)
江戸時代に各大名家に大きな負担を強いた参勤交代制度、しかしどうもこの制度は江戸時代に始まったものでもないようです。

「参勤」と「参覲」

参勤交代は「参勤」とも「参覲」とも書きます。「勤」の字は勤め上げることであり、具体的には軍役による奉仕を意味します。つまり総大将の号令一下粛々と従軍する事ですね。

対して「覲」の方は、「秋に諸侯が天子に謁する礼」を意味し、権力者への拝礼のために御前に伺候することで、元をたどれば中国は周の時代の儀礼に行き着きます。江戸時代の書物では、こちらの「参覲」表記を使い、将軍との主従関係を強調しました。

いずれにしても江戸時代大名たちは江戸に正室と世継ぎを住まわせねばならず、国許との往復と江戸での滞在費に多大な出費を強いられ、経済的体力を削られていきます。

始まりは鎌倉時代だった?

鎌倉時代にも似たような主旨の制度がありました。鎌倉幕府と御家人は御恩と奉公の関係でつながっています。その奉公の一つとして、定期的に自分の領地を離れて幕府の在る鎌倉を警備する「鎌倉大番役」と、朝廷の在る京都を警備する「京都大番役」が課せられていました。

時代により任期は変わってきましたが、鎌倉時代中期では半年交替です。大番役は将軍や執権のお膝元で暮らし、生活費も自前でしたから江戸時代の参勤交代と同じようなものです。

室町時代になると、三代将軍足利義満のときから、守護大名とその子息は京都、つまり将軍の目の届くところで生活をさせられます。結果、領地のトップである守護大名は京都に居続け、替わって守護代が領地を治めました。

こうなると、実際に土地と強く結びついた守護代の方が力を持ち、下剋上の下地が出来上がりました。応仁元年(1467)に起きた応仁の乱を契機として幕府の命令は力を失い、この制度は形骸化していきます。

信長や秀吉も倣う

その後に登場した戦国大名たちもそれぞれの領地内で似たような制度をつくります。薩摩の島津家・越前の朝倉家などは、領内の家臣を自分の本拠地である城に参勤させたり住まわせたりしています。

織田信長も支配下の大名たちに元日の御礼を求めていますし、自分の元に参勤させる制度もつくろうとしていました。しかしこれは信長自身が戦で転戦を重ね、せっかく築いた安土城ごしに落ち着ける間もなかったので計画だけに終わってしまいます。

豊臣秀吉は大坂に大坂城、京都には伏見城と聚楽第を築き、周辺に徳川家康や前田利家・伊達政宗など有力大名の屋敷を建てさせ、彼らの妻子を人質として住まわせました。これらがのちの参勤交代の原型となっています。

秀吉は従わない大名には武力行使をちらつかせ、徳川家康に対しては実母の大政所を人質に差し出してまで上洛を促し、臣従の証を求めました。

気を利かせた大名たちが自発的に行う

秀吉死後の慶長8年(1603)、家康は江戸に幕府を開き、先例に倣って参勤交代の制度を取り入れようとします。最初、家康ははっきり「江戸へ来い」とは言っておらず、豊臣家の先例に倣って大名たちが自発的に江戸へ挨拶にやって来ました。

さらに一部の大名は懇意にしている幕府の人間から、家康への臣従に疑念を持たれぬよう、江戸へ家族を置くように勧められます。すでに多くの有力な大名が江戸屋敷を持っており、大名たちの正室と子息・有力な家臣の子弟が江戸で暮らし始めます。

命じられるのを待たずに自ら先を見て行なう、ここが大事なんですね。

ついに成文化

幕府は寛永11年(1635)8月に、まだ妻子を国許に置いている譜代大名に江戸へ移すよう命じます。次いで翌寛永12年、三代将軍家光の時代に、『武家諸法度』により参勤交代制度は明確に成文化されました。

すなわち外様大名に対し、

「大名小名とも江戸に交代で住むべし、毎年4月中には参勤致すべし。近頃従者の人数が多く人民は疲弊し、国の費えもかさむであろうから、今後は分相応に致すべし。ただし上洛の時は公役であれば、決まり通りに致すべし」

と命じます。

これにより、今までばらばらであった交代時期を定め、同行人数の削減も求めました。さらに寛永19年(1642)には、譜代大名も含めたすべての大名に参勤交代を求めます。以後、参勤交代制度は「武家諸法度」の改定のたび、第一条として掲げられる重要な制度となり、渋ったり遅れたりする者は厳しく処罰されました。

このように自然発生的に始まった参勤交代ですが、元和3年(1617)の頃にはほとんどの大名が参勤交代を行なうようになっています。越前福井藩の松平忠直は、病気を理由に江戸への参勤を拒み続けて居ましたが、元和9年(1623)に豊後へ流されてしまいます。

忠直の場合、参勤を怠けていただけが改易の理由ではありませんが、二代将軍秀忠の甥にあたる徳川一門の忠直でさえ処罰されるのを見て、特に関ヶ原合戦の後に徳川に臣従した外様大名たちは肝を冷やしたことでしょう。

参勤交代の終わり

江戸時代の末期になると、どの藩も長年の出費が積み重なり、財政難に陥っていきます。

嘉永6年(1853)のペリー来航以来、国防の意識に目覚めた幕府も、大名に余計な出費を強いる政策に疑問を持ち始めました。そんな無駄金を使うなら大砲の一門も備えろ、って話です。

文久2年(1862)、幕府内改革派の松平慶永(よしなが)は、新設された「政治総裁職」に就きます。慶永は参勤交代を2年に1度から3年に1度に改め、江戸滞在の日数も100日に短縮しました。

しかしその2年後、十四代将軍の徳川家茂は幕府の権威を回復するため、参勤交代制度を元に戻す布告を出します。ただ、このときすでに幕府は力を失っており、徳川御三家の尾張名古屋藩を始め、多くの藩が応じようとはしませんでした。そして慶応3年(1867)には大政奉還が行われて江戸時代は終り、参勤交代制度も正式に廃止となったのです。


【主な参考文献】
  • 山本博文『参勤交代の不思議と謎』(実業之日本社、2017年)
  • 永井博/編著『参勤交代と大名行列』(洋泉社、2012年)

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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